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最強の戦国武将は?

rczdの回答

  • rczd
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回答No.10

信長に1票! 桶狭間は言うまでもなく、若年の信長は鬼気迫っていた…と、思わず唸ってしまいます。 ◆村木砦の戦い:小河(緒川)水野氏居城の近くに今川勢が村木に砦を構え、小河を封鎖してしまいました。那古屋の信長は清洲からの襲撃を懸念し、斉藤道三に援軍を頼み、安藤伊賀を派遣してもらいました。千の安藤軍が那古屋に到着、安藤軍に那古屋近くに陣を敷いてもらい、信長は林ら重臣の異議を退け翌日出陣します。出陣の翌日、大風が吹き荒れ、水主らが反対する中、無理矢理渡海し、翌日には水野氏と面会を果たします。出陣四日目、遂に村木の砦を攻め込みます。信長は最も守備の堅い南側を受け持ち、自ら鉄炮を放ち、小姓衆に怪我や死人が数多く出てしまうほど攻め込みます。約八時間の激戦を経て砦を落去させました。二日後に那古屋に帰陣し、その翌日に安藤伊賀に美濃へ帰ってもらいました。この様子を聞いた斉藤道三は「すさまじき男、隣にはいやなる人にて候よ」と言いました。(『信長公記』より) ◆稲生の戦い:弟織田信勝(信行で流布。稲生の戦い当時は織田弾正忠達成と名乗っていた)謀反のときの戦いです。七百の信長に対して、東に千の柴田勝家、南に七百の林美作が陣を敷いていました。信長はまず東の勝家に挑み、佐々孫介ら屈強のものたちが討ち取られ、次第に劣勢になっていたところ、味方同士が敵将の首を奪い合っているのを見た信長は、怒り狂い大音声を上げました。この姿を見た柴田勢が恐れをなし、崩れていきました。次いで信長は南に向かい、林美作の頸を自ら討ち取って、遂に勝利を得ました。(『信長公記』より) 若年の頃の信長の戦いで、この二つが特に印象的です。若かりし信長はキレまくっています。

aj1
質問者

お礼

やっぱり信長ですか。信長は本当に天才だなと思います。年をとってからも切れまくってると思います。特に必ず相手より多くの兵で戦っていることはさすが信長と思いますね~。本能寺の変で死ななければ・・・と思いますが、やっぱ誰かに殺されちゃってたかもしれませんね。

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