• ベストアンサー

竹の御所、源氏将軍家財産の行き場

EXIST2090の回答

  • ベストアンサー
  • EXIST2090
  • ベストアンサー率30% (114/368)
回答No.1

記述が無いので憶測になります。 >竹の御所は懐妊したが、難産の末に男児を死産し本人も死去。 この時点で、おっしゃる通り接収されたのだと思います。 藤原頼経に嫁いだ一年後くらいに京都から新調の車を下したとあるので 羽振りは相当良かったと推測

jkpawapuro
質問者

お礼

はやり接収されたと推測するしかないですか。 ご回答ありがとうございました。

関連するQ&A

  • 秀吉が将軍にならなかった理由

    天下を統一した豊臣秀吉が将軍になって幕府を開かなかったのは何故でしょうか? よく言われる理由として、将軍は源氏しかなれないからで、秀吉は源氏どころか百姓足軽の出なのでなれなかったというのがあります。 しかしそんな理由で将軍になれないなら、関白にはなおさらなれないはずです。 関白になれる家柄は明確に決まっています。 一方将軍が源氏のみという根拠はあるのでしょうか? 鎌倉幕府の源氏将軍は三代で絶えて、その後は皇族や藤原氏を将軍に据えています。 信長は平氏と自称しているにもかかわらず、関白・太政大臣と並んで将軍への就任を打診されています。 信長が将軍就任を朝廷の方から持ちかけられているのに、信長の後継者として天下統一した秀吉がダメなのでしょうか? 天下人になった以上家系なんてどうとでもなるんじゃないでしょうか? もう一つ、将軍より格上の関白になれるのにわざわざ将軍の座を欲しがる理由もない、という意見もあります。 しかこれもどうでしょうか? 確かに律令制の上では征夷大将軍というのはそこまで高位の職ではなく、帝の代理人である関白とは比較になりません。 しかも鎌倉幕府でも室町幕府でも将軍が実権を握っていた時期などわずかであり、ほとんどの時代でお飾りの存在だったのは事実です。 したがって将軍という地位にそれほどの魅力は無かったというのも一理あると思います。 しかしながらそうは言っても、名目的ではあっても何百年かにわたって武家の棟梁を意味する地位として認識されてきたのも事実です。 官位の上下とは違う次元で武家においては特別の意味を持つ地位ではあったのではないでしょうか? また先にあげた通り、信長は関白・太政大臣・将軍のどれかへの就任を打診されています。 ここでこうやって並べられているという事は、将軍が関白や太政大臣と並ぶ地位という認識があったという事ではないでしょうか? 将軍がさほどの職ではないなら、ではなぜ家康は将軍を選んだのかということにもなりますし。 また仮に将軍が関白より格下の地位だとしても、だからといって将軍を全く顧みない理由にもならないと思います。 まず将軍として幕府を開いて二、三年やってから、将軍の地位は秀次なりに譲って秀吉自身は関白になるというような事も考えられそうです。 まあそう論じても結局秀吉はそう考えなかったし、そういう選択をしなかったという事が結論かもしれませんがw 秀吉が将軍を選んでいたら、豊臣政権が長続きしたわけでもないでしょうしw

  • 源氏の氏の長者

    徳川幕府の歴代の将軍は、征夷大将軍であると同時に源氏の氏の長者の職にも任じられました。 この氏の長者の職について教えて頂きたいことがあります。 1.源氏の氏の長者の源氏とは、清和源氏だけのことでしょうか。 宇田源氏や村上源氏など他系統の源氏も含まれるでしょうか。 2.他の氏、藤原氏、平氏、橘氏などにも氏の長者はいたのでしょうか。 よろしくお願いいたします。

  • 何故、徳川治済は11代将軍になれなかったのか?

    何故、徳川治済は、11代将軍になれなかったのでしょうか? 11代将軍には、徳川治済ではなくて、彼の長男の徳川家斉が就任しています。 何故、徳川治済は、自分自身が11代将軍になるのではなく、長男を将軍にしたのでしょうか? 後に、尊号一件で大御所になろうとしていた事から、徳川治済は将軍になりたくなかったわけではないと思います。 何故、徳川治済は自身が将軍になろうとしなかったのでしょうか?

  • 日本に私有財産制が定められたのはいつですか?

    日本に私有財産制が定められて 財産が国家に没収されずに死後、子孫に相続されるようになったのはいつからですか? またヨーロッパではナポレオンが法を定めてからですか?

  • 室町幕府は足利尊氏がつくったんじゃないでしょ

    どうも、学校でならったことは、いい加減なことが多いようにおもうのですが 室町幕府って、足利尊氏がつくったとありますが 尊氏は、京の三条坊門に開いたのであって 三代将軍の義満が、花の御所を室町に移したわけだから、 室町幕府じゃなく、三条坊門幕府じゃないのこれって しいて言えば、室町幕府は、足利義満が始めたわけでしょ?

  • 源氏がミナモトと名乗らなくなったのは・・・・

    三つ質問が有ります。 (1)武士の源氏がミナモトと名乗らなくなったのはいつ頃からなのでしょうか? 頼朝が幕府を開いてから? とすると木曽義仲は当時は木曽とは呼ばれてなかったのでしょうか? それとも頼朝が伊豆頼朝(伊豆は例)とでも呼ばれていて、源氏の棟梁となった事で源頼朝となったのでしょうか? (2)清和源氏は誰の時代から武士に降下したのでしょうか?八幡太郎はすでに武士ですよね? (3)明治維新の頃まで公家に源を名乗る方が居たと記憶しているのですが、その方の名前とどこの系列(清和など)の源氏か教えてください。その後、源という名前を通常?の名前に変えたのでしょうか? 個々にでも構いませんのでよろしくお願いします。

  • 歴史の本で疑問に思うこと

    こんばんは。よろしくおねがいします。日本史初心者です。幕府についての疑問です。 幕府を開くことができたのは、足利などの源氏の流れ を組むことが条件らしいのですが、 「幕末、毛利は自分達で幕府を開こうと他から思われていた。」 というような記述がありました。 疑問は大江氏(毛利)が藤原朝臣だとすると、太政大臣になれても征夷大将軍の職をもらえたのでしょうか。 また、明智は多分近江源氏の支流土岐源氏というふうに考えると、 明智も幕府を開けたのでしょうか。前田利家はインターネットで菅原朝臣だと知りました。 疑問は義家などのいる清和源氏以外の村上源氏などでも将軍になれるか? また、源氏以外の平藤橘でも将軍になれるか?です。 伊達家は幕府になるための式目を作ってあったそうですが・・・。

  • 実朝の後の将軍と北条執権について

    実朝暗殺の後も鎌倉幕府において将軍は源の流れを汲む者であるのですね?!という事はその後の北条が実質執権として権力を持っていたのでしょうが、あくまではたとえ実質権力が無かろうと将軍は頼朝の流れを継ぐ源の者であるのでしょうか?

  • 江戸時代に宮将軍が考慮されたというのは真実か?

    江戸時代の5代将軍に関する質問です。 江戸時代、4代将軍である徳川家綱が子がなく死去した際、時の大老・酒井忠清が有栖川宮幸仁親王とかいう宮将軍を迎えようとしたという話を聞きました。 酒井忠清が綱吉を将軍にしたくなかったために、鎌倉時代に宮将軍を迎えていたという話を持ち出したそうです。 しかし、初めての武家政権であり、武士の地位がまだまだ低かった鎌倉時代とはわけが違います。 また、江戸幕府には鎌倉幕府の北条氏に当たるような存在もありませんでした。 鎌倉幕府は北条氏の力があったから開けたのですが、江戸幕府開府にあたってはそのような存在はありません。 江戸時代のトップは東照大権現の正式な子孫のみがなれるはずです。 綱吉を将軍にさせたくなかったとしても、綱重の嫡男・綱豊、尾張の綱誠、紀州の綱教がいます。 宮将軍を迎えるくらいなら、家康の男系の直系子孫である水戸藩主を将軍に押した方がずっとましです。 徳川家康を神と称え、徳川に忠誠を誓っているはずの、徳川譜代の大老・酒井忠清が5代将軍に宮将軍を迎えようとしたという話は真実なのでしょうか?

  • 源氏・鎌倉

    タイトルをどのように付けるのが良いのか分からなかったので、とりあえず、「源氏・鎌倉」としました。 鎌倉幕府の創始3代(頼朝・頼家・実朝)、武士としての初めての政治だったにもかかわらず、その後の長い「武士の時代」を考えると、あまりにも「不幸な死に方(本当のところは謎ということなのですが)、あるいはスタート」という気がするのですが、これは「源氏3代が無防備だった」というのか、私のような一般庶民が心配する必要はないのですが、「日本って、そんなに危険な国なのか」というようなことを考えてしまいました。原因は何でしょうか?スタートのところが知りたいです。 背景には、例えば、「武家社会の産みの苦しみとか……あるのかなぁ」と考えたのですが、基礎的知識がないので、「義経を大切にしなかった頼朝の失敗だ」なんて、判官贔屓な方向にも考えが行ってしまいます。 源氏3代の死に方、原因は何でしょうか?ご回答の一つ一つをご参考にさせていただき、これから、いくつか「鎌倉時代」を勉強したいと考えています。