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武士と士大夫

日本と朝鮮半島や中国の 封建時代の社会制度を比べてみて 日本の武士と朝鮮、中国の士大夫では どちらが優れていると みなさんは考えていますか? 私は科挙試験の制度を持ち、 厳しい学科試験を通じて人材の育成、 選抜に取り組んでいた朝鮮、中国の 士大夫の制度の方が 優れているんじゃないかと思いました。 日本の武士にとって学問は趣味の範囲だったようで、 文字の読めない武士までいたようですし。 科挙試験のような制度は現代にも繋がる 良い制度だったんじゃないかなと思います。

  • o2b32
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  • staratras
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回答No.4

それは一長一短で優劣は決められないでしょう。確かに科挙の制度によって、中国や朝鮮は官僚の最低限の教養や知的能力を確保できたという利点があります。しかし一方では多様な人間の能力のごく一部の優劣だけで社会のリーダーが選ばれてしまったことの弊害も大です。一言でいえば「受験秀才が偉くなる」社会が延々と続いてしまったのです。 現在もこの伝統を引きずっていて、今の中国や韓国は日本よりはるかに過酷な受験社会・学歴社会になっています。(日本の「学歴主義」は単なる「学校歴」に過ぎないと思います。本当に社会で学歴が優先されているなら例えば大学院卒業者(特に文系)が就職で苦戦しないでしょう。) なお昔の中国にも科挙に疑問を持つ人もいました。例えば科挙の答案は「八股文」という対句法を用いた独特の文体で書かなければなりませんでしたが、この八股文のことを清朝時代の人は「門を叩く煉瓦」にたとえていました。扉を開けてもらうには必要だが中に入れたあとは全く不要になるものだというわけです。「苦労して書けるようになっても八股文は科挙以外では役に立たないじゃないか」というわけです。現代の「受験〇〇」のような話ですが…。 他方で科挙の制度を採用しなかった日本では極端な学歴主義の弊害からは逃れましたが、完全な実力社会になったかと言えばそうでもありません。公家の世界も武家の世界でも平時には家柄が優先される世襲制度が幅を利かせました。戦国時代などの緊急事態にだけ実力主義が発揮され「下剋上」も起きたと考えるべきでしょう。現代の日本に二世・三世政治家が多い背景にもこの世襲主義に慣れ親しんできたことがあります。 さらにもっと根本的なところでは、頼朝以降武家政権が明治維新まで続いた日本と、ほとんど文人だけが政権を握り、武人の地位がさほど高くなかった中国・朝鮮との違いは見逃せません。武士が戦に勝つためにはペーパーテストの成績だけが優秀でもどうにもならないからです。(平時の考課はこれを取り消す) 日本は中国から漢字や律令制度などさまざまなものを導入しましたが、宦官と科挙の制度だけは受け入れませんでした。このことは日本社会の特質を解明するうえでの大きなヒントになるかもしれません。

o2b32
質問者

お礼

ありがとうございます

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  • staratras
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回答No.6

>武士も要職に就くんであれば科挙、武科挙みたいな試験があった方が良かったですね。 お気持ちはわかりますが、日本ではそれは不可能でした。武家社会と言っても鎌倉時代と江戸時代では大きく違いますが、そのような試験制度はどの時代でも武家社会の根本的な部分になじまないからです。 例えば鎌倉時代の武士の世界は「御恩と奉公」の個人的な主従関係を土台に構築されていたので、統一的な試験を実施して合格者のみを要職に就けるような発想はできません。 また江戸時代には身分制度が定まり、下級武士の役職は世襲制度をベースに固定的となりました。上級武士(大名)も、親藩・譜代・外様の区別と家の格によって幕府のどのような要職に就けるかはおおむね定まっていました。(もちろんその制約の中で少しでもいい役職に就きたいと努力する者もいますが)試験制度はこの社会の安定性を崩壊させてしまうおそれが大です。   さらに百歩譲って仮に日本で「武科挙」を実施するとして何の試験を実施しますか。騎馬や弓術・剣術などの武芸の実技は試験できるでしょうけれど、「要職に就く武士」に求められるのは「兵としての優秀さ」ではなく「将としての優秀さ」です。現代のスポーツの世界でも「名選手必ずしも名監督にあらず」といわれ、実際に現役時代には目立った成績を上げていなかった選手が名監督となった事例はいくつもあります。試験制度にも限界があるのです。

o2b32
質問者

補足

世襲と試験という制度は相容れないでしょうね。 将としての優秀さは孫子や呉子の兵法とか、 戦術書の試験で測れないですか?

  • FattyBear
  • ベストアンサー率32% (1217/3718)
回答No.5

""武士も要職に就くんであれば 科挙、武科挙みたいな試験が あった方が良かったですね。"" あなたのご質問の意味を理解しました。 制度、システムのことですね。 日本でそう言ったものが生まれなかったのは武士の地位が それほど魅力的、あこがれの職業ではなかったので我も我もと 武士になることを希望しなかったからかも。 士農工商とは言いつつ、「武士は食わねど高楊枝」などと貧乏武士 も多かったようです。

o2b32
質問者

お礼

そうだったんですね。 下級武士は貧乏そうだったし、 武士になりたい人が少なかったんですね、 ありがとうございます。

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  • FattyBear
  • ベストアンサー率32% (1217/3718)
回答No.3

人材の育成、選抜の制度として 日本の武士と朝鮮、中国の士大夫を比較すること自体難しい と思います。どの様な人材の育成、どの様な能力での選抜か、 目的とする人材や能力が全く別々だと思います。 例えばスポーツ選手の育成方法とIT技術者の育成方法を比較するのと ほぼ、同じだと思います。

o2b32
質問者

お礼

武士も要職に就くんであれば 科挙、武科挙みたいな試験が あった方が良かったですね。 ありがとうございます。

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回答No.2

日本の武士も身分に差がありますので、全て一緒に考えるのはあまり良くないかと。 学問は趣味だなんて大きな間違いです。 領地を治める政治的能力も必要でしたし、天皇から位を賜るための作法もかなり勉強しなくてはいけないし。 文字が読めないというのはかなり身分の低い侍かと。 朝鮮の方は知りませんが、科挙は現代だと国家公務員試験に似ているようで(細かいことは全く異なりますが)優れた制度だと思いますが、科挙の勉強はほぼ「儒教」のみでその勉強ができるのは裕福な家の者がほとんどだったとか。 日本は寺子屋や私塾がほとんどでしたが、儒教のみならず、孫子や仏教、数学なども学ぶことが出来、貧しい農村部の子どもでも学ぶことが出来たようです。 なので江戸時代になると世界一の識字率になったとか。 また、士大夫は古代だと武人のことを指していましたが、科挙が始まってからは主に文官を指しています。 なので武士と比べるのはちょっとジャンル違いかな?と。 一応武官の科挙、武科挙(武挙や武経とも)もあったので、日本の武士は武進士と比べるべきなのでは? ちなみに武挙の学科は孫子などの武経七書からだそうですが、カンニングしても大丈夫だったとか。

o2b32
質問者

補足

武士も士大夫もどちらも封建時代の支配層として 社会的な地位としては同じような物だと思って 比較して考えてみたくなりました。 武士がほぼ世襲で重要な仕事を受け継いでいたことを考えると 士大夫は自分の実力で厳しい科挙試験を合格してきているから 武士より士大夫の方が優秀な人材が多かったのではないかと 思いました。

  • FattyBear
  • ベストアンサー率32% (1217/3718)
回答No.1

何について比較するのですか?優れているとは何に関してですか? 頭の良しあしですか?戦闘時の強さですか?あるいは・・・? 戦闘力が強くても頭が悪ければ計算や工夫は劣ります。 頭が良くても実際のいくさで負けてしまえば戦いに優れているとは言えません。

o2b32
質問者

補足

人材の育成、選抜の制度として どちらが優れているんだろうと思い質問しました。 武士はほぼ世襲で重要な職を引き継いでたと言いますし、 それに比べると科挙のような試験を通って 自分の実力で官僚になる制度の方が 優れた人が多かったんじゃないかと思いました。

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