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戦国時代の戦について

例えば、関ヶ原の戦いの前、家康は東北までいって江戸にもどり、関ヶ原に向かいます。 現在の私たちでも、東北まで行ってビジホで泊まり、東京へ戻りビジホで泊まり、関ヶ原までいくと疲れます。とても、戦闘など無理です。 昔の人は歩きやし、重い武器を持ってなぜそんなことができたのですか?

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  • oska2
  • ベストアンサー率45% (2182/4833)
回答No.5

>昔の人は歩きやし、重い武器を持ってなぜそんなことができたのですか? 交通機関が発達するまでは、「徒歩」が基本でしたよね。 宿場町も、1里単位で存在します。 単純に、体力の差・持久力の差でしよう。 当時は、太陰暦でしたよね。 太陽が昇れば、太陽が沈むまで行動します。 江戸から(伊勢)神宮へのお参りなどは「七つ立ち」ですから、太陽が昇る前の薄暗い時間に宿を発ちます。 庶民階級でもこの体力ですから、戦闘要員・足軽(農家の次男坊以下)は体力はあります。 現在でも、農家の方々は30キロの米俵を余裕持ち運びをしますよね。 当時は、一俵(約60キロ)を百姓の方々は運んでいます。 体力は、今よりも上です。 自衛隊の新人教育。 30キロの装備で、山間部を更新する訓練があります。 戦闘員は、30キロの装備はありませんから楽ちんでした。^^;

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  • staratras
  • ベストアンサー率41% (1444/3521)
回答No.4

昔の人は体力があった、というより現代人が歩かなくなってしまったのです。鉄道や自動車が存在しない時代には、馬や駕篭に乗れる立場の人以外は歩くほか陸上を移動する手段がないので、昔の人は現代人よりもはるかに健脚でした。 例えば昔の東海道は江戸の日本橋から京都の三条大橋まで約492キロありますが、13日から15日くらいかけて歩いたと言われています。15日かかったとしても一日に約33キロ歩いた計算になります。(東海道では桑名宿と宮宿の間の七⾥を海路で進む場合が多いのですが大まかに計算) 回答者は以前大正の終りに旧制の高等女学校に入ったという高齢の親族から、夏休み明けに帰省していた自宅から数十キロ離れた学校の寄宿舎のある町に戻る際、「女の子(女学校の生徒)は近所の数人の同じ女学校の生徒の親が金を出し合って雇った馬車に乗れたが、男の子(旧制中学校の生徒)は荷物を背負って連れ立って徒歩で帰っていった。」という体験談を聞いたことがあります。九州の田舎では大正の終わりから昭和の初めになっても、まだこのように男子中学生が荷物を背負って一日に何十キロも歩くことが当然だと考えられていたことがわかります。昔の人は自然に足を鍛えるほかありませんでした。

  • gunsin
  • ベストアンサー率32% (379/1170)
回答No.3

大軍が移動するのは、容易な事では無いのです、兵糧と野営地の 確保の他、行軍中は蟻の行列ですから、警護も重要になりますので、 主力部隊の移動の歩みは疲れも考慮して遅いのです。 7月24日。家康、下野小山にて、三成の挙兵を知る。 7月26日。会津征伐を中止して西進を開始。 8月5日。家康、江戸城に戻る。 8月24日。徳川秀忠、宇都宮を立ち信州上田攻略にむかう。 9月1日、徳川家康が江戸を出立。 9月15日、関ヶ原にて東西主力の戦闘が行われ東軍勝利。 8月5日~9月1日間は、家康は、味方になる様、各大名に、書状を 送りまくったのです。 味方に付く事は、戦闘に参加する事だけでは、ありません、兵糧 の提供、行軍する街道の安全の確保、野営地の設立の準備、そして 大軍が出立した後の屎尿の後始末などの、側面の支援があり、 反家康側の大名を説得をしたりします。 迎え撃つ、三成側も事情は同じで、大軍を集結して戦闘態勢を 敷くには時間を要するのです。 戦は、田植えや稲刈りの時期には行わないのですが、関ヶ原の戦い は、違いました、関ヶ原の戦い後に、家康は被害を受けた農民に 兵糧の一部を提供しました。

回答No.2

体力があったのもありますが、日数をかけて移動しています。 確かに現代人は東北行って東京戻って関ヶ原なんて疲れると思いますけど、普段から移動ばかりの人ならばなんてこと無いし、3日間でならば疲れるかと思いますが、1ヶ月にかけてならば別になんてこと無いですよね? 荷物だって自分自身で持つ人もいたでしょうけど、大体は馬などを使いましたし、現地近くに用意していたものもありましたし、人員も全員という訳ではなく、交代していたりしています。

  • eroero4649
  • ベストアンサー率31% (10487/32987)
回答No.1

一言でいえば「体力があった」に尽きますけどね。軍人さんは基本的に現代でもみんな体力がありますよ。 昔の日本の兵隊さんも中国を歩いて戦争していました。

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