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南北朝期の持明院統

南北朝時代の持明院統の権威や経済力については室町幕府が負担しないといけない程、弱体化していたのでしょうか?お答えください。

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  • D-Gabacho
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回答No.3

南北朝合一(1392年)後の応永十四年(1407)三月付の長講堂領の年貢目録によれば、全国各地にある長講堂領の各荘園の年貢を合計すると、米5384石、糸4274両、絹1216疋、綿2万256両、白布2790段、上紙550帖、中紙429帖、小紙7000帖、弘紙4000帖などのほか、油、材木、炭、香、砂金、鉄、馬など品目は多岐にわたり、相当の収入があったようです。年貢目録には近江国忍海庄、美作国饗庭庄など数ヶ所について年貢を納めていないとの報告もあったようですが、100ヵ所以上ある所領全体からみればごく一部に過ぎません。 <参考> 三木太郎「椿葉記」より見たる持明院統分裂の原因 ‐長講堂領以下の所領を中心として‐ http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/20279/

ithi
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。一応、所領からの年貢が存在したわけですね。ですが、これでも、幕府からの経済支援がなければ存続は不可能かもしれませんね。

その他の回答 (2)

  • D-Gabacho
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回答No.2

南北朝期の持明院統の経済力の源泉である長講堂領や法金剛院領といった所領は、鎌倉時代に持明院統が成立したときからの所領で、室町幕府からもらったものではありません。幕府の後ろ盾があることによって安定的に所領が維持されたということはいえるでしょうが、経済的に幕府に依存していたとはいえないと思います。 三種の神器をもたない持明院統の皇位継承は、幕府の後ろ盾なしにはあり得なかったでしょうから、権威面での室町幕府への依存はたしかにあったと思います。

ithi
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。長講堂領や法金剛院領ですが、長い乱世が続きましたから、すでに在地領主や守護などに蚕食されてしまったと考える事は出来ませんでしょうか?

  • oska2
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回答No.1

>南北朝時代の持明院統の権威や経済力については室町幕府が負担しないといけない程、弱体化していたのでしょうか? 持明院統天皇(北朝)は、室町幕府の足利尊氏が後援者です。 権威も財力も、幕府から保証を受けていますよ。 確かに、室町幕府後期(戦国時代)には権威があっても財政が無い状況でしたがね。 対して、大覚寺統系天皇(南朝)は権威も財力もありませんでした。 後醍醐天皇は「息子を次期天皇にしない」との約束で、天皇の地位を獲得しました。 が、「息子を次期天皇にしたい!」と鎌倉幕府に要請。 鎌倉幕府は、前例に従って「次は、持明院統系の天皇の順番だ」と拒否。 結局、後醍醐天皇は「鎌倉幕府を倒せ!」と各地の実力者に激を飛ばします。 「これで、次期天皇は息子だ!」と安心したのもつかの間、室町幕府は「前例に従って、次期天皇は持明院系」として「光厳天皇」を即位させます。 室町幕府の庇護をうけたのですね。 敗北した大覚寺系・後醍醐天皇は、吉野に逃れて南朝となります。 南北朝合一でも、権威・財力に劣る大覚寺系天応(南朝)は弱い立場でした。 じゃ、何故「南朝が正統と明治維新で決まったのか?」という疑問がありますよね。 これは、偽者説がある明治天皇の鶴の一声なんです。 ※幕末の七卿の都落ち時に裕宮は誘拐され、長州で死んだ。 「朕は、南朝を正当と考える」 この時点で、室町幕府・足利将軍家は朝敵扱いになります。 維新後の爵位も、足利将軍家は拒否されました。 時代祭りにも、室町時代は(最近まで)ありませんでしたからね。 可哀そうなのは、足利将軍家の子孫。 1945年の敗戦まで、天皇に弓を引いた朝敵扱いでした。^^;

ithi
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。