「小梨専業」は何のために社会に存在していると思いますか?
2ちゃんねるで「小梨専業」と揶揄されていたり、過去には石原某とかいう女性が「くたばれ専業主婦」という本を書いて賛否を巻き起こしたり、育児の役割もないのに夫の収入で食べさせてもらっている主婦は、社会的に邪魔で無駄、迷惑な存在という見られ方があります。
中高年でリストラされるなどの理由で再就職先を探す男性には、(その位の年齢が企業内でどれだけ有用とされているかはともかく)比較的同情されやすいかと思いますが、現在「小梨専業」の私が仕事を探そうとすると、技能的年齢的に無理だから止めておけ・・・といわんばかりの反応が返ってくることがあります。
好きで「小梨」を選んだわけではありません。また、「専業」を望んだわけでもないので再就職をしたくて活動しているのですが、冷ややかな意見もあるわけです。
(1)世間は、「小梨専業」をバカにしながらも、そういう立場の人間がそんな立場を返上しようと足掻き始めると、「今まで資格もなく年だけとってきたあんたには無理」と嘲ります。「小梨専業」を社会の寄生虫であるかのように悪く言う人たちは、何を私のような立場の人間にさせたいのでしょうか?
(2)主婦という役割は、家庭内での「子育て」という私的な生産活動と、将来その子供が成人し社会を形成するという意味で社会的な人材育成を行う生産活動が上手く融合した役割と考えます。
しかし結婚し主婦になった結果、子供を持つことが出来ないということを知った夫婦もあります。その場合は、望まずして子育ての義務を背負うことなく一方的に被扶養の権利だけ享受できる立場になってしまいます。
そのような小梨専業が生産性を発揮できる場としては、やはり家事をしつつ社会的な仕事を持つことくらいしかないと思いますが、実際には「家庭があるから仕事には専念できない」という条件が、年齢・資格などで同条件の男性よりも再就職を難しくしていることもあるかと思います。(それが雇用者側の固定観念か事実残業できないなどの制限があるかは両方のケースがあると思いますが。)
では、「小梨専業」とは私的な家庭という場で夫から必要とされる役割のみであり、社会的には存在意義はないのでしょうか?ないからこそ世間から羨ましがられ嘲られる立場と言われるかも知れませんが、現実には存在してしまっています。(ヘーゲルの「存在するものは合理的である」という言葉を信じたい気持ちです。)やはり社会的な存在意義はないのか?そうであればこの矛盾の苦しさをどうやって埋めればいいのでしょうか?
乱文で申し訳ありませんが、よろしければ皆様のお考えをお聞かせください。