• 締切済み

自ら死を選ぶのはよくないことか?

summer_lunchの回答

回答No.28

>臓器提供に関しては、こちらが生きてる間は必要ですから・・ そういう意味ではなく、生きている身体を使って「奉仕」すると言う意味ですよ。自分をないがしろにするわけでは無いのです。しかし、臓器提供にこだわる話にすると、もしあなたの子どもにあなたの心臓が必要だったら、可能「ならば」差し出しますか? こういう・も・し・の話は非常にうといもので、分析しているわけでもなく、全体を観るわけでもなく、想像を膨らますという思考です。夢をみていると言ってもいいでしょう。しかし、死というのは現実ですので、夢を語っていたのではなんにもみえません。 奉仕と言うのは、自分をないがしろにする行為ではけっしてありません。あなたの心臓を寄付して、さらにあなたは働けないでしょう? >心が広いのではなく、理解しようと努めているのです。 忍耐の心と言うのは広い心と、私は思います。そのような心は、あなたを大いに助ける事と、感じます。私の話はずいぶん荒っぽく、申し訳ないと思っています。異物を理解しようとしてくださる事で、あなたの思考が動くという所がすばらしい。あなたがあなたを動かしているわけです。 タオイストは知りませんが、ギリギリでも、会話が繋がっているのはあなたの忍耐のおかげです。 >一般の方々は、「私がその立場になれば、賛成、反対、わからない」のどれかに「分類」される回答をしてくれる物です。が、あなたはそうではない。その状況が想像できないという事はないでしょう。  実は想像できないのが私の事実です。嘘はつきたくありません。その立場になる事は、できないのです。未来の私に、今の私がなる事は出来ず、想像の私に現実の私がなる事はならず、「仮定の世界に、現実の私が生きる事は出来ないのです。」 つまり、そこでは仮定の私という者を想像せねばならず、それは非常に困難を極めます。自分自身の設定をせねばならず、その参考のためには今、現実の自分を分析せねばならないからです。はたして、分析し切れるでしょうか?  しかし、今というものは、その構成の一つである「時」を一つ例にとってみても、分析するような者でもないし、はかれるような者でもありません。瞬間や、刹那という極小の時間単位ですら、さらに小さくわけることができ、それでも、「今」というもののみを、取り出す事が出来ません。つまり、指で指して、これが今の私だ!と言う事は出来ないのです。  今は永遠だからです。何千億年の寿命の宇宙が、何兆光年繰り返そうが、「永遠には追いつけない。」 「すでにあることが永遠なのです。」 今、あなたがすでにあなたであると言う事は、人間の作り出した概念でははかる事が出来ず、又はかるような者でもなく、それは永遠である。そのため、私は、「今を見つめないものは傲慢だ」と言っているのです。その人はその人に対して、らしからぬ嘘の態度をとっていたのです。 「今」や「あなた」は計り知れません。 >「私は、安楽死は反対だよ。無理な処置もせず、ただ自然に任せるのが一番」と、ご回答であれば、わかるんですけど・・・  当然違います。無理な処置であろうがなかろうが、自然環境に任せようが任せまいが、体か侵食され朽ちるのを見送ろうが阻止しようが、安楽死のつもりが失敗して生き地獄、であろうが、想像の未来や過去、仮定は虚構であるから、今の現実のその人には当てはめれないということです。 >・・・となれば、自身での判断が一番無理がないと思うのです。 いかにして判断するのでしょうか?例えば、「内なる声が聞こえた。だからそうした。」と言う人は、いかにしてそれが正しいと認識し、いかにして自分はそうすべきだと判断したのでしょう。 ~だから、~です。というのは、ごくフツーの考え方ですが、実は、理由が事実なのです。 ですから、「思ったときにはすでにしています」 何故ならその人は、今に生きるからです。 すでに生きている、すでに死んでいる、死にながらすでに生きている、生きながらすでに死んでいる。皆、永遠です。 >良くも悪くも、人間は自然から離れた物になってしまいました。 その通りと、わたしも思います。善いも悪いも無いですが、自然から離れました。 おのずからしかり。ばばくさいことをいいますが(笑、自然とはその意味で使いました。 おのずとはその人の事であります。 あなたが自然体であると言うのは、あなたがおのずから、しかるべきありようであるということです。

noname#4470
質問者

お礼

子供へ心臓の提供ですか?その代わりに自分が人工心臓で生きられれば、否応なく 提供しますね。  それから、一つ前のところで、「私がその立場であったら泣きます」とお答えがありましたが、泣くだけでは何も解決はしません。泣いた上で、どうするかが大事だと思いますねえ。泣くのは喜怒哀楽の感情の表現です。怒っただけでも問題は手つかずで残ってます。  死ぬ人間と周囲の人間の権利の優先という言い方を、私はしました。同じ意味のことを、したのかたも述べてます。こう言い換えましょう。自分で死ぬエゴ。自分で生きるエゴ。人を生かさせるエゴ。人の死を黙認するエゴ。死を目前にしたとき、このいずれかに別れます。人は生き死にを自らの手でコントロールできるようになりました。ある意味では、自然死という物は成り立たないのです。では、この中で、エゴ度の低い末尾からじゅんに並べて見よ。と。  未来の姿が想像できないとのことですが、そうだとすれば、問題があるよう思います。まず、「想像できない」のがあなた自身の、能力的に苦手なことであるか。 あるいは「未来を想像することが、傲慢なことであるからやめよ」ということであるか。   前者であれば、苦手な分野なのになぜ回答をされたのか。質問に答える必要十分な条件が満たされていたのか?  後者であれば、未来を意識せず、その瞬間と過去のみで生きよ。未来の自分像(夢や、希望、理想像、目標の達成など、なりたい姿を思い起こすポジティブなことも(死ぬことを思い描くと同じように)傲慢行為だからしてはならない。ということになりますね。動物と人間の違いは未来を推測し行動をとれるか。と言う点が上げられるますが、したがって、自然から離れた人間は、自然に戻るべく未来を想定し分析することは傲慢である。と。   >>いかにして判断するのでしょうか?例えば、「内なる声が聞こえた。だからそうした。」と言う人は、いかにしてそれが正しいと認識し、いかにして自分はそうすべきだと判断したのでしょう。  これはまた、パラドックスなこたえですね。あなたのご意見は「あなた自身が良いから」と思うからこそ、ここにお答えいただいた訳でしょうが、いかにしてそれが良いと判断なされたのか? 「すべてのクレタ人は嘘つきである」みたいなことになります。  二つ特殊性があるよう思います。一つはあなたの文章表現です。私は本は読みますし、そこそこ読解力はあるつもりですが、正直申し上げまして、お手上げです。 もう一つの特殊性~あなたの信条が、非常に特殊な物であっても、文章が的確であればその特殊な信条も理解できると思うのですが、両方ともに特殊であるがため、ダブルでわからなくなっています。

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