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江戸の町でも無差別殺人はあったの?

凶悪な事件が増えたとか言われますが、昔もあったんじゃないんですか?

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回答No.4

江戸時代初期の豊前中津藩(大分県)の藩主である細川忠興(1563年~1646年)が記した手紙の中の記述に「最近の夜道は辻斬りが出るので、誰も夜の使いを引き受けなくなり困っている」と嘆いています。また事の真偽は不明ですが、TV時代劇『水戸黄門』でお馴染みの黄門様のモデルとなった水戸光圀(1628年~1701年)は、自身の口から側近であった医師の井上玄桐に「若い頃、悪友に誘われて辻斬りの真似事をやった。床下で寝ていた非人を無理やり引きずり出し、命乞いをするその非人を斬り殺した。」と語っています(参考文献『玄桐筆記 (1701年頃?/井上玄桐)』)。 他にも似た様な話は散見されますので、江戸時代の初期(1650年頃まで)はまだまだ "天下泰平の世" とは言い難いかなり殺伐とした極悪な世情だった事が伺い知れます。何故、この様に治安が悪かったのかと言うと、現代人は後の歴史を全て知った上で俯瞰した視点から語れますが、当時の歴史の渦中に暮らしている人々からすると、この先の世の中がどんな風に転んで行くのかなんて皆目検討も付きませんので。当時の人々、特に武士の気持ちからすると「関ヶ原以降、徳川の世になった!」なんて思ってる人はほとんど居なくて、むしろ大多数の武士達は「東北には最強の伊達政宗も無傷で居るし、西には毛利も残っている。これはまだまだ一波乱あるぞ~!」というのが常識でした。 ですので戦国時代の熱気がまだまだ残る江戸時代の最初期では、全国各地に "腕に覚えあり" の兵法者や武芸者、或いは浪人くずれの野武士の様なチンピラが数多く居て、彼らは「腕が鈍らない様にするため」に鍛錬と称して日々、町中や街道筋などで無抵抗な町人などを狙って辻斬りを楽しんでいました。有名な宮本武蔵もこの頃の武芸者くずれの一人ですね。また当時は「百人斬りを達成すれば心願成就する」みたいな迷信が本気で信じられていたりもしていたので、割と気軽に辻斬りに赴く人も多かったみたいです(ヒドイのになると10人くらいのグループで千人斬りを達成しようとした)。他にも傾奇者が仲間内でマウントを取るため、辻斬りの人数を競い合う事例もありました。 この様な状況を幕府も放っては置かず、色々な治安対策を打ち出して何とかして世情を安定させ市井の治安回復、ひいては "徳川の世" を何としても世間に印象付け様と躍起になっていました。そこで手始めに1628年に「辻番所」と呼ばれる、現代で言うところの交番の様な施設を大名屋敷毎に開設させ、その名の通りに24時間体制で辻斬りに対する警戒を行う様にしました。またこれを皮切りに町人界隈にも同じ様な夜間巡回を任務とする「自身番」というモノが各町に作られました。時代劇などで「ちょっと番所まで」の "番所" とは、この「自身番」の事ですね。 こうして何やかんやあって徐々に辻斬り減って行き、江戸時代の中期になる頃には完全にゼロでは無いにしても、まあまあそれなりに夜道も歩けるくらいにはなりました…が!それで特段に江戸時代の治安が良くなったかと言えば、別にそういう訳でも無く。"辻斬り" の様な「かつての戦国の世再び」みたいな武芸者くずれの犯罪は鳴りを潜めましたが、入れ替わる様に町人らの武装強盗などが増えて行き、これに対抗するためにかの有名な「火付盗賊改方」が作られました。世に云う "鬼の平蔵" ですね。ただし江戸時代全般を通して、火付盗賊改方の番方は粗暴で横柄でとにかくやたら誤認逮捕して拷問自白強要で冤罪を量産したため、時代劇のイメージとは異なり町人達からは「乞食芝居」と呼ばれて忌み嫌われていました。ただその中にあっても "鬼平" こと長谷川宣以だけは「今大岡」などと呼ばれて人情家として町人からも人気がありました。 残された資料を読み解くと計算の仕方にもよりますが…江戸時代の処刑場だった小塚原と鈴ヶ森で処刑(死罪)された罪人の数は延べ数で20万人とも言われており、年間平均に直すと年に約770人となり、1日当たり2人以上が処刑されていた計算となります。これは江戸市中の2ヶ所の刑場のみの合算ですから、日本全国となるともっと多く数倍数十倍の数の人々が冤罪込で毎日何十人と処刑されていた事になります。まあ普通に考えて、お世辞にも「江戸時代は治安が良かった」とは言えませんね。他にも1754年に書かれた浮世草子の『世間御旗本容気 (1754年/馬場文耕)』の中の一説に「古へより武士の衰へたるは切取強盗をなして世を渡るは常のならひにて…」とあり、時代が百年近く下って本格的な "天下泰平の世" となっていたにも関わらず、相変わらず世間の常識では「武士たる者、貧困に窮して物乞いになるくらいならば、辻斬りをやって強盗をした方が武士としての面目が立つ」と考えていた事がよく分かる一節です。 そうこうしている内に世は幕末の動乱の時代へと突入して行き、そんあ世情を反映して再び市中には "人斬り" が跋扈し始める様になります。中村半次郎、河上彦斎、田中新兵衛、そして岡田以蔵~等々。まあ彼らは江戸初期に活躍?した "辻斬り" とは少し趣きが異なり、無差別にでは無く明確にターゲットとなる人物を定めて斬り殺して行ったので、大量殺人犯というよりかは思想的テロリストと言った方が良いでしょう。しかしどちらにせよ自身の欲求の赴くままに連続殺人を行うという点では相違無いので、広義の辻斬りと言えるかもしれません。 要するに江戸時代の人々は、下は百姓町人から上は武士公家まで、皆んな他人の命や財産を盗み傷付けて殺しても何とも思わない、全員が頭がおかしい異常者集団だった訳です。いや~、黒船バンザイ!ペリーにマジ感謝ですね! P.S. これまた時代劇のイメージで勘違いされる事が多いですが…火付盗賊改方は殺人は管轄外です。その名の通り読んで字の如く「火付(放火)」と「盗賊(武装強盗)」を専門に取り締まる部署です。この議論の主旨である "辻斬り" の様な単純殺人の単独犯に対して、何か捜査したり捕縛活動を行うと言った事はありません。辻斬りの様な単なる殺人事件は他の部署、この場合は町奉行の与力同心らが対応する事になります。

回答No.3

俗に言う「辻斬り」ですね。 一応江戸時代初期には禁止され、犯人には「死罪」という重罪でしたが、幕末あたりに横行し、テロ行為と受け取れることもあり有耶無耶になっていたようです。 ちなみに「切捨御免」は「無礼討ち」のことであり、無礼を働かれた目撃者がいて正当な理由があり、手続きをしなければ「辻斬り」として処分されました。 「切捨御免」は後世に付けられた名称であり、そのまた後世に「辻斬り」のイメージと混合されてしまい、時代劇などで侍が力の無い町民を斬り殺すことを「切捨御免」と勘違いするようになったそうです。

  • gunsin
  • ベストアンサー率32% (422/1313)
回答No.2

凶悪犯罪が増えたので、1683年に火付盗賊改方の奉行所を 新たに設置しましたですよ。

  • okvaio
  • ベストアンサー率26% (1989/7641)
回答No.1

あったと思います。 武士に与えられていた特権「切り捨て御免」ですが、中には 言いがかりをつけ、刀の切れ味を試すこともあったようです。

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