• 締切済み

自ら死を選ぶのはよくないことか?

summer_lunchの回答

回答No.25

>私はすべての臓器を提供する臓器提供意志カードくらいはいつも持って歩いてます。これは、死に魅入られた行為ですか?  それは、自分の死体を他者に利用してもらう事で、自分の死に何か意味を持たせようというもくろみですか?手前勝手なボランティアの様に感じます。ほんとに他人のことを考えているものは、「生きているからだをさしだす」。 >あなたは運命決定論を語っているのでしょうか?次ぎに出るさいころの目は、宇宙の誕生以来すでに決定しているという?  さて、あなたの語る考えで、これからあり得るべき未来・・・   私が今だ今だ今だと、再三十ぐらい言っているのに、あなたは次や未来と言う、。 あなたが「さよなら」と言うと、私は「こんにちは」ってぐらい、意気投合してますね。 運命と言うのは、当事者(主体)がいてはじめて成り立つような概念です。運命だけがまわるような事はないのです。もし、あなたが運命を、非常に他律制御的であると感じるならば、勘違いです。運命は切り開くと言うのも人間的で傲慢ではありますが、魅力も感じます。生命力が感じられます。あなたの言う未来に、・今・あなたはいるのですか? >直ちに遺書を書くことをその人に勧めます。自分であれば、それを望みますから。 あなたはそうではないでしょうが。 私なら泣くんですかね。その時にはその時の私がいます。彼女に任せればいいです。「もし」そうなら、彼女は「すでに泣いている」でしょうから、。 今には今の私がいるのです。あなたについても同様ですので、今ということを意識するべきだと言っています。  自己の欲求を他人に当てはめるのではなく、自分のことのように他人を思うのですよ、。自分の事を思えない人には、私は、「今」や「あなた」とかを連発します。自分のことを思えない人は、いらぬおせっかいを人にやくものです。 わたしのことをいらぬおせっかいと思われているかもしれませんが。 自分のことを知るというのは、ソクラテスもあっぷあっぷで、別に彼がえらいとは言いませんけども、謙虚な姿勢で学べる事もいっぱいありますよ。   >私もその時が来れば同様にするでしょう。 さぁどうでしょう。人の気は移り気ですから、。流れる季節のように優雅、哀寂で透明感とリアリティがあればいいんですけどね。お父さんはそうした、私もそうするだろう。というのはあなたの姿勢ですか?   >延命処置の拒否が消極的ながらも安楽死、ひいては自死の前庭であることを、ご確認ください。  了解しました。自死の前庭とは、素敵詩的な表現をなさいますね。 (50、60歳で病室に入ることも延命行為?) 病室で親子、話せる日を、私は否定しません。しかし、あなたには死に目に会えるような親御さんがいるではないですか。そこで思うことは、あなたの死でもあり、もちろん親御さんの死でもあるでしょう。私には、死に目に会えるような親もいないのですが、いつまでも子どもであると言うのは素敵な事です。   >培養液の中で生きながらえることができるようになれば、それも生きることゆえ、当たり前であると。  「当然」のことをおっしゃているのか、「当たり前」とおっしゃっているのか、二者は意味もニュアンスも違いますが、こういうところで文字るのは労力がいる上に意思疎通が薄いので控えます。私の言う当然とは自然に近いと思ってください。原始的なのではありません。自然体と言う意味です。ふつーとは違います。   嫌気もささずに、広いお心でお話を聞いていただけて感謝しています。     苦は避けるような者ではありません。きっと反対されるでしょうが、。 苦しまずに子を、おのずから産める事は無いでしょう。 苦は浄化であるというと、宗教的で、非論理的で、盲信的な話と感じられるかもしれませんが、そうであるかもしれない程度に思ってみてください。これを説明する力は今、私にはないでしょう。そんなことまで言ってしまいますが、あなたにお聞きしてもらえているからです。    甘えて、さらに提示したい事があります。 ・重度障害の人間には生きる意味を見出せるか?

noname#4470
質問者

お礼

臓器提供に関しては、こちらが生きてる間は必要ですから「生きてるからだを差し出す」はできませんねえ。いらなくなった時点でリサイクルに使うわけです。生ゴミとして燃やすよりは、役に立つでしょう。こんな事でしか社会貢献できませんから、私は。骨髄ドナーは「喘息持ち」なため、こちらが生きてても、受け取ってもらえませんでした。手前勝手なボランテアと声もあるから、日本でドナーは少ないですね。残念なことです。 >>嫌気もささずに、広いお心でお話を聞いていただけて感謝しています  コミュニケーションがこんなにも困難な物であるとは思いませんでした。どうしても、意味が理解できない。この質問に答えてくださった多くの方々の、ご意見は理解できたつもりですが、summer lunchさんの主張だけは理解できない。 タオイストと話をしているようです(タオは笑っている。R,Mスマリヤン 工作舎) 水とは何か?の質問に「水素と酸素が化合した無色の液体。0度で凝固し、100度で、、」という回答を期待しているのに、「形無く、常にある物、命の元であり、、、」というような答えをもらっているようです。  始め数回のご回答は、辟易しましたが、度重なるにしたがって、何とか理解しようと努力をしている自分が見えます。心が広いのではなく、理解しようと努めているのです。  私自身の理解を容易にすべく、「あなた、もしくはあなたの愛する人が、、」の質問ですが、一般の方々は、「私がその立場になれば、賛成、反対、わからない」のどれかに分類される回答をしてくれる物です。が、あなたはそうではない。その状況が想像できないという事はないでしょう。「あなたが宝くじで1億円あてたら?」想像力が乏しいと言うこともないと思うのですが。自分はいずれ年を取って死ぬから、生命保険や年金をかけてるのではないですか? 50、60歳で病室に入ることも延命行為?)年齢の問題ではありません。それはわかっているはずです。 自分の生命を他人にゆだねるのは満足か? 延命処置そのものが、自然ではない。しかし、生きると言うことは自然なこと。延命処置をしないと、自分で判断するのも、自然ではない。では、延命処置を施され、いつやめるか判断するのは、他人であり自然ではない。 となれば、自身での判断が一番無理がないと思うのです。   「私は、安楽死は反対だよ。無理な処置もせず、ただ自然に任せるのが一番」と、ご回答であれば、わかるんですけど。あなたがそう言う趣旨での回答なのか、そうではないのかわからない。    ・重度障害の人間には生きる意味を見出せるか? これは、非常に難問です。まず、見いだせるのは当人が?か、周囲の者が?かです。さらに、自意識の問題があります。yes,no、で答えられる問題ではありません。私にはわかりません。時には、その人がいるからこそ、家族が一つとなりすばらしい愛で結ばれることもあります。その反対のこともあります。 良くも悪くも、人間は自然から離れた物になってしまいました。    

関連するQ&A

  • 安楽死したい

    自死はダメはわかっている 自殺は怖いし、痛いし、苦しいイメージがありとても無理だ。 自立神経系が異常で頻尿多汗めまい下痢などなど日常生活に支障がでるほどの症状をもっている。 その上鬱病を発症してしまった。ただでさえつらい症状なのに 鬱病で苦しく治る見込みもない。原因が原因なので治らない。 失敗したことを毎日悔やみそれで自身苦しくなり過呼吸なども起きる。ひきこもりも入り日に日に悪化していく。破産が目の前に迫り 生きていく希望も失った。 一生くすりづけの人生なんてまっぴらだ。 普通に生きてりゃあと30年もありそうな人生を苦しみと薬づけで過ごすのは地獄だ。その上破産して3年後には餓死か病死だ。 世界には安楽死があるじゃないか。スイスやオランダではリセットボタンが貰えるじゃないか。死ぬ権利もあるじゃないか。 日本にはその陰すらない。 苦しんで長生きしてください。天寿を全うくださいと、天使の声で悪魔のささやき。 末期がん患者の苦しみにさえ、息果てるまで頑張れとささやく。 尊厳死でさえ現在は禁止なのだという。 親戚の叔母や同級生はその痛みに耐えかねて鬱病となり首を吊った。 それを後世の人々はがんで亡くなったじゃなく、首をくくったという。 違うでしょ、がんの痛みから逃れるためでしょ、とは言ってくれない。 安楽死を認める社会になっていくことを望みます。 社会悪となってる自死を形式的にでもなくすためにも安楽死を推奨していただきたい。 まずは議論から、国会やこういった質問サイトでよいので安楽死について可否を質問しました。

  • 安楽死 オランダでは?

    安楽死について英作文を書きます。 私は反対側の人間として書くつもりです。 理由として下記の3点をあげる予定です。 (1)15歳未満の子供の意思は誰が表示するのか。子供か?親か?  (臓器提供意思は考えの未熟さを理由に認められない) (2)安楽死反対派の医師に安楽死をさせるのは問題ではないか (3)医療の技術の進歩のさまたげになるのではないか オランダでは安楽死は認められているそうですが、 オランダでは上記の点はどのようになっているのでしょうか。 そんなことを書いてあるサイトor情報をご存知でしたら教えてください。 いろいろ探してみたのですが、 見つけられません。 また、(2)の点について、 医師に対してのアンケート結果などがあれば教えてください。 例えば 医師1000人中○○%が賛成派/反対派                    など。 よろしくおねがいします。

  • もしも死を望む人が余命を宣告されたら

    うつ病などにより「死にたい」と思うようになって、ついに自殺に至ってしまうことがありますよね。私の周りでも父の弟が自殺、母の妹が自殺未遂を起こし、どちらも当時高校生だった私にとっては衝撃的な出来事でした。自殺という行為は理由は何にせよ、衝動的なものだと私は思います。積もり積もった「死にたい」という願望が何かのきっかけで爆発したとき、行動を起こしてしまうのですよね。 ところで、最終的に自殺とまではいかずとも「死にたい」と思っている人、あるいは思った経験がある人はけっこういますよね。私もあります。ただ、長続きせず時間がたてば忘れられたものです。 しかし中には、1日中「死にたい」と考えてしまう人もいると思います。そこまでいかずとも何かを悩んですべてを投げ出したい人も含め、もしそのような人が病気などで余命を宣告されたらどうなってしまうのでしょうか。この場合の対象は(1)自殺方法などをWebで検索したりするなど、かなり自殺の危険が高まっている人、あるいは(2)多額の借金を抱えるなど、現状から死んででも逃げたいと強く願う人とします。この場合、はたして「死」と「生」どちらを望むのでしょうか。 願望が叶うという視点だけで見れば余命宣告は「良い知らせ」になるわけですが、やはり死というのは究極な事実ですし、本能的に恐れるものだと思います。逆に「死にたくない」という一般の人と同じ反応を示すならば、死にたいと願うまで苦しんでいた自分を否定することになり混乱すると思います。 もしこのようなことが実際に起きたとしたら、死を望んでいる人は何を思い、どのように行動すると思われますか。一般の、人が死を受け入れていく段階のプロセスは知っているつもりです。

  • 死との上手な付き合い方

    精神科でパーソナリティ障害と診断されている20代女性です。 現在、治療をしながら、通信制大学の学生をしています。 私は中学生の頃から自殺願望がありました。 原因は学校でのいじめ、それに伴う不登校や親との喧嘩などでした。 私にとって、死とはもちろん怖いものでもありますが、とても大切なものです。 耐えきれないほど辛いこと悲しいことがあると、私はいつも「死にたい」と思ってきました。 そう思えば、その辛いことから逃げられるような、不思議な安心感があったのです。 いつの間にか、死というものが人生の中で私の心の支えになっていました。 正常な人ならば辛いことや悲しいことがあっても、その次に自分がとる行動の選択肢の中に「自殺」はなかなか入らないでしょう。 しかし、私の場合、常に「自殺」が行動の選択肢に入っている状態と言えると思います。 そのおかげで私は今までどんなに辛いことがあっても生きてこられました。 死がどんなときも選択肢にあれば、人生で何が起こっても怖くないからです。 だって、死んだら終わりなんですから。(私は死後の世界とかはあまり信じていません) でも、最近よく考えます。 常に自殺を選択肢に入れている私は、自分の人生を生きることができないのではないかと。 死を軸にした私の生き方は、安心感をもたらす一方で、自分の人生に対する無気力さや甘えを生んでいると思います。 死んだら終わりだから、努力する必要がないとか、なにをしても無駄だと思ってしまいます。 頑張らなければいけないことがあっても、どうせ最後には死ぬんだからやらなくていいなどと思います。 自分が今努力しないで、もし人生が行き詰まったら自殺すればいいんだ、と短絡的に考えてしまうんです。 死は確かに私の心の安定剤となっています。 これは不思議な言葉だと自分でも思いますが、死がなければ私は生きてこれなかったでしょう。 ですが、最近はどうにもそれだけじゃ駄目だという思いが出てきました。 今までの私はただ日々を生きるだけで精いっぱいでした。 自分の人生をどうしたいとか、どういう人間になりたいとか、将来何をしたい、とかそういうことに気が回らないほどでした。 それでも精神科で治療を続けていく中で、段々と症状が軽くなっていったと思います。 それで心に余裕が出てきて、最近はこのように考えています。 私と死はもはや切り離せないぐらい密接な関係だと思います。 私の中では「死にたい」と言わない自分を想像できません。 だから、私は死と上手に付き合いながら、自分の人生を精力的に歩んでいきたいと思いました。 すぐに死にたいと言ってしまう自分を変えたいという気持ちがあります。 そのためにはどのような考え方、または行動をすればよいと思いますか。 回答を頂けると、幸いです。 よろしくお願いいたします。

  • 自死は悪い事だなんて言えないのでは

    質問はタイトルの通りですが、昔から今まで日本では自死がとても多いようです。年間3万人です。 先進国とはなんなのかと思うくらいに自死は多い気がします。 年間の死者が120万人ほどとされるのに、自殺者は3万人というのはあまりに多いと思います。 そして、自死は良くないという風潮が世間の常識となっています。 人間がそんなにたやすく自死を選ぶなんて事はほぼないだろうにも関わらずこれだけの死者がいるなんて本当に異常な国だと思います。 自死にもいろいろあると思います。 本当に考えて、頑張ってもどうにもならなくなって死ぬしかなかった人も沢山いるでしょう。 ヒトイ人間にヒドイ事をされた人も沢山いるでしょう。 幸せに見えても他人に理由も知られずに死ぬ人もいます。 どうしようもない人間に育ち、自分で首を絞めたような愚かな人もいるかもしれません。 そして、人間ですから極度に追い詰められて冷静を失って決定的な理由でなくても死んでしまう人もいるかもしれません。 最近のニュースの電通の新人社員の件ももしかすると決定的ではなかったのかも分かりません。 理由は沢山あれど、自殺した人というのは今の世の中の犠牲者であるというパターンが多いような気がします。 こんなでは成熟した社会だなんて嘘です。 自暴自棄になり大量殺人に走る人間だっていますし、自殺するほど追い込まれながら、そして人を恨んだりしながらも極力迷惑をかけまいと死を選ぶ人は本当に偉いと私は思います。 みなさんはどう思いますか?

  • 自殺 尊厳死 と 臓器移植について

    私は精神疾患です。最近は特に心身共に調子が悪く、不快感を与えるこのような質問をするご無礼をお許し下さい。 自殺も尊厳死も当人は良いですよね。本人は死にたいのですから。希望通り死ねるのですから。『自分なんか生きていても、家族のお荷物だから』とか『自分はいない方が家族のためだ』と、自殺志願者、尊厳死希望者は言います。そうですね。私もそう思って自殺を図ったことがあるものの、生きています。 だけど残された家族、人の気持ちはどうなるのですか?『自殺に追い込んだ』『尊厳死を選ばせた』と、一生悔いて生きていくのでは、ありませんか? 先日。脳死状態の特集を観ました。 死んで脳死と判定されたけど、本人が生前に脳死状態に陥った場面、臓器提供をする意志表示をしてなかった場面が多いと、有りました。 ふと思いました。故意に脳死となる方法はないのかと。自殺をすることで家族が嘆くことには、変わりはない。だがこの世には生きたくても、臓器移植をする他に助かる方法がない人がいて、臓器提供者を待っている状態の人もいる。 自分の家族に自殺を選ばせたけど家族の誰かが自殺しても、それが脳死状態での自殺だったら、、、他の人を生かせる自殺だった。 大切な人に死を選ばせたことは悔やまれるけど、他人を生かすことが出来る自殺だったと、家族は思えないのでしょうか。 自殺をする場合は必ず脳死状態になれるように行い、臓器は必ず移植すると意志表示をして、自殺をすれば、助かる人が増えて良いんじゃない? と、ここまで考えて、そもそも故意に脳死状態になることは出来るのだろうか?と、思いました。また、突然家族の誰かを失う悲しみは、同じなのではないか? 尊厳死も確か日本の法律で、まだ認められていないのではないか? 例え認められていたとしても、その人に臓器提供の意志があっても、、、と思うと、思考が迷宮入りしてしまいました。 そもそも故意に脳死状態を、引き起こすことが出来るのだろうか? 今の私は自殺志願者ではないけど、人間いつかは死を迎えます。私は最後くらいは他の人の役になる死に方をしたいと、思っています。 目茶苦茶で憤慨する内容の質問を、最後まで拝読してくれて、有り難うございます。

  • 人間に進化は作り出せるのか?

    変な質問ですみません。 庭の害虫にオルトランという殺虫農薬を撒けば、耐性のある遺伝子が生き残りオルトランに強い生物が新たに生まれる。また、遺伝子操作もある意味で言えば進化を人間が作り出していると言えなくもないのかもしれません。ただ私がお聞きしたいのはこのようなことではないのです。 「動物は自殺(自死)するのか?」関連の質問をつい最近したのですが、それに少し関連することを以前考えたことがあります。 私はひょっとすると「ローランド・ゴリラのココちゃんなら自殺(自死)するかもしれないなあ。」と思ったんです。 ココは人の手で育てられ1000を超える手話を覚えます。抽象的な死の概念も把握していたといいます。 http://www.qetic.jp/blog/pbr/archives/4279 私は「ココちゃんならイジメまくれば自殺(自死)するかもしれない。」と思うのです。 結局は「自分自身の心を認識しているかどうか。」ではないかと?「苦しくて仕方ない自分自身の心を体ごと消し去る行為が自殺(自死)ではないか。」と?だから自殺の可能性はココちゃんにもあると思います。 私はココちゃんは人との関わりにより(言葉の獲得により)人でもない代わりに、ゴリラでもない「何かになった。」のではないかと思っています。 もしココちゃんのようなお互いに手話で会話できる夫婦のゴリラがいたとしたら、生まれた子供も手話を覚える可能性はある。親から学ぶからです。だとすれば進化を人間が作り出せる可能性はあるのではないか?と思ったのです。長い時間をかけて、抽象思考の領域が脳内で大きくなれば、新たな種の誕生もあり得ませんか?いかがでしょう?

  • うさぎの死について

    何年か前のNHKの番組だったと思うのですが、たぶんオーストラリアでうさぎが一斉にフェンスに激突死しているシーンを見ました。「私は動物は自殺はしない。」と思っています。 私の考える理由は単純なもので、死に向かう遺伝子を持つ生物がいたところで、子供を残せないので淘汰されるだろうというものです。もうひとつ体ごと自分の心を消し去ろうとする行為が自殺ではないか?つまり心の認識なしには成り立たないのではないか?というものです。 番組に関しては途中からちらっと見ただけで説明的なものは一切聞けませんでした。ネットで調べてみたのですが、それらしき記事は見つかりませんでした。 私の知っていることは天敵のいないオーストラリアに持ち込まれたうさぎが異常繁殖したこと。フェンスでうさぎの生息域を制限したことぐらいです。 確かにフェンスに激突し死ぬうさぎを見た記憶はあるのですが、あれは何だったのだろうと白昼夢でも見たような不思議な気分です。もしご存じの方がいらっしゃるなら教えていただけませんか?

  • 希死念慮って辛くない場合もあるのでしょうか

    閲覧ありがとうございます。 私はつい最近希死念慮という言葉を知り、自分に当てはまっていることに気がつきました。 というのも、私は小さい頃から自殺に憧れて。きっと私は自殺をして死ぬんだろう、という考えが現在までずっと続いています。 ずっと不思議に思っていたのですがようやく原因らしきものが見えて喜んでました。 しかし調べてみると皆さんこの希死念慮を辛がっていらっしゃったので、もしかすると私はまた違うのかな?と思いました。 私はこの症状が辛いとか苦しいとかはありません、ただ自殺をして若くして死ぬという未来のビジョンがあるだけであって、それをどうにかしたいとか怖いとかはありません。 死に恐怖を抱いたのは多分幼稚園の年少さんの時が最後だと思います。あの頃は母親がいつかは死ぬという恐怖に夜寝付けなくなるほどでした。(思えばこの時から自分の死にはさして興味が無いみたいですね) 今私は特に死にたいとは思っていませんが、生きていたい訳でもありません、いつも死ぬ理由がないから生きてるだけ、な状態です。 こういうことを言うと随分病んだ人間に思われるのですが、私は普通に友達もいますし、好きなことや打ち込めることもあります。 両親にも愛されて兄弟仲もいいです。 でも自殺をして死ぬということが私の人生の最大のテーマであり美しいとすら感じてしまっています。 プランや場所なども大体決めてます。 今すぐする訳ではないです、来るべき時が来たらする、それだけなのですが、できることなら老衰で死にたいです。 病院に行くべきですか?これは希死念慮なのか鬱なのか、そもそも私はこの考えで生きてきたのでこれが間違ってるとも思ってないのですがそれもまたおかしなことですか?? 私を老衰で殺すために何か良いアイデアはありませんでしょうか?

  • マリファナ合法化について

    個人的には、日本もマリファナを合法化した方がいいと思います。 理由はイカの3つです。 (1)自殺者数・自殺率の異常な高さ  自殺するぐらいならマリファナでも吸ってリラックスした方がいいと思います。 (2)タバコと比べて有害性・中毒性が低い (3)合法化されているオランダで大した問題は起こっていない。 以上の理由から日本でも大麻を解禁すべきだと思うのですが みなさんはどうお考えになりますか?