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四十九日の起源は?

「霊」は存在する、と言う方にお聞きします。   仏教では、死者は、四十九日で「成仏」するとされていますが、 それは、本当にそうなる、と昔の霊力のある方とかが 確認して決められた日数なのでしょうか?  それとも、なにか、昔の習慣とかによる都合とかでしょうか?

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  • neil_2112
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回答No.4

この質問はいろいろな意味でむずかしいですね。 ちょっとややこしい話になりますが… まず、はっきり言ってしまえば、四十九日というのが仏教で定着したのは、5世紀のインドのことで、バシュバンドゥという僧侶が中心になって書いた「倶舎論」という解説書がそもそもの始まりになっています。 仏教のこまごました数字のほとんどはこの本に出所があって、今でも仏教研究者の絶対必読書ですが、この中に大体次のようなことが書いてあります。 ・全ての生き物は三つの有(う)を生きる ・三つの有とは、本有、中有、当有である ・本有とは今の生。当有は次の生。中有は死んでから次に生まれ変わるまでの期間のこと ・中有は7日を単位にして、最大で7回繰り返される ですから、(最長で)四十九日というのは、はっきり言えばここで決まった、とまず言うことができるでしょう。チベットにはインド、ネパール経由で仏教が7世紀頃に伝わっていますから、チベットの四十九日も基本はここです。 ただ2つどうしても補足しないといけません。 ひとつは、#1のstarfloraさんも書かれているように、この「生まれ変わり」という考え方は、もともと仏教の教えにはないことです。バラモン教とかジャイナ教など、インド土着のいわば民族宗教色の強い宗教の影響があるということですね。 お釈迦さん自身はこの世の事だけを語り、生まれ変わりというものを肯定していませんから、その意味では「中有」は非常に非・仏教的な存在であるといってもいいでしょう。お釈迦さんが亡くなってからバシュバンドゥまでの千年足らずの間に、大きな変化が起こったわけです。 ある有力な説では、バラモン教が昔死者のために10日間食べ物を供えるピンダ・ピットリャーナという供養祭をしていたのですが、これが基本になって密教的に変遷し、バシュバンドゥにおいて体系化されたとされています。 もうひとつ、本当に「成仏」するかどうか。結論的には、ちょっとまだ、というところではないでしょうか。完全に成仏すれば、インドで現にそうであるようにそれ以降の仏事はなくてもいいはずですが、中国や日本では、四十九日では供養は終わりません。 百か日、1周忌、3回忌などが中国で成立しましたし、それ以降の法事(7、13、33回忌など)は全て日本でできたものです。少なくとも、四十九日で完全に成仏した、とは日本人は受けとめていないのでしょう。日本人にとっての成仏とは、故人の魂がだんだんと鎮まっていき、やがて穏やかな先祖霊になることを指すからです。 我々日本人には、「49」という数字に具体的意味が感じられないこともあって、四十九日を過ぎてからさらに長い期間をかけて供養を続けるうちにゆっくりと魂の荒々しさがとれていく、と考えられているのが現状でしょう。 (長くなって恐縮でした)

blueyellow
質問者

補足

かゆい所に手が届く回答ありがとうございます。 しかし、なぜ「七日ごと」なんですか? その頃は「七進法」しかなかった・・・とか? インドって、神秘的でごちゃごちゃの印象がありますが、 根本は「論理的」ですよね・・・。数学者とか多く いませんでしたっけ?それこそ「インダス文明」とかの頃から。  ご存知でしたら、補足回答お願いします。

その他の回答 (6)

  • neil_2112
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回答No.7

三たび失礼します。 数字の起源について、#6でstarfloraさんが「現実性」と「象徴性」に分類して整理されていますので、これを受けてちょっと補足させてもらいます。 私自身は先にも書いたように、「7」の象徴性をとりたいと考えるのですが、その理由は現実性の方の根拠が少し薄いと思えるからなのです。 どういうことかと言いますと、 まず一番に… インドでは49日前後で肉体が白骨化するのは感覚的にも納得できるのですが、それが数字にまで一般化すると考えるなら、starfloraさんも留保をつけているように、やはり「放置される」という前提に確度が必要です。問題は古代インドの葬法になりますが、中国の「釈子要覧」(確か9世紀頃の著作)には、「古来印度には火葬、水葬、土葬、林葬(今でいう風葬)の四葬あり」と記されています。これらから察するに、ヒンドゥーなど自然崇拝思想をもとにその土地に応じた葬法が選択されていたことを伺わせます。 林葬以外は白骨までの状態を目にすることはそう一般的ではないでしょうし、火葬ですら黒く焼いた程度で遺棄する例が現に多いのですから、白骨になるまでの期間について数字の共通認識ができるほど一般的だったか、ちょっとにわかには首肯しがたいのです。 加えて、白骨化するまで待っていたとして、その白骨に何らかの宗教的意味付けがあるかと言えば、現在知られている限りでは何もありません。日本なら、骨洗いなどの習俗もあり、また荒魂思想を背景にして、肉の穢れが落ちた姿を一種の解脱になぞらえて理解する習慣が現にありますから通じやすいのですが、果たしてインドで白骨が49日という習俗のベースになり得たのかどうか、ちょっと理屈が飛躍するように思えます。 第2に、7日間の「死亡確認期間」説について。 確かに医学の未発達な時代、死んでいないものを死者扱いし、「蘇生」した例は多いでしょうが、49日はあくまで 「死んで」から始まるものです。つまり、心臓と呼吸がとまり、体が固くなり、さらには腐臭がして初めて共同体の中で「死」が納得され、そこから始まるのが葬送儀礼です。 starfloraさんも書いている通り、日本では「魂呼ばい」とかさらには「モガリ」の伝統が「死にゆく魂を蘇生させる」術として理解されています。これは折口信夫から宮田登、井ノ口章次らに脈々つながる定説でしたが、ここ30年ほどは深刻な疑義にさらされてもいます。 それは、例えば「何年にも及ぶ天皇のモガリをどう説明するのか?」であり、また「恐らく何千、何万件に一例ほどの蘇生例に、何百年も日本中で蘇生術を習俗にさせるほどの説得力があるのか?」というものです。 五来重など反対論者にいわせれば、「モガリは死と生のグレーゾーンで行う蘇生のための習俗でなく、死が確定してから始まる鎮魂儀礼だ」ということです。 恐らくインドについても同様のはずで、いくら古代人と言えども、常識的には腐臭がした死体に蘇生を期待したはずはないでしょう。私もインド南部でフィールドスタディをしたことがありますが、一般民衆の「死」の判断は、まず心停止、呼吸停止、さらに死後硬直まで待って下されていました。例外はあるでしょうが、不可逆の死の進行が誰にも納得されて始めて、遺族は亡骸を焼くことができるのです。 以上のような理由から、「7」の根拠を具体的なものに求めるのは無理だと思えます。 私なりの結論としては、starfloraさんが後半で述べておられるように、「7」という数の象徴性、神秘性、抽象性に意味があったものと私には思えます。インドという国は自然が自然らしくふるまう分、かえって人は自然の影響を受けずに超然とした「抽象的な数」に託するものがあったのではないでしょうか。 (大変長くなって申し訳ありません)

blueyellow
質問者

お礼

3度もの対応、ありがたいです。  一見、ありそうな事も、詳細に考える事によって、 「本当にそうか?!」と、多角的に見られるものなんですね。  シロウトの私には、真相はわかりませんが、 「月の満ち欠け」はやっぱり、納得はしやすい感じするんですが・・・。 「月・火・水・木・金・土・日」の発想はインドではないんでしたっけ? 「曼荼羅」でなく中国とかの陰陽道かな?これも「7」ですね・・・。 とにかく、昔の人には、重要な数字だった、と言う事はわかりますよね。

  • starflora
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回答No.6

    まず、七日という数字はどこから来たのか、わたしは知りません、と答えます。あるいは調べると、その起源や理由の記載が出てくるかも知れません。しかし、こういう場合、先に事実があって、後から説明が付いていることがよくあるのです。つまり、先に、七日ごとの供養儀式があって、その理由付けで、後から説明を付けたのが、何が先か分からなくなるということが多くあるのです。     最初に、どこで聞いたか読んだか忘れたのですが、49日というのは、大体50日か40日ぐらいで、自然状態で放置された死者の遺骸は、インドなどだど、肉の部分が溶け落ちて白骨に近い状態になり、ここから、完全に死者の領域に去った、この世とは違う位相の世界に移行したのだというので、この49日前後の数字が意味を持っていたという話があります。また、七日も、一日や二日では、インドなどだと、腐臭もしてくるし、身体も少し崩れかけはじまるが、まだ息を吹き返すことがあり、また、四日五日六日ぐらいでも、息を吹き返すことが時たまあったという事実があります。昔は、人の「死の確定判断」が難しく、「仮死状態」になったのを死んだと思うことがあったのです。死者の世界から帰って来たという話は、この仮死状態からの甦りの経験である可能性が高いです。     火葬をしなかった状態では、五日六日ぐらいしても、身体が腐臭を発せず、崩れもせず、ふと仮死から甦るということもあったのです。しかし、それも限界があり、身体が明瞭に崩れかけ出す七日目頃を境に、区切りが自然に感じられたということがあったのだと思います。日本古代の習慣で、「もがり」というのがあります。この場合も、遺体を横たえ、もがりの儀式をして、魂よばわりしていると、時に、仮死状態から甦ることがあったのです。庶民の場合、すぐ埋葬するので、仮死状態のまま埋葬で、土中で息を吹き返して窒息死とかいう例も、つい最近まで、かなりあったようです。     七日は、実用的には、遺骸が崩れ出すことが明確になる日数で、49日は、遺骸から肉が溶け離れ、骨が露呈する程度の日数ということです。     これが四十九日の七日の七回の考えられる合理的理由です。     これ以外に、古代の文化においては、どこでも「神秘数」とか「永遠数」というものがあったのです。何か重要なことには、この神秘数か永遠数を使ったということです。神秘数は、1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12……とあり、これ以降は、42が神秘数だとか、64が神秘数だとか、色々と派生的な神秘数があります。     1と2は、何の神秘数かは、意味が多すぎます。3は、男性神秘数という捉え方が出来ます。4は、女性神秘数としてこの場合、捉えられます。3は、過去・現在・未来の時間を示し、4は東西南北の空間を示し、この合計の7が宇宙神秘数だという説明もあれば、空間は左右前後上下と、中心の点の七つから構成されていて、7こそ宇宙数だという説もあります。     暦だと、太陰暦では、大体一ヶ月が28日ぐらいになります。これを四等分すると七日になる訳で、太陰暦の暦では、七日をユニットとする合理性があったのだと云えます。七日ごとに勘定して行くと、四回で、月の満ち欠けが一周するのです。新月から半月へ、また半月から満月へ、それぞれが一週間、七日だということになります。     バビロニアの60進数は、2,3,4,5、10の倍数になっており、割ることが容易であったので採用されたもので、これは割ることについて便利なので、いまでも天文学や、時間の単位で60進数が使われています。また、60の6倍が360になり、一年の365日と非常に近いので、太陽暦では、60進数は都合がよかったということもあります。     7は、ピタゴラス教団でも神秘数として尊ばれていたとか、完全数の6に1を加えた完全永遠数が7だとか、世界の文化で、神秘数はたくさんあり、その適用例も無数にあります。(世界の七不思議とか、七人の英雄とか……)。     四十九日の七日は、仮死状態であったとしても、限界の日数。49日は、遺体の状態が、「移行」の完了を示す期間の大体の目安を、神秘数7の7倍で表現したのだということが、とりあえずの説明です。しかし、別のそれらしい説明があるかも知れません。  

blueyellow
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 <七日ごとに勘定して行くと、四回で、月の満ち欠けが一周するのです。 ・・・コレ、なんか、シロウトには納得しやすい現象ですよね。 (本当にコレが七日ごとの理由かどうかは別として)  「死」の反対の「出産」のときも、そう言えば「28日」を 1ヶ月として数えますモンね。昔から、いや、昔だからこそ(?) 月の満ち欠けと妊婦の様子がシンクロしてると、ありありと わかっていたのでしょうか?  物理的に腐敗する日数説も、おもしろいと思いました。

  • neil_2112
  • ベストアンサー率73% (196/268)
回答No.5

補足について。 なぜ「七」なのか、これはほんとに難問ですね。 責任上書かせてもらいますが、推測になることはご承知下さい。 まず、その「倶舎論」の中には「中有…極は七七日なり」と記されているだけで、根拠は示されていません。この本には、例えば「七識住」など、心の働きや世界の構成の分析に何度も七という数字が出てきますが、残念ながら中有とは無関係のものばかりです…。 私見では、「七」は、「大きすぎず小さすぎない素数である」ということがポイントだったのではないかな、と思っています(思う、だけで根拠はありませんが)。 「倶舎論」もそうですが、ある原理を説明しようとした時には「3、5、7…」などの素数が出てくるのは割りと自然ではないかな、と思えます。還元的にどんどんミクロに世界なりシステムの成り立ちを分析した時に、観念ではどこまでも際限がありませんが、もうそれ以上分割できない素数が出てくれば、ある意味、議論をそこで止める力を持っているように思えるからです。 想像ですが、3では小さく11では大きい…といった時の落ち着きどころが7であった、のではないでしょうか。 一方で七七のように数字を二乗するのは「沢山」という意味が表現されているのでしょう。三拝九拝という言葉もありますが、中国では礼拝を(素数倍である)三倍することを丁寧な礼拝とし、それをさらに三倍行う九拝を最上の礼拝としていますよね。 以上、全くの私見です。インド思想の専門家の方のお力をお借りしたいところです。

  • una045
  • ベストアンサー率28% (121/424)
回答No.3

先に書いていた人のことも含め、 宗教上の観念に基づくものだと思うし 科学的根拠はないようですね。

blueyellow
質問者

お礼

回答ありがとうございます。  科学的根拠があれば、納得しやすいんですけどね、 めんどくさいと感じる事も。  私は「霊」の存在は否定しない派なので、 正確な「霊」の状態が知りたいんですよね・・・。

  • una045
  • ベストアンサー率28% (121/424)
回答No.2

はじめまして。 迷信かもしれないし仏教を勉強したものではありません。すいません。 昔おばあちゃんが、 人は死んだら 生きていた頃のその人の行いによって 天国に行くか地獄に行くか閻魔様が決めるんだけど その発表が死んでから四十九日目だと言っていました。 その日にお経を上げたりお祈りするのは その人身の振り方が決まる時に 天国に行かせてあげてください。この人をどうぞよろしくお願いします。 ということをみんなでお願いすることだといってました。 その頃は成仏なんてどう言うことかわかりませんでしたけど。

blueyellow
質問者

お礼

回答ありがとうございました。  みんなでお願いする・・・というのは お経を唱えるのを一生懸命しなくちゃ、と思えてイイですよね。 身近な人のなら、なおさら。

  • starflora
  • ベストアンサー率61% (647/1050)
回答No.1

    これは元々、仏教とは別のインドの葬送の儀礼で、七日ごとに、追善供養を行って、来世の生まれ代わりの幸を祈ったもので、七回この供養を行い、その七回目、つまり死後四十九日を過ぎると、転生が確定すると考えられたものです。     インドに興った仏教のなかに、この輪廻転生の中間期間の考えが取り入れられたものです。この四十九日間を、「中陰・中有(ちゅうう)」とも呼びます。つまり、次の生にも移行しておらず、まだこの生の延長にあるということです。日本では、この七・七日の追善供養は、平安時代に盛んになり、一般に行われるようになりました。     中有の最終日、四十九日目を、満中陰とも言います。中有は、ティベットでバルドとも呼ばれたはずで、『ティベットの死者の書』は、このバルドの期間に、死亡した者が、よき転生を得られるよう、何に出会い、どう対応すればよいかを詳細に説明した文書です。  

blueyellow
質問者

お礼

回答ありがとうございます。  元はインドの習慣だったんですか・・・。 なんで「7日」ごとなんですかね? 1週間も「7日」。これの起源もインドなんでしょうかね? 不思議です。 「満中陰志」の語源もここにあったんですね。 勉強になりました。

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