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ヒュームの自然

ヒュームの自然とボップスの人間 と言う表現がありました、 ボップスの人間は理解できるのですが ヒュームの自然が理解できません。 「万人に対する万人の戦争」これに対応する ヒュームの自然を教えてください。 検索はヒットしましたが、アクセスできませんでした。

noname#15238
noname#15238

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回答No.1

まず、当時の思想の流れをさらっていきましょう。 17世紀初頭、諸科学の発達にともなって、機械論が盛んになってきます。 それ以前には、すべては神の計画によって定められている、あらゆる自然現象が理にかなっていることも、その設計者たる神が理性的であったからである、とする目的論が主流でした。 それに対して、デカルトは、機械論の立場に立って、自然界の一切の変化は物体の運動によるものである、と考えます。 たとえば人間の身体も、小さな歯車を寄せ集めて動く時計のようなものだ、と考えたのです。 デカルトは世界には三種類の実体がある、と考えます。 第一は非物質的で無限な神的実体。 第二は物質的実体で、この本質は延長にある。 第三は非物質的な実体で精神。この本質は思惟にある。 このようにデカルトが精神、物体というふたつの実体はまったくの異なったもの、無関係である(二元論)としたのに対し、ホッブスは、自然のみならず、人間も、さらに国家も機械論によって貫かれている、と考えます。 ホッブスは、ガリレイに依拠しつつ、すべての存在は、物体とその運動としてとらえます。自然は、物体の機械論的結合から成り立っており、すべての変化は運動によって生起する、ととらえたのです。 ホッブスにあっては、自然界の法則は、そのまま人間界にも投影されます。 外部の物体の作用によって、人間の内側に快・不快の感情が生じる。 快とは生命の働きを促進するもので、不快とはそれを阻害するものである。 この感情によって、人間のうちに、快を求め、不快を避けようとするこころの働きが生じますが、これが欲求であり、嫌悪です。ひとつのものごとに対して、欲求と嫌悪が交互に生じる状態をホッブスは「熟慮」と呼び、さらに、熟慮のプロセスにおいて、最終的に勝利をおさめる感情が「意志」である、と考えたのです。 つまり、これはどういうことかというと、意志というのは、それに先立つ欲求によって必然的に決定されるものであって、意志の自由などというものは存在しない。 また、善悪というのも、人が善と呼ぶのは欲求された事物であり、悪と呼ぶのは嫌悪された事物であることにすぎない、ということになります。 したがって、善・悪というのは人により、また時と場合により、異なるものとなります。 したがって、人間はまったく利己的なもの、自己の生存本能にしたがって、その欲するがままに行動するにすぎない。 それゆえに、自然状態においては、人間の利己主義がもっとも極端に現れ、「万人の万人に対する闘い」となって現れることになるのです。 まず、ヒュームの先行者、バークリーは、デカルトの言う物質的実体の存在に異を唱えます。 諸物体の存在は、それについてわれわれが有する知覚以外のものではない。物体に関しては、存在とは知覚されたものにほかならない、とするのです。 ただし、バークリーはそれ以上に進むことはありませんでした。精神的実体としての魂の実在は承認していたのです。 ところがデカルトの「物体の本質は運動にある」という考え方は、ニュートン力学の登場によって解体してしまいます。 ヒュームはバークリー同様、物体の存在は知覚されたものにほかならない、とし、さらに、人間の精神の働きをニュートン力学によって説明していこうとするのです。 詳しいことは一切省いて結論だけ書きますが、ヒュームはデカルトの機械論はもちろん、あらゆる因果律(原因から結果が必然的に生じるという考え方)を否定します。 「理性は対象相互間の連関をしめすことができない。したがって、ある対象の観念ないし印象から別の対象のそれに心がうつる場合、この移行は理性によってではなく、これらの対象の観念を連合し、想像力において統一するある原理によって規定されている」(『人間本性論』泉谷周三郎『イギリス思想叢書5 ヒューム』からの孫引き) つまり、こうして因果律を否定してしまえば、科学的法則さえも否定されてしまうのです。 「必然性とは、対象のうちにではなく、心のうちに存在するものである」と。 一般に人間は、原因と結果の間にある種の因果関係があるものと信じています。 けれども、原因・結果の関係は、主観的な信念に基づいて成立するに過ぎないのだ、と。 現象間の因果関係を探求しようとする経験科学はついに確実な認識となることはできないのだ、と。 このヒュームの因果性の分析は、カントの「独断のまどろみを破」り、自然法則は、人間が自分の理解するものを世界に投影したにすぎない、という形で受け継がれていきます。 長くなってしまいましたが、回答を整理すると、「ヒュームの自然」とは、人間の知覚のうちにのみ存在するもの、そして、その因果関係は、心のうちに存在するもの、ということになるかと思います。

noname#15238
質問者

お礼

いつも、いつも、ご丁寧な回答、有難うございます。 去年の11月に質問した「先生」の回答の中にヒントがありましたね。出来の悪い「生徒」に温かいご支援、感謝と共に、自分の不出来を反省しています。 それにしても、去年はカントの形式的かつ難解な文章で頭の中が混乱していましたが(お世話になりました)今年は、現象学が、カントの純粋理性や悟性を否定しています。 またまた今年も、頭の中が混乱したまま年を越すのかも。 うん~学問て多すぎじゃない。 今回の質問について補足しておきます。 「要するに、ヒュームの自然は、存在する為にカントの悟性を必要とするだろうし、ボップスの人間はカントの実践理性を必要とするだろう」 「倫理学における形式主義と実質的価値倫理学 上」P137マックス・シェーラー このあと、ヒュームの自然とボップスの人間を否定して、カントの悟性と実践理性を否定するのですが、 カントの「義務」って美しいなぁ~、と春頃に感じたことが、崩れそうで(笑。 フライング気味ですが、 良いクリスマスをお迎えください。

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