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知的直観

こんばんは。 知的直観について具体例を挙げて教えて下さい。 宜しくお願い致します。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.13

遅くなってごめんなさい。 とにかくどんどんいってみましょう。 まず質問者さんが引用してくださった文章を読みながら、「知的直観」について考えてみます。 >精神という概念的なものと自然という実在的なもの まずシェリングやヘーゲルが現れた時代というのが、啓蒙思想とドイツ・ロマン主義が激しく対立する時代だった、ということを背景としています。 啓蒙思想とはなにかというと、その先駆けとなるのがデカルトです。 あらゆる学問の基礎を数学に置こうとしたデカルトのように、人間が、理性を正しく用いることによって、自然と社会すべての基礎となるような法則を発見し、頭のなかでつくりあげた理念・理想を、実現していこうとするような考え方です。 それに対して、18世紀後半から19世紀にかけて、啓蒙思想に対する反動が起こってきます。 悟性では割り切れない、人間的現実に目を向け、感情や直観・信仰の回復をめざそうとするものです。 こういう背景を押さえておくと、「精神」とはどういったものか(つまり、ドイツ・ロマン主義)、「自然」が指し示しているものは何なのかが(つまり啓蒙思想)わかってくると思います(この「精神」と「自然」という対立のさせかたが理解しにくければ、「主観」と「客観」と言い換えてもかまいません)。 このふたつの流れを統合しつつ、新しい学問を生み出そうとする人々がいた。シェリングもそういう位置にいたんです。 この「精神」と「自然」についてシェリングはこんなふうに言っています。 「我々の内なる精神と我々の祖となる自然の絶対的同一性において、どのようにして我々の外なる自然は可能であるかという問題が解決されなければならない」(『自然哲学への理念序論』;事典『哲学の木』「自然哲学」の項よりの孫引用) もし自然が、わたしたちに何の関係もない存在であるとするなら、それをわたしたちの主観はそれを認識することができない。 自然を、わたしたちの主観が成立させているものとみなすならば、自然はわたしたちの認識主観の内に存在するということになるけれど、現実に、わたしたちは自然を自分の思い通りにすることはできない。 となれば、わたしたちから独立した存在ということになる。 そうであるならば、独立しつつ、同時にわたしたちに認識可能なようなありかたで存在しているにちがいない。つまり、その存在のありかたを規定しなければならない、とシェリングは考えたんです。 そこには精神と自然をつらぬく絶対的に同一的なものがあるにちがいない。 ならばそれは一体なんなのだろうか。 ここでシェリングは実におもしろい仮説を立てるのです。 あらゆるものごとの根底には「絶対者」が唯一存在する。 ならばどうして「自然」と「精神」という差別が生じるのか。 実はこの「精神」と「自然」は、質的に差があるものではないのだ。 ある有限者の精神にも自然の要素は存在するけれど、精神的要素が量的に優性であるから精神として生じる。 あるいは逆に自然にも精神の要素は存在する。 シェリングはここから「自然哲学」というものを構想していきます。 全自然の根底にはひとつの根源的な力が働いており、この力は精神のなかに働いている力と本質的に同じもの、自然は目にみえる精神、精神は目にみえない自然であって、両者は同一のものであると考えたんです。 >知的直観は、もともと精神の側の主観的観念的な働きであるが、 この絶対者の把握は、知的直観によってなされなければならない。 というのも、知的直観というのは、シェリングによると、そもそも「絶対者の精神」の行為なのです。 「絶対者の精神」がみずから自身を直観する(これが知的直観)ためには、みずからが客体にならなければならない。こうして「自然」が産出されます。いっぽう「自然」は、ものから生命へ、生命から自己意識へ、と発展していく。こうして相補的な働きである、「自我」による「自然の認識」と、相補関係としての「自然」による「自己意識の産出」がなされるわけです(ここらへんの理論は相当アクロバティックで、頭がクラクラしそうです)。 ただ、この「知的直観」というのは、そもそもが「絶対者」に起源をもっているだけに、有限者であるわたしたちには「知的直観」を知ること自体がむずかしい。 そこで芸術が出てくる。 シェリングの芸術論はおもしろいです。 ぐっとわかりやすくなります。 芸術家の創作した作品には、芸術家が意識して作りだした以上のものが含まれている。 つまり、天才のなかに、そのひとを超える何者かが存在して、それがその芸術家を駆って、意識する以上のなにものかを無意識的に創出させていると理解できる。 つまり、このことは、絶対者そのものが、その天才によって直観され、天才の中に働いているからにほかならないのだ。 美的な働きにおいては、「絶対者」は完全な姿において創造される。 したがって、芸術こそが全体者の真の啓示なのである。 >「哲学者が主観的にのみ呈示することのできるものを、一般的妥当性をもって旨く客観化できる」 というのは、こういったことを言っているわけなんです。 (というところで、遅くなったわりには長いだけの回答になっちゃってごめんなさい。やはりシェリングの「自然哲学」というのは、わかりづらいです。あまりうのみにしないで、質問者さんご自身で、いろいろ読んでいってください。ただ、ドイツ観念論はほとんど知らなかったので、個人的には非常に勉強になりました。あと、「先生」は止めてくださいね(^^;)。多少年季は入っているけれど、あくまでも、勉強しつつある素人、質問者さんとは同じ立場です。ということで、わからないところあれば、なんでもどうぞ)

majissuka
質問者

お礼

こんにちは。お手数をお掛けして申し訳有りませんでした。 師匠のご説明のお蔭で見えてきました。シェリングの哲学の根底には絶対者や同一性があるのですね。 シェリングの理論を部分的に見てしまうと、強引に見えてしまう点もありますが、もう少し勉強を進めて行けば理解できるのかも知れませんね。 色々とありがとうございました。 また何かありましたら宜しくお願い致します。 失礼致します。

その他の回答 (12)

回答No.12

こんにちは、gbです。 えと、どういうふうに答えようか、いろいろ考えたんですが、わたしはこれまでカントの「知的直観はない」を唯一の根拠に、一連の回答をやってきました。 だけど、それでは質問者さんの問題意識にそぐわないわけで。 あまりドイツ観念論については詳しくないので、ちょっくら本を読んでます。 なんとなくフィヒテが言わんとしてる「知的直観」がわかるような気もしつつあるので(笑)、もうちょっとまってください。 で、いまさら補足要求なんですが(爆)、質問者さんがわかりたい「知的直観」、たとえば本ならその文脈、時代なら、どのくらいの時代、「知的直観」について知りたい!という気持ちが生まれた背景など、なんでもいいからもう少し情報、ください。 なんかね、やっぱりこの概念は、神の啓示とも相まっていて、西洋思想のなかでは伝統的にある概念なんです。 伝統的、っていうことは、ものすごく幅がある、ということでもある。 それこそ、理解しようとなると、大変なことになるので、絞れるだけ、絞っていきましょう。 ということで、回答、すこし遅くなるかもしれませんが、絶対しますので、もうちょっと待ってくださいね。

majissuka
質問者

お礼

いつもお世話になっております。 ghostbusterさんの大切な時間と労力を頂いてしまい、何とお礼を言えば良いのか・・・アセアセ とりあえず「先生」と呼ばせて頂きます。

majissuka
質問者

補足

私が「知的直観」と言う言葉を知った文脈は以下の通りです。芸術哲学での一文です。 シェリングによれば、精神という概念的なものと自然という実在的なものは、本来は同一の絶対的なものの二極に過ぎない。宇宙的なこの同一性は、論証や媒介なしに事態を洞察する知的直観によって哲学的に理解される。知的直観は、もともと精神の側の主観的観念的な働きであるが、哲学者ならぬ万人が容易にこの同一性の事態を理解するためには、同一性が見るに見易い自然の側の客観的実在的な働きで表現されることが求められる。この客観的表現が芸術作品である。そして、芸術は客観化された知的直観である美的直観によって理解される。つまり、芸術とは「哲学者が主観的にのみ呈示することのできるものを、一般的妥当性をもって旨く客観化できる」もの、なのである。 以上となります。 哲学初心者の私としましては、「知的直観」と言う言葉を始めて目にした為、正確な意味を知りたく思い、辞書を引いたところ、例の解釈がなされていた為、混乱してしまった次第です。 宜しくお願い致します。

回答No.11

>推理(あらかじめ知られていることから、筋道を追って新しい知識・結論を導き出すこと)と考えても宜しいでしょうか?  これはそのまんま、カントが「理性」と呼んだはたらきなんです。 「あらかじめ知られていること」というのは、カントにとって感性が情報を集め、直観がそれを像に変換し、悟性がカテゴリーに分類する、ということです。それを推理するのが、理性の働きなんです。 「知的直観」なんて存在しない、とカントがいうのは、ご指摘のとおり後者の「あらかじめ知られていることがない」ものごとを、直観する、しかもそれは感情的とか、知覚的ということではなく、理性をもとに直観する、そんな能力はありえない、っていうことなんです。 カントは比較的丁寧に読んでいるのですが、シェリングは、哲学史レベルの基本的な知識しかありません、だからシェリングが「知的直観」を、カントがやったように、人間の認識の形式に則してきちんと分析していったのかどうなのか、よくわからないんだけど、わたしも「そんなことができるの?」とどうしても思ってしまいます。 たとえばもうちょっと時代がくだったベルクソンなんかは、本能と知性を対置するんです。そうして、本能のもっとも純粋な形式を「直観」とする。 知性は、ものごとを分析する。これは対象の相対的側面を見るものだ。 それにたいして、生命の本能が、一点の曇りもなく自覚されたものが直観である。 真に実在するものは、直観によってしか理解しえない。 ここらへんの考え方は、西田幾多郎とも通じると思うのですが、こっちのほうがシェリングなんかより、ずっと感覚的に受け容れやすい感じですよね。

majissuka
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。いつもお世話になっております。 どうもカントが邪魔をして知的直観を理解できないようですw 「これがそうだ!」と言う具体例があれば良いのですが・・・

回答No.10

こんにちは。 「具体的例」という手駒は無学ゆえに持ち合わせておらんのですが先日、心理学カテにおいて関連性があると思われる実に興味深い論文を目にしました。 役立てていただけるかも知れません。 心理学カテ「主観を構成する要素の定義」 ANo.6の参考URL

参考URL:
http://personal.okweb.jp/kotaeru.php3?q=1330924
majissuka
質問者

お礼

アドバイスありがとうございます。 URL参考にさせて頂きます。

回答No.9

見かけ上、ちがっているような感じもしますが、実はそれほどちがっていないのです。 「知的直観」ということがふたたび言われるようになったのは、シェリングがカントが否定した「知的直観」を、もういちど中心に据えたことからです。 ここらへんの流れを押さえたら、そこらへんがもう少しわかってくるかもしれません。 まず、カントは人間に共通するものごとの認識のやりかたをあきらかにしようとします。 いまだったらどうやってやるのでしょう。わたしは認知心理学は全然知らないんですが、脳のメカニズムを調べたり、サルなんかを使って実験したりするんじゃないのかしら(ちがってたら、ごめんなさい)。 ともかくカントの時代は全然そんな時代じゃなかった。 ことばを定義しながら、思考を積み重ねる。そのことによって、すべての人間が同じ認識の形式を持っていることをあきらかにしようとしたのです。考えてみると、ものすごいことです。考えるだけでそんなことをやっちゃうんだから。頭、良かったんだね(って、こんなこと書いてるから回答が長くなる……)。 カントのすごいところは、人間には認識できない領域がある、と限界をあきらかにすることによって、逆に、人間の知がはたらく領域を確保したところにあります。 まずhttp://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=748690 ここの前半、ショーペンハウアーに入る前のところまで、見てください。 かなり粗っぽいんですが、とりあえず第一歩として、感性、悟性、理性を整理する役にはなんとか立つんじゃないかと思います。 悟性、というのは、耳慣れない語ですが、だいたい「知性」と同じと理解していいのではないか、と、ためらいつつここでは書いておきます(実は研究者によってここは解釈に差があるところなんです)。 人間の理性(感性のはたらきによらない純粋理性)は神や物自体、宇宙を認識することはできない。 ならば神はいないのか。 そこらへんのことに関しては http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=974573 で粗っぽく書いています。 こうしてカントは現象界と物自体の世界を分け、人間に認識しうるのは現象界だけだ、と規定した。 ところがカントにつづくフィヒテ以降の人々は、この二元論をなんとか克服しようとします(ところが、なんて言っちゃいけないのかもしれないけれど、カントが好きなわたしとしては、努力の方向が間違ってんじゃないの、と言いたいところです)。 フィヒテは、「わたしはわたしである」ということから、哲学を基礎づけようとします。すべての経験の根拠は「自我」にある。この自我が純粋で自発的な活動をおこなうことで、あらゆる意識の根底にある。 「自我」とはわたしがわたし自身についてもつ意識ですが、この自己意識が可能であるためには、わたしはわたしの外に出ることが、どうしても必要だ。そうやって、外から見ることで、わたしを対象化するんです。 そこで「自我」は、必然的に「わたしならぬもの」つまり「非我」に出会う。 意識とは、「自我」と「非我」が出会うことなのだ、と。 つづくシェリングは、この「自我」と「非我」、あるいは主観と客観、人間の精神と自然界の間には、絶対者が共通している、とします。この絶対者を「知的直観」によって把握しようとするのです。 神? ではないんです。これはヘーゲルに至って「精神」と名づけられるものです(ここらへんは複雑なのであまり先走らないほうがいい)。 こうやって流れに沿って見ていくと、 >現象を超えた根本的実在を、理性・観想など知性的働きによって直観すること >哲学で、超感性的なものや事物の本質を感性的直観の媒介や論証などの手段によることなく、直接的に把握する英知的な認識能力 というのは、ともにシェリングがやろうとしていたことの説明になっていると思います。 まず目的語を見てみましょう。 二番目の「超感性的」というのは、つまり経験による知覚を超えたもの。 「事物の本質」というのは、現象の向こうにある真の実在。 つまり、「現象を越えた根本的実在」と同じことを別の言い方で言っています。 つぎに手段。 一番目の「知性的働き」は結構ビミョーな言い回しなんですが、おそらく感覚器官などによらない、理性の作用による働き、ということが言いたいような気がします。「知性の働き」ではなく、「知性的」って言ってるでしょ? あるいは、カントの「知性」の解釈をめぐる差異を含めて、最大公約数的な表現をしているような気もします。ここらへんは、よくわかりません。 二番目の「感性的直観の媒介」というのは、カントのいう「直観」をもとにした「悟性」のはたらきのことを言っています。 「直接的に把握」というのは、「直観」の言い換え、「英知的な認識能力」というのは、理性による認識能力のことだと思います(カントは物自体の世界のことを「叡智界」とも呼んでいるので)。 つまり、ともに「現象を超えたところにある真に存在するものを、感覚器官による認識を通さずに、理性を用いて、直観的に見出すこと」ということとして、まとめることができると思います。 ずいぶんわかりにくい回答かもしれません。 これが「知的直観だ!」って取り出して見せることができれば、ラクで良いんだけど……。

参考URL:
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=748690, http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=974573
majissuka
質問者

お礼

いつもありがとうございます。 何度もお手間をお掛けしてしまい申し訳ございません。 >つまり、ともに「現象を超えたところにある真に存在するものを、感覚器官による認識を通さずに、理性を用いて、直観的に見出すこと」ということとして、まとめることができると思います。 知的直観=推理(あらかじめ知られていることから、筋道を追って新しい知識・結論を導き出すこと)と考えても宜しいでしょうか? それとも、あらかじめ知られていることなど存在しない、全く未知の状態から、感覚器官を用いずに知識を得ることなのでしょうか? 前者であれば理解できるのですが、後者になりますと全く理解することができません。

回答No.8

この間から、この質問にどう答えたらいいか考えていたのですが、まだ閉じられてないようでしたので、回答を書いてみたいと思います。これまでの質問から、質問者さんがきちんと読んでくださる方とわかっていますので、わたしもできるだけ用語を正確に書いてみます。 カントは人間には「知的直観」は存在しない、といいます。 「直観」ということばも、西洋哲学史全体に渡っていることばなので、年輪があり、かつまた使用する人によって「ぶれ」があります。 そういうことばを扱うとき、幅のあることばは幅のあるものとして、受けとめる。プラス、普段使用していることばに引きずられないことが大切です。 「直観」と「直感」はちがいます。「直感的にそう思った(=ピンときた)」というのと、「直観」による理解、というのはちがうんです。 直観というのは、まず基本的なところとして、わたしたちの認識能力のうちの、経験によるものでもなく、理性によるものでもない、それぞれから独立したひとつの形態である、ということをおさえておいてください。ちょっとわかりにくいね。 この「直観」が請け負うのは、大きく分けて二種類の領域です。ひとつは数学の公理。 「AはBに等しく、BはCに等しければ、AはCに等しい」とか、「全体は部分より大きい」とかというものは、証明はできないけれど、無前提に正しいものとして、あらゆる命題のスタートラインとなるものです。 公理から公理は導けない。ほかのある命題から導けるものは、公理ではありません。 こうした公理を見出す働きは、「直観」によるものだ。 もうひとつは、キリスト教にあって、人間が神を知る方法のひとつです。 人間が神を見出すのは、知性ではない。経験でもない。この「直観」によって神を知るのだ。 ね、なんとなくデカルトにもつながっていく感じ、わかるでしょう? だいたい中世まで、「直観」というのはこういうポジションを持ったことばとしてありました。 この「直観」を、大きく人間の側から位置付けなおしたのが、カントです。 >「現象を超えた根本的実在を、理性・観想など知性的働きによって直観すること」 まず、現象というのは、わたしたちが認識できる世界のものごとです。 実在、というのは、これも普段のことばに引きずられやすいんだけど、哲学では現象に対応することばです。 どこかに不変の真の実在があって、人間が見ているのは、その現れ(現象)にすぎない、こういう考え方は、ギリシャ時代からずーっとあったんです。 人間の知覚するものは現象にしかすぎない。 逆にいうと、現象の向こうに、真の実在が存在する。 これは、ニーチェが批判するまで、西洋の哲学を支配していた考え方です。 カントは、わたしたちの認識は、まず感性(知覚)によって、対象の直観が与えられ、その直観を悟性が分類することによって成り立つ、と考えます。つまり、見たり聞いたりすることによって、対象の像が与えられ、それを心が受け容れやすい形式に変換する、この働きを「直観」と呼びました(ついでにいうと、「理性」とは、悟性で得られた認識を統合しつつ推理する能力のことです)。 だから、カントは感性(知覚)と結びつかないかたちの、非感性的な直観=知的直観は存在しない、と言います。 見たり聞いたりできないものの存在は、直観として受け取ることができない。 たとえば神。 直観によって、神を知ることはできない、と、中世以来の考え方を批判したのです。 なんとなく、カントが批判したことで「知的直観」って、見えてきましたか? ここでいったん切ります。わかりにくいところ、もっと知りたいところなどありましたら、補足ください。

majissuka
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。いつもお世話になっております。 カントは知的直観を否定したのですね。知的直観を理解するには、まずはカントを否定する必要があるのかもしれませんね。今のところ辞書等を引いても直観と直感の違いも理解できない状況ですが、この辺りもカント否定が必要なのかもしれません。 私の読んだ書籍では、芸術哲学のところで、シェリングの言葉として知的直観と言う言葉が出てきたので、カント以降も知的直観の考えは続いていたのですね。 知的直観を辞書で引くと、以下のように余計に混乱してしまいます。 辞書1「現象を超えた根本的実在を、理性・観想など知性的働きによって直観すること」→理性(感性・悟性から区分されるもの)や観想(感官的知覚や行為の実践を離れて対象を直観すること)は、知性(知覚をもととしてそれを認識にまで作り上げる精神的機能)とは区分されるものでは?  辞書2「哲学で、超感性的なものや事物の本質を感性的直観の媒介や論証などの手段によることなく、直接的に把握する英知的な認識能力」→超感性的なものとは? 感性等を介さず直接把握するとは?

回答No.7

私たちが私たちを取り巻くものごとを知る際に、  「もうすでに自分の内面で知っている」という感覚を持つ時に、  これを「直観」と呼びます。  たとえばある人と出会って「一目ぼれ」するような場合です。  「直観」が何で成り立っているかの原因はその瞬間には目に見えません。  これに対して「この人は金持ちなので、結婚すればリッチになれるはずだ」  「この人は、これまでxxxのことをしてくれたので  恩義がある」  などといった「目に見える」もので判断することを「分別知」と言います。  この分別知の方は「目に見え」「分析できる」という特徴があります。  したがって「直観」+「知」は本来は相対立する  概念です。  それをあえて「直観知」という合成語として問うておられるということは  哲学者の誰かが、新しい切り口の分類手法として使ったということでしょうか?  それとも単に「直観的認識」のことを「直観知」として問うて  おられるのならば最初の説明で尽きています。    

majissuka
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 書籍を読み進めて行くうちに、「知的直観(感性・悟性)・・・」と記載されている箇所がありました。感性により知覚して、悟性により認識にまで高めると言う意味なのかも知れません。

majissuka
質問者

補足

ごめんなさい。間違えました。 (感性・悟性)となっていたのは知的理性でした。 私、只今故障中です・・・

回答No.6

解らないということが わかるということは とてもすばらしい.   ソクラテスの言う無知の知 それが始まりだ.    

majissuka
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 素晴らしい言葉をありがとうございます。

noname#15238
noname#15238
回答No.5

お礼拝見しました。 難しいですね、検討するためにお礼をコピーしました。 >知的直観を辞書で引くと「現象を超えた根本的実在を、理性・観想など知性的働きによって直観すること」または「哲学で、超感性的なものや事物の本質を感性的直観の媒介や論証などの手段によることなく、直接的に把握する英知的な認識能力」等と出ているのですが、ここで言う『現象を超えた根本的実在』が何なのかも理解できませんし、『感性的直観等を介さずに直接把握する』と言う感覚も理解できません。 私の辞書で知的直観を調べました。 感性的知覚や論証的認識によらず、超感性的なものを直接に理性でとらえること。経験論、唯物論論理実証主義の哲学ではこれを否定するが、形而上学では重視されている。 うむ~益々解かりませんね。 「現象を超えた根本的実在」これは、現象学の始まりを見れば解かるかもしれません。 『感性的直観等を介さずに直接把握する』「直接に理性でとらえること」と言われれば、私も否定せざるをえませんね。 これはもうあれです、 例えば、哲学は、カントの哲学、ヘーゲルの哲学などと、人の名前で表記されることが多いです、これは、各々の虚構を構成するわけで、その中の一部の言葉に普遍性を持たせるのは不可能なのでは無いでしょうか? この辺で、白旗を揚げて、退散することに致します。長文失礼しました。

majissuka
質問者

お礼

アドバイスありがとうございます。 もう少し考えてみます。

回答No.4

トラの威を借る狐. 権威に寄りかかる似非宗教屋. ”常識”を売り物とする哲学屋. そこに居れば安心だからね.  

majissuka
質問者

お礼

度々のご回答ありがとうございます。 そのような方も居ると言うことですね。参考にさせて頂きます。

noname#15238
noname#15238
回答No.3

お邪魔します、回答ではありません。 カタカナ語の「テオーリア」の意味が解らず、調べていました。 「テオーリア」 観想、観照、実践や制作と区別される、真理そのものの認識や直観。 三省堂カタカナ語辞典より 「ニーチェを受けたハイデッカー以来の「実存」の哲学は、伝統的な知や認識、観想することとしてのテオーリアから存在を考えるのとは、決定的に異なる思惟を求めた。」現代思想の冒険者たちより 此処では、知的直観の知的が否定的に扱われています。 具体的には、物を見ることが、既に「良い悪い」の区別を知識や経験に則して観ているのでは、と言うことではないでしょうか? 常識的な「知的直観」とは、違うようですね、難しいです。

majissuka
質問者

お礼

アドバイスありがとうございます。 知的直観を辞書で引くと「現象を超えた根本的実在を、理性・観想など知性的働きによって直観すること」または「哲学で、超感性的なものや事物の本質を感性的直観の媒介や論証などの手段によることなく、直接的に把握する英知的な認識能力」等と出ているのですが、ここで言う『現象を超えた根本的実在』が何なのかも理解できませんし、『感性的直観等を介さずに直接把握する』と言う感覚も理解できません。

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