• 締切済み

仏教と咒の関係

お世話になります。 仏教はもともと反インド思想的な立場で、釈迦も、最初はインド的な咒(真言、陀羅尼)を一切禁止していたそうです。しかし今では当たり前に存在しますね。これはどういう論理でそうなったんでしょうか。仏教と咒の間に矛盾はないんでしょうか。

noname#9289
noname#9289

みんなの回答

回答No.6

僕は今、「空海の風景」という司馬遼太郎氏の本を読んでいますが、これが参考になると思いました。上下二巻あります。

noname#9289
質問者

お礼

どうも有り難うございました。近いうちに是非よんでみます。

  • yuhkoh
  • ベストアンサー率48% (350/723)
回答No.5

確かに釈尊は初期の段階ではマントラ(咒)を禁止していましたが、後に歯痛止めや毒蛇除けの咒の使用を認めました。弟子たちの現実的要求は認めざるを得なかったのでしょう。  釈尊在世中であるならともかくとして、そうでないならば釈尊が行ったであろう、瞑想の実践こそが修行ですが、そのプロセスの一つとしてジャパ、つまり聖音であるマントラを繰り返し唱えるという「念誦法」という瞑想(観法)が行われるようになりました。また念仏も「仏を観相し念じる」という瞑想であり、その一つとして「仏の名を口にする」、そして特に阿弥陀如来の念仏が重視されたので「念仏=南無阿弥陀仏」と認識されるまでになりました。現代人が仏教徒のシンボルのように思っている数珠も、本来はバラモンがジャパを行う際に用いていた道具を取り入れたものです。仏画でも羅漢(小乗)は数珠を持たないが、菩薩(大乗)は持つ。数珠は大乗仏教の修行を表しているといっても過言ではないでしょう。  つまり仏教は“世間的なおまじない”であったマントラを、仏教修行の一つとして完成させていったのではないでしょうか。そしてその功徳のひとつに“世間的な望みも成就する”のですが、通俗的にその一面のみが強調されたのでしょう。  また“釈尊は云々”と述べる人たちには、一つのバイアスがかかっているようにも思えます。つまり近代仏教学というものが「仏教の哲学化」を目指していた。そうであれば初期仏教が正当で、大乗は亜流、密教に至っては堕落、という認識がなされていました。また通俗受けする“仏教学者”と称する人たちは未だにそんな仏教観を持っているようにも思えます。そこで釈尊の言葉の一面性だけを取り上げて、「これこそ正当仏教」と吹聴しているようにも思えます。しかし釈尊といえども当時のインドにおける神話的世界観・歴史的背景などの影響を全く受けていないとする方が不自然でしょう。逆に言えば神話性を否定し、合理性・哲学性のみを強調するのも仏教の神話化ではないかとの考えもあります。初期仏教においても多種多様な信仰・思想が混在していた。しかし仏教の大道さえ見失っていなければ、それは仏教なのです。  釈尊も言われたでしょう。「法を灯明とせよ」と。  なお、釈尊在世中のインドの多文化性から初期仏教の姿を探る良書として、名古屋大学名誉教授で現在、真言宗智山派管長・智積院化主である宮坂宥勝先生による『ブッダの教え スッタニパータ』(法蔵館)があります。 参考 『ブッダの教え スッタニパータ』(宮坂宥勝・法蔵館) 『般若心経の新世界 インド仏教実践論の基調』(宮坂宥洪・人文書院)

参考URL:
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4831872350/qid=1106662271/sr=1-5/ref=sr_1_10_5/250-4912532-2280222
noname#9289
質問者

お礼

丁寧なお答えを有り難うございます。 範囲をあまり広げると難しいので咒に限って質問させてもらってます。 >仏教の大道さえ見失っていなければ、それは仏教 確かにそうだと思います。別に大乗がダメとは思わないですし、風土や国民性に合わせる必要性もわかります。ただ、逆に咒は変わってないのがどうなのかなと。咒はサンスクリットの変形だそうですが、それがインド人にもっている意味と意味の全然わからない日本人に持つ意味は違うはずですよね。なのに変わらずに大事に守られてきたのは、どの国でもそれが神とか神性に通じる神聖なものと受け止められてきたからではないんでしょうか。その点は仏教の大道ではないんじゃないかという気がします。

  • Syo-ya
  • ベストアンサー率31% (558/1780)
回答No.4

仏教にもいろいろあるんです。 オリジナルの仏教は、<おそらく、いや、確実に> 信仰を説く宗教では無く、 心を幸せに豊かにするための心理療法的なものであったろうと想います。 なぜならば、輪廻転生は「業(行為)」から成ります。 「業(行為)」は「心」から生まれます。 その「心」を正すことが輪廻転生からの解脱を果たすんですから、 <おそらく>心理療法的なものだったと想います。 法句経も「ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。・・・・」で始まります。 で、その具体的な方法として「妄執の矢≪妄想。執着≫」を抜き去ること、「今、ここの自分」を徹見することを根幹にしてましたので(心を穏やかにして、平常心を養うこと)、マントラのような神秘的なものは、逆に妄執の矢を射るようなものですから呪文、祈祷、占いの類は禁止されていたんです。(道理に叶っていると想います) ですから特に反インド思想に基づいて禁止していたわけではないと想います(個人的に) あくまでも実践的、現実的な問題として排除してきたんだと想います(形而上の話題もしませんでした)。 誰にでも確認可能な明確な根拠があることだけを信じ、語りなさいということだと想います。 ・・と、<おそらく>オリジナルの仏教とはこういうものだったと想うんですが、これがいつしか、お釈迦さまの舌は顔全体を覆うほど大きいとか、性器は体内に格納されているとか、母親のわきの下から生まれて「唯我独尊」と言ったとか・・・・になってしまい、妄執の矢を抜くハズのお釈迦さまの教えが、みんなの心に妄執の矢を射るようになってしまったんです。 でも、当時の雰囲気として、お釈迦さまの教えは出家者でないと解らないようになっていたらしく、また、本当に救いを求めているであろう在家の人達とは一線を画していたんだそうです。 そんな在家の人達を軽視した出家至上主義に対抗して、 大乗仏教という大衆を中心とした新しい仏教が誕生するんです。 そしてそれまでの仏教を小乗仏教と軽蔑して呼んだんです。 (これも無理からぬことだったと想います) ・・・と、そんな流れが複雑に絡み合った結果のものですから、 <おそらく>矛盾はしているんですが、なんとも言い難いところでもあるんです。

noname#9289
質問者

お礼

丁寧な回答、有り難うございます。 大乗全部がダメというのではないんですが、咒を認めるかどうかは仏教の根本的な考え方に関係するように思って質問させてもらいました。上の方のお礼にも書いたんですが、咒は自分を超える存在や力への信仰が前提になっているので否定されたんだと思うんです。そこが仏教とヒンズー教を分けた一線だと思います。咒を肯定するんなら密教とヒンズー教の根本的な違いって(思想的に)何になるんでしょう。

回答No.3

釈迦はただ悟りへの道だけを説いた. 欲望や我侭によって神に対する祈りはなされるべきではない. 神に対する祈りは無邪気な,無私,無我の境地にて行われなければならない. だからこそ釈迦はただ悟りへの道のみを説いた. 邪心の無く和を望む心境こそが祈りへの登竜門である. そして祈りの内容は和の希求そのものでしかありえない.

noname#9289
質問者

お礼

どうも有り難うございました。

noname#21592
noname#21592
回答No.2

確かに、釈迦は、邪教として、祈祷真言などを、安易に使うな。との、教えを説いたと、おもいます。 しかし、中国を経て、日本に伝播した折、現世利益としての祈祷は、政治つまりまつりごとを制するには、必要であるのと、収入を得る道として、復活したのだと、思います。 禅宗系には、もともと祈祷は、無かったのですが、天台、真言密教の影響のもと、現在も祈祷をしますが、経典の真髄は、天台本、真言本を、参考にしています。 もともと、座禅には、祈祷という慣習がないが、施主の要望により、行われているのです。 日本仏教とインド仏教の違いでしょう。

noname#9289
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 日本仏教とインド仏教の違いというのはわかります。ただ天台も真言も創立当時は何が釈迦の本当の言葉かというのはわかっていなかったんですよね。今は歴史的に釈迦が呪文を禁止していたことがわかっていますが、それにどう対応しているのか疑問に思ったわけです。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.1

参考程度に 釈尊自信は、当時のカーシャパ三兄弟をあっというまに折伏したようにすさまじい霊能力を持っていたことは確かですね。しかし当時の頭の悪い弟子に、そんなことを教えようものなら気がくるって旧オーム信者状態になってしまうと考えたのでしょうね。だから禁止したと考えられますね。密教の開祖は空海さんですが、空海さんは当時でも天才と言われたほどの人物ですから、智のうらずけがあれば霊能力もよいということでしょうね。つまり知恵が十分であればよいということですね。知恵が十分出ない場合は、霊能力信仰(密教)は現在でもあぶないですよね。何にとりつかれるやら解らない怖さがありますね。そんな感じかと。

noname#9289
質問者

お礼

有り難うございます。

関連するQ&A

  • 八部衆真言

    仏教における八部衆の真言陀羅尼って存在するの? もしあったら全て知りたいです。おしえてください。

  • 仏教徒が修行するのはもう生まれてきたくないから?

    仏教に興味がある初心者です。 仏教やヨガの修行をしている人は輪廻を脱するために修業するそうですが、 やはり悟りを目指している方はもう生まれてきたくないとかんがえているのでしょうか? 一切皆苦という有名な言葉がありますが、これが仏教の根本となっているのでしょうか? 仏教徒が妻帯を禁止されているのはこのあたりの理由もある気がします。 つまり、新しく生まれてくる子供のことを考えると生むべきではないと考えての事なのかもしれないということです。 ちなみに私個人としては人生は辛いことが殆どで、もう生まれてきたくないと思っていますが、 世間の人はそう考えているようには思えません。 すくなくとも大多数のひとは生まれてくることが素晴らしいことのように捉えていると感じています。 長くなりましたが、仏教やインドの思想に詳しい方の回答をお待ちしております。

  • 仏教と釈迦って、どれだけ深い繋がりがあるのですか?

    根本的な質問になってしまいまして、回答者の中にはそんなことも知らないの!?なんて言われてしまうかも知れませんが、ここは恥を忍んで質問をさせて頂きます。以下に質問事項を記載しますので、宜しくお願い致します。 (1)仏教は紀元後何年に生まれたものですか?起源地はインドでいいのですよね? (2)釈迦が仏教を最初に唱えたということでよろしいのでしょうか? (3)日本語で釈迦という言葉と、外国人が言う仏陀という言葉は違う人物を指すのでしょうか? (4)『神仏異を唱えず』ということわざがありますが、神と仏の抜本的に異なる点とはなんでしょうか?仏を英語訳するとJapanese godでいいのでしょうか? (5)『南妙法蓮華経~』という仏法は日蓮宗からの起源?それとも天台宗・真言宗からの起源? 以上5点なのですがいずれも基本的な質問で申し訳ないのですが、お分かりになる方がいらっしゃいましたら、ぜひご回答下さい。外国人が日本に訪問された際にでも、日本の仏教について英語で分からせてやりたいと考えて今回質問させて頂きました。何卒宜しくお願い致します。

  • 仏教について

    歴史学、若しくは宗教学から見た下記質問へのご教示をお願いします。 1.ゴータマ・シダッルタは本当にこの名前だったのですか?   (ゴータマは正しいが、シッダルタと言うのは初期経典には書かれていないと言う文章をどこかで読んだので) 2.仏陀自体は経典を書かれた事は無いのですか? 3.最初の経典が書かれたのは、仏陀が入滅してから100年後ですか? 4.仏教史から見て、仏陀の初期教団が何らかの格闘技をやっていた事実が書かれている経典があるのですか? 5.仏陀はシャーキャ族の王子だったのは歴史的事実から見て正しいのですか(この質問は仏教経典での事実は除きます)? 6.(話しは飛びますが)、真言宗は大乗仏教ですか?その場合、密教=上座部仏教と言うのはまるきり間違いなのですか? 7.伝法阿闍梨、大阿闍梨は日本に何人ぐらいいるのでしょうか? 以上、宜しくお願いいたします。

  • 大乗・小乗仏教について確認させてください

    小乗仏教⇒ 無神論 ・ 釈迦の直接の教え(間違いない) 大乗仏教⇒ 有神論的 ・ 釈迦の教えを何百年かけて弟子達がまとめた/理論付けた。 だから釈迦の教えではないかもしれない(というか実際矛盾がある) しかし釈迦は大乗についてノーコメントなので絶対違うとも正しいとも分からない。 ↑合っていますか? 大乗仏教の図式は、大宇宙に釈迦と同等の仏様(大日、ビルシャナ、薬師)、それらの師匠の阿弥陀様がいる。その他に仏様を助ける菩薩様が大勢。すべて信仰対象。 ↑これも合っていますか? 大乗非仏説というのがありますが、釈迦が説いたものではないという証拠がもし見つかった場合、例えば奈良の大仏(ビルシャナ仏)は仏教と無関係の単なる作り物になってしまうのでしょうか? 仏教はもともと生きるための知恵だったようですが、僧侶が権力を持つための道具になってしまい、 人々の自己満足と宗教団体の共存という図式ができあがり、今でもその風習が残っている、 そのようにも思えましたがどうなのでしょうか。お寺の存在自体も分からなくなってしまいました。

  • 仏教で言う「空」を分かりやすく説いた本は?

    仏教で言う「空」について、本当に理解している人が書いた、分かりやすい本を教えて戴きたいです。 どうぞ、よろしくお願い致します。 これまで、「釈尊の悟り」、「仏教百話」、「やさしい唯識」、「唯識のすすめ」、「はじめての唯識」、「「唯識」の読み方」、「仏教の思想2、存在の分析<アビダルマ>」、「日本人のための宗教原論」などを読みました。 なんだか、うすうす分かった様な気がしていますが、論理展開に無理があるような説明だったり、途中から論理が飛躍しているような説明だったりしていて、今一、はっきりと、「なるほど。良く分かった!」と思えるような説明にめぐり合っていない気がしています。 キチンと理解したいので、反論や疑問を感じないほどの、行き届いた論理展開をしている本を読みたいです。 どうぞよろしくお願い致します。

  • 空海の思想は、梵我一如思想と一線を画していたのでしょうか

    私は秋月龍珉氏の「誤解された仏教」を先日読了しました。 その中に 「空海の思想は釈迦の縁起、無我思想にまだ近かったが、以後の真言宗の思想家はみな梵我一如思想に接近してしまった。」 とありました。 空海自身の思想は、梵我一如思想から一線を画していたとは、どういうことでしょうか?私は空海思想がよくわらないので、どなたか教えていただけないでしょうか。よろしくお願い致します。

  • 仏教など文化の伝来、そして宗派仏教

     1. 稲作など、日本への文化朝鮮半島を媒介しての伝来だとの講義でしたが、朝鮮半島を経由しない太平洋沿岸から伝来した文化はないのでしょうか?或いは朝鮮半島を経由しない中国大陸からの文化伝来はなかったのでしょうか?(自治体のシニア対象講座を聞いていて判らなく為りまして、・・・。)  cf. 大野普(誤字かな)さんの言語(と人)の伝播では、南アジア、南インドから、海洋を経由して伝播してくることも不可能ではないというようなお話も思い出しておりまして。  2. 仏教が奈良時代に伝来したとの事ですが、これは何宗というものではないのですね。何宗でもない仏教とは、今の私たちには理解しにくいのですが、鎮護国家の仏教でもないのですね。どんな仏教なのでしょう?  3. 宗派仏教は弘法大師(空海)の真言密教が伝来の最初でしょうか?  4. 宗派仏教とはどこで何時ごろ生まれているのでしょうか?  5. 他のアジア諸国にはこの、宗派仏教というのがやはり伝播しているのでしょうか?   どうかなにとぞよろしくお願い申しあげます。

  • 百万塔陀羅尼経の願い事を教えて欲しい

    百万塔陀羅尼経にはサンスクリット語で読まれた内容を漢字で記述されていますが、インドの国内の事が書かれているようです。 当時の天皇が、以下のような内容を願って百万塔を納めたようです。以下の文章の全文をご存知の方お教えください。 以下の内容は、お寺さんからお教え頂いたものです。 根本陀羅尼は一切の諸天善神が国を守る故に疫病や闘争などの非法はないと説き、 相輪陀羅尼はこれを礼拝すれば五無間業や一切罪障は消滅すると説き、 自心院陀羅尼は寿命延命、身浄無垢、衆病悉除、災障消滅を説き、 六度陀羅尼は呪の力で護持し悪や怨念から守るという内容が説かれているようです。

  • 仏教に感じる矛盾について

    素朴な疑問です。こういう場所で訊くのは野暮な気がする一方、一度は訊いておいた方がよい気がするので思い切って質問します。 以下は最近、私が頂戴した回答の一節です。著作権に敏感な方があってはいけないので出典を記せば、 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5114865.html のNo.2です。 ここに、 >>仏教の目的は、「成仏」、つまり、お釈迦様と同じ境地、境涯に至るというです。 お釈迦様の境地、境涯というのは、お釈迦様と同じ境地、境涯になった者だけが解ると言われています。<<・・・・・(*) とあります。 私に仏教の素養はありませんが、多分、この一節は正しいのだと思います。「言われています。」と伝聞形であることからNo.2の回答者特有の認識ではなく仏教界全体に共通した理解らしいと見て取れます。そうだとすると大いなる素朴な疑問が生じます。 ・釈尊は出家し乞食生活に入りました(スッタニパータ)。 ・在家にあって帰依する者は法による供養に努めるのは勿論のこと、財物の布施によっても出家者を供養せねばなりません(維摩経、第12章「法供養」)。 さて、在俗の者が解脱を目指し精進するとします。よく精進し境地が進めば何時しか在俗のままでは修行の限界に達して乞食生活に入る必要が生じるでしょう。この結果、釈尊の境地に近づく者が増えれば増えるほど出家者が増え、これはまた、在家が減少することを意味します。救われる者の生活(出家)が救われない者(在家)によって支えられているために釈尊の境地に近づく者が増えれば増えるほど救われない者の負担が増え、よってまた救われる者の生活も破綻に向かいます。共倒れにならないためには圧倒的少数の救われる者と圧倒的多数の救われない者の存在を維持しなくてはなりません。救われない者の存在が条件になるのでは教えの根本に矛盾があるというしかありません。 人類の規範たりえる思想は経済的自立を主張することが必須の条件の一つだと思います。 この疑問は次のどれかに根ざしていると思います。 1 私が何かを誤解をしている。 2 (*)が誤っている。 3 釈尊は究極に於いて出家も在家も餓死してよいと考えている。 4 釈尊の思想には欠落があり仏教は人類の規範たりえない。 5 その他。 この質問は視点が非仏教徒の立場にあります。信徒向け限定ではなく万人向けの解説を望みます。また、アンケートでもないし詩歌の鑑賞でもありませんから、皆様の考えの開陳を望んでいる訳ではありません。単なる感情の吐露ではなく論理による説得を期待します。必要であれば宗派の明示を頼みます。 よろしくお願いします。