- ベストアンサー
どんなことを考えますか。
- みんなの回答 (4)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
人生は、闘争、ではなくて、逃走、ではないかと思っております。 実際、我々は毎日、飢え、病気、事故、暴君、犯罪、恋愛、人間関係の悩み、あるいは、退屈、などなどから逃走しているわけで、逃げずに戦えと言われても、飢えと戦って勝った人などいないでしょう。 しかし、逃げるのも、大変でありまして、高度な技術が必要なわけです。うっかりしていたら、すぐに、私が先ほど述べた、諸々のものに食べられてしまします。 いうなれば、人生は、それら諸々の危険をかいくぐり、いかに生きていくかが、面白みでありまして、それを楽しめなくなった時、すでにあなたは、食べられかけているという事であります。
その他の回答 (3)
- distillery
- ベストアンサー率33% (2/6)
>皆さん自身が考える「生の選び」つまり、人の生き方ってどんな生き方ですか。 まず、現時点で自分が生きている事実を認識します。 今、生きている。それが現実です。 次にいつか必ず死ぬことを認識します。 これも現実です。例外はありません。 ということは、この世でできることは 自分が経験すべき、経験したい、と思うことは すべてやるべきだと考えて行動します。 行動するときは最低限の社会のルールは守りますが、 他人の評価はほとんど気にしません。 なぜなら、あの世に持っていけるのは自分の経験だけで、他人の評価、お金、地位、名声は持っていけないからです。
人の生き方は、そう定まってはいないんじゃないかな(^^。 カントも、強制の意味で、~すべき、と言ったのではなく、然るべきように、と言いたかったのではないでしょうか? それは、行為ではなくあり方を示唆しているのだと思います。 僕は、人の生き方は、柔らかい自覚によって成り立つと考えます。 例えば動物と友達になるとき、人としての自覚が芽生えます。そのようなものを、人の生き方と言います。 現代的でしょう(^^? 形而上にそれを求める道もあります。 形而上については、その言葉で話さねばなりません。 人の世界でいえば、存在、混沌(非存在)、永遠、無、そのようなものは、すべて形而上であります。 そして、行為、あり方、存在は、形而上の言葉と言えます。 それに、存在を、魂とも言います。また、魂を発するものを霊と言い、魂の故郷、混沌が、その霊世界です。 故に、それ(形而上の言葉)を知るには、あなた自身の存在が、意味あるもの、そのようなあり方がなされなければなりません。また、あなた自身から、解放されており、然るべきでなければなりません。不可解を悟り、その運命を知っており、超然たる霊の真理の拠る所(無)を、怖れていてはなりません。 そうなった所で、あなたの生き方は、やっと、何も変わる所がありません。 それが是と知るのです。 参考になりましたでしょうか。 、、、夜も明けてしまったので、もうねるよ(^^。 (ー.ー)zz zz。。。
すべし、という枠にはまった考え方はだいっきらいです。 死ぬ寸前に「ああ、こんな生き方したんだ、私は」 と思うことはあっても、計画的なのはつまらないのでいやです。
関連するQ&A
- 倫理思想
1、カントの倫理思想(善意志、道徳法則、意志の自立としての自由など)について 2、功利主義の倫理思想について 3、ヘーゲルの人倫思想(「市民社会論」の意義と限界など)について みなさんの意見を教えて下さい。 一つでもかまいませんので。
- 締切済み
- その他(学問・教育)
- 倫理学という学問分野について
倫理学という学問分野があります。ウィキで調べたら別名”道徳哲学”ともあり、哲学の1分野を構成しているように見えますが、道徳と哲学は相いれないようなことはないでしょうか。ニーチェが"道徳とは..."と語ったら批判的な言葉が出てきそうです。 一方で倫理という言葉は日常語的に解釈すると、医療従事者の倫理とか技術者倫理などのように”専門家は誠実でなければならない”とか割と当たり前のようなものにもなりそうです。”正しいことをしよう”、というような印象になって”でも人間は私利私欲にまみれて必ずしも正しいことをしない。しかし、社会のために誠実に正しいことをしなくてはならない”というような既に認知されているので眠くなるようなことになり、逆にカント哲学のような面まで掘り起こしてそこから到達した結論なのかと思うと眩暈がしそうなぐらい難しいことなのか、など捉えどころが分かりません。ときどきネットで”人として許しがたい”とかいう言説も見られますが、人としてどうあるべきかということなのでしょうか。倫理学は総じてどういう学問なのか知りたいのですが。 ※ニーチェ、カントなど書きましたが、内容は全然知りません。そんな風らしいという程度のことです。
- 締切済み
- 哲学・倫理・宗教学
- カントの「実践理性」「判断力」という概念について
カントの「実践理性」「判断力」という言葉の意味がよく分かりません。 純粋理性については、純粋に思弁的・論理的な認識を行う理性ということで意味は理解できます。 しかし、「実践理性」については、神や道徳法則や自由について語っているのに、なぜ「実践」理性なのだろうと思いました(どちらかといえば、「道徳理性」とかではないかと)。 信仰や道徳的行為は「実践」されるものであるから「実践理性」だといわれれば、確かにそうかもしれませんが……。 あと、「判断力」については、「美」という思弁でも実践でもない認識だから「判断」、ということでしょうか。
- 締切済み
- 哲学・倫理・宗教学
- why be moral?
昔あった本のタイトルから。 人は、なぜ道徳を守る必要があるのでしょうか? 一応自分なりの回答をもっています。 「人は、それが社会の共通規則(言語ゲーム)であるが故に、その社会で生きるために、道徳を守る必要がある。」 この策定によれば、自暴自棄なテロリストを糾弾する正当性は誰も持ち得ないでしょう。 (それに正当性が必要かどうかという議論では、私は必要ないと答えますが。) ※何が道徳であるか、ということについては、基本的にはウィトゲンシュタインの立場を取りたいと思います(ミルであれカントであれロールズであれ好きにすればいい) この言説の問題として、道徳の正しさをこの考え自体が否定している気がしています。色々な立場からある判断基準を道徳として策定したにも関わらず、その正当性自体を相対的なあり方に固定してしまっている。 皆さんのご意見を伺いたいです。
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- 日本の道徳観
日本では、「悪いことをしたら同等以上の償いをする」との 道徳観があります。この道徳観がなくなれば、世知辛い 世の中になると考えます。 また、「人の命をあやめた人は、償いとして自分の命であがなう しかない」という倫理観も多くの人が持っています。 この倫理観が殺人の抑止にも働いているものと考えます。 みなさんは、いかがお考えですか?
- ベストアンサー
- その他(社会問題・時事)
- 定言命法
カントの倫理学で 「格率が普遍的法則となることを、汝が同時に意欲しうるようなそういう格率に従ってのみ行為せよ」 「汝の行為の格率が汝の意志によって普遍的自然法則となるべきであるかのように行為せよ。」 「汝の人格ならびに他のすべての人の人格における人間性を常に同時に目的として使用し、けっして手段としないように行為せよ。」 「おのおの理性的存在者の意志は普遍的に立法する意志である」 というように沢山命法が出てきて一番上を除いて、第一方式~第三まであるようなのですが、カントは一番はじめの 「格率が普遍的法則となることを、汝が同時に意欲しうるようなそういう格率に従ってのみ行為せよ」 を根本方式として3つ定言命法を残したというこのなのですか?? ちょっと良くわからなくて…(~_~;) すみませんが教えていただけたら嬉しく思います。
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学