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江戸時代の税金と行政
こんにちは 江戸時代は税金(年貢?)の税率がかなり高かったような印象ありますが、 それだけ搾り取って、一体何に使ったんでしょうか? 大名行列とかでほとんど消えたんでしょうか? 現在だと、行政が予算を組んで、基本的に納税者にサービスという形で 還元しているわけですが、あの時代は公共サービスというようなものは ちゃんとあったんでしょうか? それとも単なる搾取だったんでしょうか?
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まず税率(当時は「免」という)は「五つ(50%)」程度というのが現代の常識?ですが、これは「高」に対する割合で、実際の農業生産量は「高」より相当に多かったためもっと低率でした。(少なくとも幕末においては。また「高」は一般に夏季に米を生産したものとして田の面積から計算され、冬季の生産や綿等の換金作物のことは考慮されていません) 実生産に対しての税率は大体20%かそれ以下だったでしょう。 私の生まれた所は、免は八つと日本一?の高率でしたが、実生産に対しては15%程度だったようです。 そして村を維持する経費は原則として村人の負担です。道路補修も、庄屋の事務経費も、です。つまり村人は年貢以外に「村の運営経費」を負担しました。 領主からは治水や灌漑の工事費等、高額なものについては負担しています。このあたりは藩により、村によって事情が違っているとは思いますが・・・ もうひとつ私の村のことを書きますと、幕末に江戸警備等に動員された村人には日当が出ています。賃金として十分な額だったかどうかまではわかりませんが・・・
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- Pinhole-09
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いわれる通り、参勤交代制は各大名につって、大きな財政負担でした。 例として1665年の鍋島氏の参勤の年の予算を見ます。 大名行列の予算が全支出の20%,江戸屋敷の費用が28%、国元経費48%、その他4%とあります。 藩内に還元するのは年貢収入の50%にしかすぎません。 この中から国元の武士の給与も出さねばなりません。 しかも藩内支出はともかく、江戸屋敷の生活、道中の支出に関し、経済の発展と共に物価は上昇しますが、石高つまり収入は一定で財政破綻に向かいます。 勿論藩も幕府も参勤費用の節減に努力しますが、焼け石に水で藩財政は大商人よりの借金に頼ります。 あの手この手で年貢をふやそうとしました。 「百姓は搾ればいくらでも搾れる」ある藩の重役の言葉です。 農民一揆についての研究は昔よりされていましたが、近年も「義民と百姓一揆の研究」が出版されました。 これによると江戸時代の総件数は580件くらいです。 幕府が知ったものだけでしょうが、一揆は藩の恥で命取りにもなりますから、もみ消したものがどれ位あるか、倍くらいあるのではないでしょうか。 目的は年貢がきつい、まけろは意外にも少数派です。 多くは年貢役人や村役人の年貢徴集の不正に関する不満です。 察するに藩の命令による、年貢の過徴取立てを下級役人のせいにしたものではないでしょうか。 一揆の筆頭は暮らしには困らない裕福層の庄屋クラスの農民です。 食うに食えない村の水のみ百姓(小作農)のため命を投げ出したわけです。 私の地元は北関東残念ながら、貧農ではありませんでしたが、明治時代でも米をろくろく食えない小作農もいました。 「江戸時代はひどかった」はひどい明治時代を我慢させるための言葉でした。
お礼
ついこの前、ニュースのタイトルで、『5公5民並み』とかいう、重税感を形容しているものがありました。実際江戸時代はそれほど重税感があったわけでもないということなんですね。ありがとうございます。
- ss79
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基本的に大きな誤解があります。 江戸時代の石高制では土地は領主に与えられた領地で農民の物ではありません。 領主から借地して耕筰しているだけで年貢はその使用料という考えが根底にあったのです。 この考え方は次第に修正されてきましたが基本的には存在していたのです。 また領主は軍役という義務が課せられ戦争になれば石高に応じた兵員と装備を差し出さねばならない定めでした。 これにはお金も人件費も必要です。 これを賄うため農民に年貢を課したのです。 平和になってこの必要性は形骸化しましたが武士は官僚として必要で他の制度も残っていました。 これらの人件費は固定給で先祖から代々保証されてきたものです。 従って領主はその財源を確保するため収入源を年貢に求めるのです。 年貢の公称率は一応50%が平均的でしたがこれを高率とみるかどうかは見解の問題です。 江戸時代も後期になると財政に窮迫した諸藩は節約にも勤め参勤交代の費用もともの人員を操作してアルバイトで埋めるなど工夫をこらしたようです。 当時公共サービスにあたるのは治水工事や殖産の奨励くらいでしょうか。 反対給付の乏しい税は搾取というのなら搾取かもしれませんが実態は封建制度では普通の事でした。
お礼
なるほど。軍役というものがあったんですね。 ありがとうございます。
- Tacosan
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#1 とほぼ同じですが, 「江戸時代はひどかった」というのは, 明治になって (新政府を正当化するために) 作られたものだって話もあります. 実際にはいわれるほどひどくないとか. もちろん飢饉になれば人は死にますが, それはヨーロッパでも同じ.
お礼
そうなんですか。ありがとうございます。
- mii-japan
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数日前の質問の回答に参考になることがあります 歴史教育の関係で大きな誤解がありますが、江戸時代の年貢は見かけは高率ですが実質はそれほど高くありません 公共サービスというのは、ここ半世紀の概念です 19世紀以前には公共サービスなどという概念はありませんでした 民衆の自己責任で対応していました 江戸町奉行所の役人は奉行以下全員で300名弱です それが百万都市江戸の、今で言えば 都知事以下都庁職員+警視総監以下警視庁警察官+区役所職員の全員です 石川英輔著 「大江戸**事情」シリーズ(講談社)をお読みになることをお勧めします
お礼
>民衆の自己責任で対応していました >奉行以下全員で300名弱です そうなんですか。そうすると、ますます、なんのために年貢を払わされていたのか 理解できません。暴力団のみかじめ料とおなじようなものですか? ありがとうございます。
お礼
なるほど。実際には20%以下だったんですね。 ありがとうございます。