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大名・旗本
m4374m115の回答
大名は官職名だけで呼ばれます。 島津は薩摩守、毛利は大膳太夫(だいぜんのたいぶ)、水戸家は中納言で、苗字は付けないのが正式な呼び名です。同じ国の守が同じときに2人以上付くときがあります(普通でした)が、そのときも苗字や名前は呼びません。 この呼び方ができるのは大樹(幕府)だけです。 徳川家の記録書(徳川実紀)も幕府の記録なのでこの呼び方です。 大名どうしはその国の略称に「殿」を付けて使用します。薩摩守なら薩州(さっしゅう)殿、出羽守は羽州(うしゅう)殿です。略称のない国はそのまま備前殿と呼びます。 家来からは「殿」と呼ばれました。 家来が他の大名を呼ぶときはその国の呼び方に「様」を付けます。薩摩守様等です。 官職はよく変わり、覚えるのが大変ですが、大名武鑑が毎年発行され、これで覚えるようでした。(江戸初期から幕末まで常に出版され、氏名、役職、官位、家紋、俸禄高、在所、大名の江戸屋敷、行列の際の道具等が記載され、大名行列を見物するためのガイドブック)
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