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戦国時代の「騎馬部隊」というは (3)

3。下馬戦闘について  1)「馬に乗って弓矢を射る」という古代の武士がなぜ「下馬戦闘」に変わってしまったか、そんな式にすべき理由でもあるか、に対する十分な説明がないと思います。もっと詳しく教えて下さい  2)当時の日本軍が「下馬して戦う」ことは朝鮮の記録にもあります。でも、反論もあり、朝鮮へ出兵した大名はすべて関西の大名だった、関西の武者って馬を取り扱うことにはいつも下手だった、フロイスが書いた「下馬戦闘」の記録もあくまでも関西の記録しかない、農業が発達できなかった関東の人たちというは、略奪のためにもっと馬を取り扱っては上手だった、と論じる人も見ることがあるのです。確かにそんな論理なら「関東騎馬隊」も無理であることはないか、と疑問があります。

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  • cse_ri2
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回答No.12

No.11の回答の一部訂正と補足です。 >鈴木正哉氏の「鉄砲隊と騎馬軍団」という本は私はまだ読んでいません >が、これは日本史を扱った本でしょう。 >それなのに、なぜ西アジア・中央アジア・朝鮮の歴史にあてはめて >考えるのですか? 『鉄砲隊と騎馬軍団』をきちんと読んでいない段階で、この本の記述について 意見するのは問題かもしれませんが、質問者の方の引用や発言を参考にして、 再度意見を述べます。 世界史の観点から日本史を考察することについては、私も否定しません。 実際、No.7で騎兵の歴史を説明するのに、中国やギリシャの例を取り上げて います。 しかし問題は、特定の国(または地域)と日本史だけを比較していることに あると思います。 そういう意味では、西洋と日本だけを比較した『鉄砲隊と騎馬軍団』の記述 にも問題がありますし、韓国と日本だけを比較した質問者の方の意見にも問題 があります。 |No.8の補足では『西アジアと中央アジア、そして南方の朝鮮半島』という |記述をしていますが、具体的に西アジアや中央アジアの事例は説明してい |ませんね?(No.1でモンゴルの馬という記述がありますが、それだけです) |あとは全て韓国の例を取り上げいますが、こういう論理展開が問題だという |ことです。 No.8の『悪魔の証明』にあるように、元来ないことを証明するのは非常に 難しいんです。 その点では、日本以外に西洋の事例しか取り上げていない『鉄砲隊と騎馬軍団』 の記述には、問題があると思います。 しかし質問者の方の意見は、『鉄砲隊と騎馬軍団』に対する批判(もしくは 私の意見に対する批判)であり、これは『日本に騎兵軍団はなかった』という 批判にはなっても、『日本に騎兵軍団はあった』という証明にはならないん ですよ。 再度繰り返しますが、他人の意見の批判ばかりでなく、自説を強調するので あれば、『日本に騎兵軍団はあった』という明快かつ論理的な説明をきちんと してください。 質問者の方の『鉄砲隊と騎馬軍団』に対する批判については理解を示しますが、 蒸気の説明がきちんとできるまでは、『日本に騎兵軍団はあった』という主張 には、現段階では同意できません。

ressise
質問者

補足

もちろん、私も「日本にも騎馬隊があった」ということはありません それでも、「日本には騎馬隊がなかった」という方の根拠が成り立たないことは明らかなのです 朝鮮半島の例はただその一つの例ばかり(もちろん他の条件より圧倒的に空間というの大切だった前近代の社会について了解が必要ですけど)、「日本にはこれそれの理由のため、騎馬隊はできなかった」に関する「これそれの理由」を他の実例と理論に再検討するだけのことでした。それからこの話がずっと平行線かの思いもあります その再検討を越え、「日本にも騎馬隊があった」という説が本当に成り立つのかについては私もまだ待っています。なんよりも、歴史というは「現在進行の学問」であり、絶えず批判と懐疑が続いてより自分を完成する科学と信じていますから。(当時までの定説が新しい根拠あるいは理論から壊されては歴史学に稀ではありません) ただ一つ、ここにお答えした方のように弱い根拠によって「騎馬隊なし」と断言してこそ、歴史を習う我々が大変避けなければならないことではありませんか

その他の回答 (12)

  • cse_ri2
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回答No.13

No.12の回答の修正です。 〔誤〕蒸気の説明がきちんとできるまでは、 〔正〕上記の説明がきちんとできるまでは、

  • cse_ri2
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回答No.11

まだ納得されていないようですが、とりあえず考え方のポイントだけ 指摘しておきます。 >鈴木正哉さんおよび多くのほかは「騎馬突撃はなかった」と論じて >います。でも、なぜなかったかに対する彼らの論理、即ち「騎馬隊 >日本不在説」の論理をついて行くと、実には明らかに存在した >西アジアと中央アジア、そして南方の朝鮮半島の騎馬隊も「有り得 >なかった」という結論に致しました。 この考え方がおかしいんです。 鈴木正哉氏の「鉄砲隊と騎馬軍団」という本は私はまだ読んでいません が、これは日本史を扱った本でしょう。 それなのに、なぜ西アジア・中央アジア・朝鮮の歴史にあてはめて 考えるのですか? 質問者の意見も同様で、韓国・中国史の知識を無理に日本にあてはめ ようとするから、論理にかなり無理のある意見が出てくると思います。 日本史のことは日本史の基礎知識の上で考察すべきであり、韓国史の知識 で論じるのは、見当違いもいいところだと思います。 私も不十分な知識で、他国の歴史を論ずることはしません。

ressise
質問者

補足

 引用します 「<騎馬兵の突撃>ということを簡単にいわれる傾向があり、テレビドラマや映画でもそうした場面を見かけることが多い。」)(p63) 「これはおそらくヨーロッパの中世騎士あるいは近代騎兵の戦いぶりからるい類推された結果ではないかと思われる。」(p63) そして、「ヨーロッパ中世騎士との比較」「ヨーロッパの騎馬兵との異同」「衝突力で勝負した近代騎兵の密集突撃」という小題目にも見るように、鈴木正哉さんは初めから終りまであくまでもヨーロッパの騎馬隊のみ基準していました。 騎馬隊に対する論議を始めてで接する人なら、この世界に「騎馬隊」ということがあると今まで言われたところは日本とヨーロッパはかりと思うはずのほどです。当時の日本はむしろ中国あるいは朝鮮に比べるべきのはないか、ヨーロッパ騎兵ができた条件で他の国を見るとはどのくらい正しかったかというのは鈴木正哉さんにお伺いしたいことです また、「一国史」という観点はますますその支持を失ってあると思います。必要だったらある角度からの接近も有効してはありませんか。なんよりも、「日本的なこと」と言われては「平地が少ない」とか「馬の背が高くなかった」とかですか、実にはそんな条件でも「騎馬隊」は有り得たことが私か申し上げたい「世界史うちの日本」です。

回答No.10

皆さんの意見を拝見しましたが、質問者さんの言ってることはおかしいと思います。 まずNO、5の補足で朝鮮出兵に参加した大名は明軍、朝鮮軍から習うつもりだったと述べてありますが、何を根拠にそんなことをいうのですか? 加藤清正が蔚山城で苦しい飢えを体験したから兵糧倉の確保を最優先したとありますが、これを明朝軍との戦いから学んだと言うのはおかしいでしょう。たまたま明朝軍との戦いの時に飢えを経験しただけじゃないですか。 「韓国に騎馬隊があったからといって日本にもあったはずだ」というのは暴論以外の何物でもありません。確かに韓国と日本は地理的に近い国ですし、中国文化の影響を受けたなどの共通点はあります。 しかし、それだけで上記のような論を展開するのは無茶苦茶なことです。 民族性や地勢も異なるのですから歴史が違うのは当たり前です。多少の類似点があるからといって両国が同じことをすると考えるのはおかしいですし、韓国歴史学との正面対抗と考えるのは支離滅裂です。 そんなに日本に騎馬隊があったと思いたいなら勝手に思っていればいいじゃないですか。 多くの方がなかったと述べているのにあなたは持論を一切曲げようとしてませんね。これではいつまでたっても平行線です。 私は知識があまりないので日本に騎馬隊があったかどうかという明確な持論はありません。 しかし、あなたのまるで筋の通っていない説より、皆さんの意見のほうが圧倒的に説得力があります。 ろくな御礼も述べずに反論ばかりしていてはせっかく回答してくれた皆さんに失礼に当たります。最低限のマナーは守ってください。 それにあなたの言ってることは根拠の無いことがほとんどです。ちゃんと根拠を示さないのではただの戯言以外の何物でもありません。 あなたのような頑固な人はこのサイトを使用しないほうが良いのでは? 何の解決にもなりませんよ。

ressise
質問者

補足

ありがとうございます^^

  • cse_ri2
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回答No.9

No.8の補足です。 >4.朝鮮出兵以後の武将たち >まず、伊達正宗が朝鮮に到来した時は文録二年(1593)、晋洲城 >の戦いのためにちょっと来たが、すぐ帰りました。明騎兵が「からざ >お(鞭棍)」をとる「突撃騎馬隊」ということや「稷山の戦い」は慶 >長役のなかに起こった史実を思ってみれば、伊達正宗の「騎馬鉄砲」 >は明軍の騎馬隊に関連ありませんでした この意見については了解しました。 伊達の騎馬鉄砲隊は、朝鮮出兵とは無関係ということですね。 >そして、騎馬隊の育成では時間がかかる点についても、問題になると >は騎馬隊育成の難むかしさよりも、武将たちには試みも、明軍騎馬突 >撃に関するショックも、ある興味もかったということです。 すみません。 この箇所、日本語の文の意味が不明です。 >関ヶ原合戦や徳川幕府による統制があったとおっしゃいましたが、朝 >鮮出兵以後、戦国にも変化がありました。火砲と銃筒の例は前で書き >ましたが、その他に城の構造でも変化があったし、出兵時で行われた >戦法が再現されることもあります。 関ケ原の戦いで、石田三成が大筒(明軍のそれに比べれば小径ですが) を使ったように、また大阪冬の陣で、徳川家康が大阪城に大筒を撃ち込む など、その後の影響は確かにあったかと思います。 しかし関ケ原の戦いの後、大名が軍備増強をするには徳川家康の許可が 必要でした。 加藤清正の熊本城改築については、家康の承認があってのことと思われ ます。(手元に資料がないので、憶測ですが) 加藤清正は、不安定な九州を押さえるために、家康が政略結婚で自分の 陣営に引き込んでいたから、そういうことができました。 (ついでにいうなら、伊達家も同様です) 他の大名については、さまざまな形で圧迫を加え、戦国最大の徳川軍団 の武力を背景に、力で押さえ込む政策を取ります。 この政策の流れが、後に『武家諸法度』として明文化されるわけです。 そういう状況下で、時間のかかる騎兵育成には、ほとんどの大名が後ろ 向きであったとしても、不思議ではありません。 (騎兵の育成には、馬だけでなく、乗り手の育成も必要です。  自分の家に乗馬用の馬がいる武士ならばともかく、ただの足軽を  馬に乗せるには、相当の年数が必要です) 軍備拡張が政治的に制限される中、製造してわずかの期間訓練すれば すぐに使える大筒・小銃の採用よりも、騎兵の育成が後回しになったと しても、当然の道理ではないかと思います。

ressise
質問者

補足

明軍と朝鮮軍が用いた火兵器の破壊力と有効射距離というのは日本軍の「大筒(おおづつ)」に比べるはずのはありませんでした。(明朝軍も「おおづつ」を既に知っていましたが、単に無視ばかりしました)即ち、出兵以後の武将には「明朝式の火兵器の製作」が絶対に簡単な仕方ではありませんでしたが、ついには成功。でも、日本のうちで運用することは色々な難しさがあるから日本軍から去ってしまいました。もう一度申し上げますが、ぜんぜん簡単な仕方ではありませんでした。 そして騎馬隊、もし戦国武将たちがこの時まで日本では全然見えなかった「騎馬突撃」で被害されたと思うと、当然これについてある興味若しくはショックなどを感じることが常識でしたが、そんな根拠はなくてよ。どの武将も「騎馬隊育成」ということはもちろん失敗したけど、本当に問題になるとは、どう武将も「騎馬隊育成」ということを「試み」さえしなかったと史実ですね。出兵したまとまった数の武将のうちから誰にも「騎馬突撃」による「影響」はなかった、それに関して「長篠合戦以後、日本で騎馬隊は去った」という論が中国と韓国には人気でした。本当かどうかについては私も信じていませんけど

  • cse_ri2
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回答No.8

No.7の返答についてです。 >1.農耕民族か遊牧民族かについて >必要だったら農業も騎馬団も作るのが人間でしょう。それから日本が >農耕民族か遊牧民族かという前提は成り立たないと思います この「必要だったら」という箇所が重要なんですよ。 韓国はよく知らないので再度中国を例にあげますが、古代中国は戦車と 歩兵で戦争をしていました。 しかし、その軍隊では北方遊牧民族の騎馬軍団には勝てなかったので、 自分たちも彼らのやり方を真似て、騎兵を作ったのです。 ところが日本では、遊牧民族と国境を接していないため、騎馬軍団の 洗礼を受けませんでした。 元寇がありましたが、期間も短く、中国のように彼らのやり方を真似る までの影響はなかったと見るべきでしょう。 >3.特に、関東騎馬隊について >特に「武士は個人戦闘しか知らなかったため」という言葉は、戦国 >時代で「独闘」は小説ばかり、すでに集団戦闘が主流だったという >最近の研究成果を認めない見解ありませんか これは私の方が説明不足でした。戦国時代には日本も既に集団戦闘に なっていると、私も認識しています。 武士の戦いが個人戦闘から集団戦闘に変わったのは室町時代かと思い ますが、いつからかについては、まだはっきりとわかっていません。 (確実なのは足軽による戦いが中心となった応仁の乱以降かと思います  が、それ以前にも武士による集団戦闘があったのではないかと推測  しています) それから、私は日本に騎馬軍団がなかったという前提で回答していますが、 元来なにかが無いということを証明するのは、非常に困難なものです。 ※参考URL『悪魔の証明』  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%AA%E9%AD%94%E3%81%AE%E8%A8%BC%E6%98%8E 質問者の方が、日本に騎馬軍団があったということを力説するのであれば、 それを証明する方がずっと容易でしょう。 今までに述べたような憶測ではなく、より明快な説明を提示することを 期待しています。 私も歴史については、はっきり言えばアマチュアです。 最近の研究では、武田騎馬軍団は否定する見解の方が主流ですが、質問者 の方が新たな説を打ちたてて、日本史の研究に変革をもたらすことを 期待します。

ressise
質問者

補足

なぜ「騎馬隊誕生の必要」が「騎馬民族との引接」だけと思いますか 少なくない数の馬があると、それをある軍事的な仕方で行うかどうかがその必要ではありませんか 移動と運送の仕方はよく知れてありました。逃走と追撃の仕方もちょっと知れてあります。ここ残ることは「突撃」の仕方です。鈴木正哉さんおよび多くのほかは「騎馬突撃はなかった」と論じています。でも、なぜなかったかに対する彼らの論理、即ち「騎馬隊日本不在説」の論理をついて行くと、実には明らかに存在した西アジアと中央アジア、そして南方の朝鮮半島の騎馬隊も「有り得なかった」という結論に致しました。 長い戦国時代のせいに多くの史料が残ってありません。今までも長篠合戦ような有名な合戦の真相さえ意見が別れてあります。「野史」ということもそんな意味で値打ちがあると思います。「野史」は「正史」が失った「物語の合理性」を見せてありました(もちろん、私も野史なんて信じていませんけど) リンク致した「悪魔の証明」は心より同意します。私って人、歴史をただ趣味と思いますから、そんな専門的な仕事は他のひとに任せるはずのです。恥しいね。

  • cse_ri2
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回答No.7

No.6で補足を要求したのは、最初の質問に >私の歴史知識というはほとんど中国と韓国の方のため とあったので、ひょっとして質問者の方が、日本で日本史の歴史教育を 受けていないのではないかと思ったからです。 当然ながら、韓国から見た韓日の歴史と、日本から見た日韓の歴史観は 教科書問題を取り上げるまでもなく、相当違っています。 もし、質問者の方が日本で歴史教育を受けていないのであれば、その 歴史観の違いを前提にして回答する必要があるからです。 とりあえず、高校生レベルの日本史と世界史の知識があることを前提に して回答を続けます。 まず、騎兵の歴史について説明します。 世界史的に見て、騎兵が発達したのは馬の生産地でした。 東アジアでいえば、モンゴルなどの遊牧民族で騎兵が発達します。 次には、その遊牧民族と国境を接する国です。東アジアでは中国や韓国 が該当します。 それ以外の国ではどうかというと、騎兵はあまり重要視されません。 西洋ではギリシャがそうです。ギリシャでは重装歩兵が発達しました。 騎兵が発達したのはギリシャの北方のマケドニアで、これはマケドニアが 北方の蛮族と国境を接していたためと思われます。 東アジアでは、遊牧民族国家ではない中国・韓国・日本は、やはり軍隊の 主力は歩兵でした。 私は韓国史は詳しくないので中国を例に挙げますが、中国では北方の遊牧 民族の騎馬軍団に対抗するため、騎兵の整備もせざるを得なくなりました。 春秋戦国時代では趙の武霊王が軍制改革を行ってますし、後の漢の時代 においては、中国全土を統一した漢の高祖が匈奴の騎馬軍団にぼろ負け したため、その後何世代もかけて騎兵を増強していきます。そして武帝の 時代に至って、長年に渡って整備した騎兵の軍団で、ついに匈奴を打ち 破りました。 では日本はどうかというと、日本に住んでいるのは農耕民族が主であり、 さらに遊牧民族の国と国境を接していません。 時代が下って馬に乗る武士が登場しますが、馬を遊牧で育てる習慣がない 日本では馬は大変高価な生き物であり、農耕用ではなく軍事用として 馬を養うことができたのは、領地をもつ一部の武士だけでした。 さらに日本ではで、武士は個人戦闘しか知らなかったため、後の元寇の 時代まで、騎兵を集団で運用するという発想ができませんでした。 (ただし、例外的な存在として、源義経が騎兵を集団運用しています。  しかし彼が最終的に敗者となったためか、その軍事思想は他の武士に  は受け継がれませんでした) さらに時代が下り、秀吉の時代になって朝鮮半島に出兵します。 ここで明の騎兵と遭遇するわけですが、日本に帰った大名たちは騎兵を 養成しませんでした。 この事情について、再度説明します。 1.日本では馬が高価であり、さらに生産地が限られていたこと  遊牧の習慣がない日本では、限られた馬の生産地を除けば、自分の領地  がある武士を除けば、一般の兵士には縁のないものでした。  じゃあ、馬を増やせばいいじゃないかと思うかもしれませんが、次に  述べる理由により、それは難しかったと思われます。 2.馬の育成には金と時間がかかる  当たり前ですが、馬は生き物です。  職人を増やせば大量生産できる銃や大筒と違い、大量に馬を増やそう  とすれば、相当な時間がかかります。  これは後の明治政府において、西洋風の騎兵を育成するため専用の牧場  を作ったりしますが、やはり数を揃えるには時間がかかりました。  そのため西南戦争には間に合わず、騎兵が戦場で活躍できるようになった  のは日清戦争からであることからも、十分理解できるかと思います。 3.ところが、当時の大名は金も時間もなかった  前の回答でも書きましたが、朝鮮出兵で疲弊したのは日本の大名も同じ  でした。さらに有力大名のほとんどは、朝鮮半島から引き上げたあと  も国許に帰ることが許されず、しばらくの間、京・大阪にずっと留め  置かれています。  この間に、加藤清正・福島正則らの武断派と石田三成らの吏僚派の抗争が  あり、腰を据えて軍制改革に取り組む余裕などまったくなかったのです。  また関ケ原の戦いで徳川家康が勝利すると、今度は家康が硬軟織り  交ぜた大名統制を行い、軍備拡張を厳しく制限します。  こういう情勢下では、独自に騎兵を創設することなど不可能でした。 4.唯一の例外が伊達家  前の回答で書きましたが、こういう情勢下にあって実戦に投入可能な  騎兵軍団をもっていたのが伊達政宗です。  伊達家の領地は、日本で数少ない馬の生産地である奥州にありました。  また朝鮮出兵にも参加しており、騎兵の集団活用の効果についても実地  で学んでいたと推測できます。  さらに伊達家の軍隊は鉄砲装備率も高いこともあり、そのような事情  の中で生まれたのが、伊達家の騎馬鉄砲隊です。  残念ながら実戦で活躍したのは大阪夏の陣の一度だけですが、十分な  戦果を上げています。 (ただし、実は騎馬鉄砲隊はなかったのではないかという意見もあります)  もし戦乱の世がさらに続けば、伊達家の騎馬鉄砲隊の威力を知った  他の大名も、同様に騎兵軍団を作った可能性というのは、十分に考え  られます。  しかし、戦国時代はもはや終わりを告げ、徳川幕府による武装解除政策  (元和堰武)が進む中、日本における騎兵の発達は明治時代まで延長  される結果となりました。

ressise
質問者

補足

ご意見ありがとうございました 1。農耕民族か遊牧民族かについて 朝鮮半島の北方にあった国「高句麗」について申し上げたいです。 この「高句麗」が農耕民族か遊牧民族(もしくは騎馬民族か)に関してはすでに多くの論議が有ったが、当時の史料はほとんど残ってあることがなくて、昔から満州は遊牧民族の舞台だったから「高句麗も遊牧民族だった」という通説でした。ですが、近頃には「高句麗のこと」とみたい史料が発見、高句麗も高いほどの農耕法を知っていたという説が支持を受けます 即ち、農耕民族か遊牧民族かという分類はその意味が限ってあります。必要だったら農業も騎馬団も作るのが人間でしょう。それから日本が農耕民族か遊牧民族かという前提は成り立たないと思います 2。日本で騎馬隊の痕跡とは まず、戦国までの日本人は自ずから生まれるはずはありません。「モンゴルー>朝鮮半島ー>日本」のはそのうちの一つでしょう。源流はともかく、高句麗、百済、新羅、伽倻と日本近畿の交流を思ってみると、その四国の影響が日本に致さなかったというのが、むしろ非合理的なのです。任那日本附設はともかくものの、朝鮮半島の南方が日本と似てあることが多くて朝鮮半島南方でも「騎馬隊」の痕跡が出ることなど、日本騎馬隊の可能性は十分ですね 3。特に、関東騎馬隊について 日本も全島すべての同様な姿ではありませんでしたから、地方による分類が必要です。 前で書きましたが、日本の馬と下馬戦闘に対するフロイスと朝鮮の記録は関西地方あるいは武将の一部だけ通じることであろう 上杉と武田、北条などがその「一部」に入れるかは疑問です 特に「武士は個人戦闘しか知らなかったため」という言葉は、戦国時代で「独闘」は小説ばかり、すでに集団戦闘が主流だったという最近の研究成果を認めない見解ありませんか (他の話しですが、関東から来た足利尊氏軍が騎馬隊だった説があります 4。朝鮮出兵以後の武将たち まず、伊達正宗が朝鮮に到来した時は文録二年(1593)、晋洲城の戦いのためにちょっと来たが、すぐ帰りました。明騎兵が「からざお(鞭棍)」をとる「突撃騎馬隊」ということや「稷山の戦い」は慶長役のなかに起こった史実を思ってみれば、伊達正宗の「騎馬鉄砲」は明軍の騎馬隊に関連ありませんでした そして、騎馬隊の育成では時間がかかる点についても、問題になるとは騎馬隊育成の難むかしさよりも、武将たちには試みも、明軍騎馬突撃に関するショックも、ある興味もかったということです。関ヶ原合戦や徳川幕府による統制があったとおっしゃいましたが、朝鮮出兵以後、戦国にも変化がありました。火砲と銃筒の例は前で書きましたが、その他に城の構造でも変化があったし、出兵時で行われた戦法が再現されることもあります。 ですが、まとまった数の匠および明国人と朝鮮人を連れてきましたが、「騎馬隊の威力」ほどは誰も無関心でした。「日本には騎馬突撃ということが元々なかった」という説が見ないところでありませんか

  • cse_ri2
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回答No.6

弱りましたね。 日本史、もしくは世界史の基礎知識のレベルが、どうもかみ合いません。 続けて回答したいのですが、質問者の方がどの程度歴史を把握しているか 知りたいので、以下の内容に補足をお願いします。 1.学校教育で、どこの国の歴史を習ってきましたか。 2.世界史について、どの程度学習してきましたか。 上記の返答によって、こちらの回答の内容を調整する必要がありますので、 よろしくお願いします。

ressise
質問者

補足

こちらこそ失礼の言葉ですが、なぜそんな情報が必要ですか 自分の名前より相手のをまず求めるように、それも無性なのと思いませんか もし私の了解してができなくても、すべて私の不足ですから、 教えるはずがあれば、そのままに教えてください

  • cse_ri2
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回答No.5

回答の補足です。 >もし、日本には元々「騎馬隊の突撃」なんてなかったと言ったら、なぜ >日本軍は明軍から何も習わなかったんですか 秀吉の朝鮮出兵で疲弊したのは、戦場となった韓半島だけでなく、出兵した 日本も同様でした。 バブルの頃の時代と同様、それまでイケイケドンドンといった雰囲気がなく なり、もう戦争はこりごりだという雰囲気が、日本中に広まっていたのです。 また、出兵した大名も戦費で国許が疲弊し、新たに騎馬隊を作ろうなどという 雰囲気ではなかったことは、容易に想像できます。 また、局地戦では明軍に大勝したこともあるので、明軍をそれほど脅威には 思っていなかったのかもしれません。 (泗川の戦いでは、数万の大軍を、わずか七千の島津軍が打ち破っています。  詳しくは参考URLを参照)

参考URL:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%97%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
ressise
質問者

補足

違いますよ 当時、朝鮮出兵に参加した多い大名は明軍と朝鮮軍から習うつもりでした 例を挙げれば、明軍と朝鮮軍の「火砲」と「銃筒」に巨大な被害を受けた大名たちは自分も「火砲と銃筒」の製造に能力して、ついには完成しました。でも、日本のうちの戦争には機動力と正確度が問題になるし、江戸時代には「おもちゃ」みたいことになりました(火砲と銃筒の最大な短所がそんなところにあるとは当時の明国と朝鮮もすでに認めたことでした) 他の例としては「加藤清正」があるのです。朝鮮出兵のうち、「蔚山城の戦い」で明朝連合軍の包囲網により、苦しい飢えを経験した清正は、後で熊本城を建てる時には井戸と食糧庫の確報を最優先として見ました そんな例は他の武将でも度々見えました ですけど、「突撃騎馬隊」の養成だけはある武将も、その戦いで参戦した長正にもどんな意志もありませんでした これについて、「戦国時代、長篠合戦以後より騎馬突撃という戦術は否定されたから」と説明が韓国には多いです

  • cse_ri2
  • ベストアンサー率25% (830/3287)
回答No.4

なんか、全然議論がかみ合っていないですね。(笑) これは回答者の多くが日本史の専門家もしくは準専門家なのに、質問者の方が 日本史よりは中国・韓国史の方が専門であるためと思われます。 で、答えを言うと、日本には専門の騎馬隊はありませんでした。 日本の地形を考えてみてください。 どこに、数千・数万もの騎兵を運用可能な平原がありますか。 関東平野はまあまあ広いですが、それ以外はないでしょう? またモンゴルと違い、日本は身近な生活の中で馬を飼育する場所が限られて いました。馬を飼っていたとしても、農耕馬が関の山で、人が乗るための馬を もっていた人は、豪族階級に限られていたと思われます。 (実際の戦場でも、物頭など騎乗できる人は限られていました) 鎌倉時代でも、馬に乗ったのは領地をもつ武士だけで、従者は歩いて従った のです。 騎兵を機動部隊として運用したのは源義経でしたが、彼が率いる部隊は多く ても数百騎のレベルでした。 山がちな日本の地形では、それ以上の騎兵の大部隊が、高速で移動すること は困難でしたし、また数も限られていたからです。 質問者の方は、伊達家の例を取り上げていますが、あれはむしろ例外的な存在です。 伊達家の領地である奥州が馬の産地であり、他家に比べて馬の調達費用が 安かったこと。 優秀な戦国武将である伊達政宗が、いざ乱世が戻ってきたときにすぐに天下 平定を狙えるために、軍事力の整備を怠らなかったこと。(彼は天下を狙った 最後の戦国武将であると言われています) そのために他家よりも鉄砲の装備率向上させ、さらに効果的な運用を模索して 編み出したのが、伊達家の鉄砲騎馬隊であったわけです。

ressise
質問者

補足

おかしい話しです 朝鮮半島を見てくださいよ 70パーセントが山間部となってあります 特に「騎馬部隊」が広く活躍した北方の場合は圧倒的に平野がほとんどありません 平地か山間か、そんな条件としては騎馬部隊が実にあるかないかについて正しい答えが出るはずがないと思います もちろん、平地の場合には騎馬隊が動いては確かに良い足場になりましたが、平地のあるもしくはないというはあくまでも二次的なことばかりです

  • ss79
  • ベストアンサー率33% (258/765)
回答No.3

日本にはそもそも馬鎧という戦場で馬を防御する思想がありませんでした。 従って乗馬のまま戦闘に入ると弓矢や騒音、馬体が傷を負ったなどで暴れ出した場合制御が出来ず落馬など戦闘を継続する事が出来ない状態が起こる事は度々で、大抵肉薄戦外で指揮することになります。 また応仁の乱以降足軽という徒歩兵が戦場で主力になる傾向が強くなり、肉薄戦を戦う場合乗馬のままより下馬して戦う風習に移行したのだと思います。 要するに日本馬は戦闘用に適した訓練も体力も備えていなかったのだと思います。 ことわざに「将を射ようとおもはば先ず馬を射よ」と言う位です。

ressise
質問者

補足

でも、下馬戦闘というはあくまでも「日本の一部」の物語ではありませんか 騎馬民族に対抗するための「騎馬隊」というは朝鮮半島の北方のみはなくて、南方でもその根拠が発見されてあります。そこと近くて色々なことが似る日本に「騎馬隊」がなかったとおっしゃることは、即ち、韓国歴史学との正面拮抗というはありませんか また関が原合戦で伊達正宗軍のなかには鉄砲衆が60パーセントを占めていました それでは「当時の戦国軍には鉄砲隊が60パーセント」と言えるはずですか 実にそんなに論じる人も韓国にはいますけど。 それぞれの合戦の様相を詳しく見なくて少ない史料だけ、例をあげては無理な歴史研究ではありませんか、と思います

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    鈴木ましやさんの「鉄砲隊と騎馬軍団」という本をよく読みました 信長軍と勝頼軍の「長篠合戦」について深い分析が行われた、非凡な研究だったと思います でも、今まで私の歴史知識というはほとんど中国と韓国の方のため、当然そんな方より疑問が起こりました。これに対する皆さんのお答え、待っていますね 1。日本土産の馬について 「武田騎馬隊」を否定する人は「日本には元々騎馬隊というはなかった」と話します これに対する根拠として、戦国馬の背が高くない点を挙げる。戦国馬の背については当代の記録や今まで残ってある馬の骨ばかり見てもよく分かりました。 でも、ここに疑問があると、  1)当代のすべての人は元々背が高くなかった。それでは戦国馬の背が特に問題になる点はあるか  2)韓国の史学系には「韓国でも騎馬隊ということがあった」と言われます。「満州の騎馬民族に対抗するために」と思いやすいけど、実には、朝鮮半島の南部でも「騎馬隊」の証拠が発現されました。これについて、「モンゴルから始めた騎馬民族が朝鮮半島を通り過ぎて日本で到着した」という「騎馬民族移動説」が人気を集めたものの、「騎馬隊日本不在説」によると、海外からの影響は少なかったと見ても当たらないか、それが可能したかと疑問があります 即ち、「騎馬隊日本不在説」は「元々日本的なこと」だけ誇ることはないか 遺伝的には日本の馬と違い点がない朝鮮半島の南部にも「騎馬隊」ということはありましたと話したいです。 続きます

  • 戦国時代の「騎馬部隊」というは(2)

    2。中国や朝鮮騎馬隊に比べると  1)秀吉の「慶長の役」のなかには「稷山の戦い」がありました。詳しい戦況は今までも疑問点が多いですが、この戦いのうちで明軍の武将「麻貴」が「2千の騎兵」を突撃させて、黒田長正の数千名の鉄砲足軽を壊しました。特にある朝鮮の高級武将が「鉄砲なんて、あくまでも下手の術ばかりだ」と感嘆したことが有名なのです。この戦いは、中国には高い評価を受けてあり、朝鮮にも「後期の朝鮮騎馬隊の始め」と評価されています。 でも、日本には「この戦いが未来へどんな影響をくれる」と疑問で別な結果がありませんでした。この理由については「日本には、すでに騎馬突撃の戦法なんて、長篠合戦で否定された」と説を広く認めています。もし、日本には初めから騎馬隊がなかったというと、なぜ日本軍はこの戦いよりなにも習わなかったですか  2)「騎馬突撃」ということは西洋の別な戦術だけだと鈴木さんは言われるようです。でも、「近接戦闘騎兵」ということは朝鮮にもありました。「騎馬鉄砲」と言えることも、「騎槍武者」と言えることもありました。でも、鉄砲もしくは槍は実戦性、実効性、補給性などが乏しくて、実はほとんど「からざお」を用いたと知れてあります。 http://image.ohmynews.com/down/images/1/bluekb_211908_10[392160].jpg 即ち、騎馬隊ということは西洋だけのことではないし、当時の東アジアでは見やすいことではないかと思います

  • 足軽と騎馬武者

    戦国時代に騎馬武者になれた人と言うのはどういった人だったのでしょうか? 足軽はそれこそ 農民から集められて簡単な訓練と武装で最前線に送り込まれた下っ端 と言うイメージがありますが 騎馬武者は 馬に乗るぐらいだからそれなりの武士だったと思うのですが… 単に馬の扱いに慣れてるから とか そういう基準とかがあったのでしょうか? それとも足軽として召集されたものの 「お前は馬に乗れ」と言われて騎馬武者にされたりとか?

  • 戦国の騎馬は農耕馬?

    戦国期の軍用馬について教えてください。ドラマや映画で戦闘シーンで使う馬はたいていサラブレッドなど西洋産の馬です。戦国時代に日本でそんな馬はいないのでは?したがって農耕馬やそれを改良した種だったのではと考えています。 重い鎧兜の武者を乗せて短躯の国産馬が戦場を駆け回れたのか疑問です。源平合戦の鵯越え(崖を馬で下り奇襲した)は作り話なのでしょうか。武田騎馬軍団もそうなのでしょうか?なぞが多いです。ご存じの方は教えて下さい。お願いします。

  • 騎馬武者は何故歩兵より強いの?

    古代の戦史やゲームや小説だと騎馬武者部隊vs歩兵部隊では何倍もの戦力差が有る様に描かれますよね。 何故でしょう? そもそも騎馬武者と槍歩兵が一対一で戦っても互角の様な気もするし 集団戦闘時に歩兵隊が捨て身で馬を攻撃したり馬が歩兵を踏み殺したはずみで馬上武者が落馬するケースが多々あると思うんですが?

  • 騎馬鉄砲は馬上から発砲していたのか?

    朝鮮出兵の加藤清正隊や関ヶ原の島津隊では、騎馬隊のほとんどが銃を装備しており、藩によっては騎馬隊が鉄砲を持つことを定めているものもあるようです。 騎馬鉄砲という独立部隊というよりも、騎馬隊の装備の一つとして用いられていたように思います。現在見られる砲術団体はホルスターのようなものに馬上筒を入れていました。 しかし、当時の騎馬隊はどのような用法で馬上筒を使っていたのでしょうか?下馬して撃っていたのでしょうか?それとも馬上から射撃していたんでしょうか? 当時の図では、馬上から鉄砲を構えたものがあります。西洋の重騎兵のように近距離で射撃してから乗崩しをしたのかな・・・?

  • 戦国時代の農兵と集団戦

     『戦国大名の危機管理』黒田基樹氏著を読みますと、北条氏康が非常に進んだ戦国大名であることが理解できます。この中に「百姓に礼を尽くす」政策が様々上げられていますが、そこからは、一般によく言われる農兵を多数抱えた戦国大名軍というものは誤った認識であることが結論付けられそうです。農民を参戦させるための書状などは登場しますが、これがかえって動員が限定的で部分的・一時的なものであったことを示しています。  天下統一段階の総力戦になると「御国」理論によって農兵の参加も少なからずあったかも知れませんが、それ以前の段階では寄親寄子制に基づく動員が基本であったと思われます。こうした見解は『戦国大名の危機管理』のみならず、きちんとした研究書が一般に指し示している傾向だと思われますが、そうなると集団戦法あるいは兵科別戦闘などは、ほとんど無かったように思われてきます。寄親寄子制では、家長である騎乗の武士に徒歩武士が数名、中間や小者が徒歩武士の倍程度の人数、といった構成が標準で、騎馬の家長を中心にまとまって行動していたはずです。  こうした事情を踏まえた上で、 (1)戦国時代に農民は多数合戦に動員されたのか? (2)戦国時代に集団戦法は本当にとられていたのか?  を質問したいと思います。また良い参考文献などありましたらご紹介ください。

  • 秀吉の朝鮮出兵時の明の兵力

    秀吉が朝鮮出兵した時に明が属国契約していた朝鮮を助けた明の兵力が数万というのですが、この頃の明というのは既に弱体化していたのでしょうか? 中国というと、三国志のときは何十万という兵力でぶつかり合っていたというイメージがあるのですが、もうこの時代は多くの戦力は持たなかったのでしょうか? また、馬に乗って槍や大きな剣で敵をなぎ倒し、弓矢もすごいという印象があるのですが、結局は鉄砲には勝てなかったということでしょうか?それとも、戦国時代に鍛え上げられた武士はそうとう強かったということなのでしょうか? それなら、清の時代に欧米の列強にいいように食い物にされた理由も納得できるのですが。

  • 何人ぐらい亡くなったのでしょうか

    以前から分からず不思議に思っているのですが、応仁の乱以降がほぼ戦国時代。大阪夏の陣をへてようやく世の中が安定。しかしその間に何名ぐらいの武士(足軽を含めて)が亡くなったのでしょうか。 多分、その当時の人口は2千万以下でしょうね。その1割が侍階級としてほぼ二百万前後。応仁の乱、群雄割拠による各地の戦い、信長、秀吉の全国制覇、朝鮮出兵、関が原、大阪の陣などかなりの戦いがあります。 どの程度の人数が亡くなったのかどなたか教えてください。 それともう一つ。 大名に仕えるいわゆる上士は家士と呼ばれる者を石高に応じて持っていますが、その身分は足軽と同等か、あるいはそれ以下でしょうか。陪臣ですから身分的には低いと思いますが。

  • 戦国時代の部隊編成

    現在海外にて居住しております。 先日ちょっとした話題より友人(異国人)と戦国武将の部隊編成の話へと発展しました。 自分でも持っている本などをあさって調べてみましたが、はっきりとした回答を探す事が出来ませんでした。 海外の方に回答するのでなるべく正式な回答を求めております。 ちなみに1万石で騎馬武者が≒22~23騎、戦闘員総人数≒380人、非戦闘員人数≒120人程度と記載されていました。 騎馬隊、槍隊、槍もち、弓鉄砲足軽、歩行侍、中間小者、持小旗、組頭等、複雑すぎて理解し辛いので戦闘員、非戦闘員ともに簡単に説明していただけると大変助かります。 鉄砲隊の編成拡大により基準がずれてしまうと思いますが、どちらの編成でも結構です。 皆様、宜しくお願い申し上げます。