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涅槃経について

shoyosiの回答

  • shoyosi
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回答No.1

 正確な題名は「大般涅槃経」といい、80歳となった釈迦が、阿難(アーナンダ)と数名の弟子をともなって王舎城からクシナガラへと伝道の旅をし、自らの入滅を予感され、生まれ故郷のカピラ城へ向かわれた様子をくわしく記録したのものです。「大般涅槃経」をキーにして検索しますとたくさん見つかります。 (ブッダ最後の旅) http://www2.big.or.jp/~yba/asia/nehan01.html (其中堂にも数冊あります) http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kiraya/shinkan/shinkan6.html (東京美術) http://www.tokyo-bijutsu.co.jp/buddhism/0633-4.html

noname#2755
質問者

お礼

お礼が遅くなりましたが、どうも有難うございました。 「涅槃経」で検索していたのですが、一番上の「ブッダ最後の旅」は見つけられませんでした。解説も多く読みやすいHPで、詳しくない私としては大変勉強になりました。いわゆるお経的な文章とはちょっと違うんですね。 どうも私は小乗と大乗の涅槃経をひとつのものに混同していたようです。お世話になりました。

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