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ニーチェの「祝福できないならば呪うことを学べ」とは

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    ニーチェが流行りですが…… ニーチェ、ブームですよね。ブームであれ、過去の異人の思想にふれるのはよいと思っている、本屋さんです(事務方なので今日はお休みです)。 私は雑読なのと、基本的に古典を含むフィクションをよむほうですが、ニーチェを読んだ、という人間から、言いがかりをつけられました。 ・フィクションばかり読んでいて、現実逃避だ。好きな作家の名前を多々挙げているが、読んだ数だけ自慢しているのだろう。フォレスター、ヒギンズ、ハシェク、志賀直哉、と名前を列挙して悦に入るな。 ・そのなかに、阿川弘之、サン・テグジュペリのような軍人・貴族がいるが、支配者の理屈でものを考えている。 ・ゴールデン・エイジSFなんて、絵空事 まあ、おおむねこのようなことを、ニーチェの読者さんはいいます。 事実、哲学は興味がないジャンルだったので非難はハイハイと聞きますが、多用される「ルサンチマン」という言葉を、よく理解できません。 私は、はしょって「弱者の強者に対するねたみの鬱積」とおもっていました。昔、この言葉にはじめてあったときに広辞苑引きました。そこの記述がモトネタです。 が、そのニーチェさんは、 「あわてて『ルサンチマン』のことをウィキペディアで調べてきたんだろう。無為な読書の結果がこれだ」 と、意気軒昂です。 私のニーチェに対する理解、いや、それ以下の印象、は ・工業化、複雑化が進むこれからの世では、人間は自分に厳しくなければならない。いまや神に寄り添うより、自立し、人間の中の「超人」が頂点に立つべきである。ただ、その重すぎる使命をおった頂点に立つ超人をささえるのには、幅広いすそ野が必要であり、堕落していない凡人の存在は、良いことである。 書いていて、自分の背筋が寒くなるような文章ですね。 聞き流せばいいと思うし、皆さまも「バカ同士のののしりあい」とお思いでしょうが、無視以外に、うまくこのようなニーチェさんをあしらう一言は、ありうるのでしょうか。 ニーチェも人間の幸福を考えて、思想を重ねたのだとおもいますが、ニーチェさん、にちょっと困っています。ご助言ください。

  • ニーチェ教批判

     《君主道徳(貴族道徳)と奴隷道徳》の問題を取り上げます。  ▼ (ヰキぺ:君主-奴隷道徳) ~~~~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%9B%E4%B8%BB-%E5%A5%B4%E9%9A%B7%E9%81%93%E5%BE%B3  最も基本的な道徳形態は「君主道徳(貴族道徳)」と「奴隷道徳」の二種類がある。  君主道徳では行為が「良」と「悪」に分けられるのに対し、「奴隷道徳」では行為が「善」と「悪」に分けられる。  君主道徳の主な特徴は自己肯定、傲慢、主動であるのに対し、奴隷道徳は自己否定、謙遜、慈悲である。  ある人の道徳がどの道徳になるのかはその人の身分と地位で決まるのではなく、その人が行動する時の気持ちで決まる。  ある独裁者の道徳は奴隷道徳である可能性もある。なぜなら、その独裁者は恨みと報復によって行動しているかもしれないからである。  ニーチェは君主道徳を勧めると同時に奴隷道徳の中の精神力を学ぶ価値もあると主張した。  ニーチェの「道徳」は普段われわれの言う道徳と違い、全く新しい世界観であり、独特の文化である。すべての規則、慣例はこの二種類の道徳の闘争で作られた。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 対立する二項を提示するかたちは 分かりやすいようで あやまって大事な要素をそぎ落としてしまうことも出て来るかと思います。その視点からの批判です。  1. 《自己否定》するのは あんがい――考えてみれば――自己肯定を目指してのことであり得ます。  2. あるいはつまり 初めに自己をとうとぶゆえに あやまちうる自己について否定するかたちから入ることがあり得ます。  3. わたしがわたしであるという自己到来は 自己肯定ですが それがつねに《傲慢》であるとは限りません。  4. 《主動》というのは 自然本性をとうとぶ自己肯定としての自己了解のあとに 行動を起こす場合の問題だと思います。 自己肯定と主動とは それらを捉える段階が違うはずです。(基本としてはです。行動するときの主動についても自己肯定をする場合はありますが)。  5. 《主動も従属動》も 《謙遜も傲慢》も《慈悲も冷酷》も 基本は《われに還る》問題にあると見られます。相手との関係におけるこちらの振る舞いとして。  6. 傲慢は われを見失っている場合があるので特殊かも知れませんが 冷酷は相手との関係で 互いにわれがわれであるために 情況判断をも交えて必然的に取る態度であり得るように考えられまいか。  7. 人が人とマジハリを持つとき その眼差しが相手を見下ろす場合があります。社会的なチカラ関係において この・上からのマナザシを受け留めなければならないという判断を持つとき けれどもそこには《反抗か従属か》の二者択一があるのではなく そうではなく《ゆづる または ゆづりあひ》という道もあります。  8. ゆづりあひの道には 《恨みと報復》は出て来ません。  9. われがわれであるための《精神力》は 君主か奴隷かの双対における選択には関係しません。  10. ゆづりあえず こちらだけがゆづった場合にも 相手に対して このあほんだら よく目を明けて情況を見てみておのれの心をも知り しっかりと精神のチカラを保ったらどうなんだと心内を無言で伝えてやればよいはずです。時を俟てばよいはずです。  よってこの《君主道徳と奴隷道徳なる最も基本的な道徳形態》について 何の意味も無い。と考えますが いかがでしょう。

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  • それでもあなたは ニーチェ党か。

     ▲ (弱き者の自己欺瞞) ~~~~~~  ――しかしほんらいのテーマに戻ろう。《よい》のもう一つの起源の問題 ルサンチマンの人間が考え出した善の問題が解決を待っているのだ。――小羊が大きな猛禽に憤慨するのは 不思議なことではない。しかし小羊たちが猛禽にたいして 小さな羊をさらうことに文句をつける理由はないのだ。  そして小羊たちが《この猛禽は悪い。そして猛禽とかけ離れた者 猛禽の反対である者 すなわち小羊が――善い存在なのではあるまいか》と仲間うちで語っていたとしても このような理想のたてかたに非難すべきところはない。  ただし猛禽たちはこれをあざ笑うように眺めて おそらく《われらは小羊たちに憤慨するところはまったくない。あのよき小羊たちを 愛しているほどだ。やわらかな小羊ほどおいしいものはないのだ》と言っていることだろう。  ――強さにたいして それが強さとして現われないことを求めること 強さが他者を圧倒する意欲として 他者を打ち負かす意欲として 主人になろうとする意欲として現われないことを 敵と抵抗と勝利を望む渇望ではないことを求めるのは矛盾したことだ。  弱さにたいして それが強さとして現われることを求めるのと同じような矛盾なのだ。  ある量の力とは ある量の欲動 意欲 作用である――むしろ力とはこの欲動 意欲 作用そのものなのである。そう見えないことがありうるとすれば それはすべての作用が 作用する者によって すなわち《主体》によって生まれると考えさせ 誤解させる言葉の誘惑のためにすぎない(そしてその言葉のうちに化石のように固まった理性の根本的な誤謬のためにすぎない)。  たとえば民衆が雷をその雷光から分離して 雷光は雷という主体の行為であり 主体の作用であると考えるのと同じように 民衆の道徳もまた強さ〈そのもの〉と強さの〈現われ〉を分離して考える。あたかも強い者の背後にはもっと別の無頓着な〈基質〉のようなものが控えていて それが強さを現わすのも現わさないのも 自由に決めることができると考えるようなものである。  しかしこうした基質などは存在しないのだ。行為 作用 生成の背後には いかなる《存在》もない。《行為者》とは行為の背後に想像でつけ足したものにすぎない――行為がすべてなのである。  (『道徳の系譜学』 《第一論文 〈善と悪〉と〈良いと悪い〉》 十三 中山元訳 2009 pp.72-74 )  ~~~~~~~~~  ☆ ここで ニーチェは 次のように言っていますか?  ○ 拉致された小羊は 猛禽に文句をつける理由はない。  ○ 《行為者》なる人間というのは まぼろしの観念論であって 世界は《行為》のみから成る。拉致された弱い者が 拉致する強い者に何を言っても それは まぼろしのごとくでっち上げた《道徳》とそしてルサンチマンのなせるわざであるに過ぎない。  ☆ ご見解をどうぞ!  何ぞのレトリックでしょうか? 何かの逆説が隠されているのでしょうか? ・・・ 

  • ニーチェや、他の哲学(者)、について教えて下さい☆

    最近ニーチェについて興味が出て、wikiとか読んでいますが、やたらと『この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。』という注意書きが目に付くため、どこかで本を購入して読もうと思っています。 さしあたって、今後、ニーチェについてどの本を買うべきでしょうか? 目下、ニーチェについて自分が凄いなぁと思っている点は、それまでの形而上学とか近代西洋を、何というか、メタ的に見たところがかっこいいなぁと思いました。たしかマルクスもイデオロギーに関してその構築の過程自体にメタ的に着眼しませんでしたか…?そういったメタなところがかっこいいなぁと思います…。アホ丸出しな文章ですいません…。今は『善悪の彼岸』『道徳の系譜』あたりが面白そうなので読もうかと思っています。 ただ、愚鈍な自分の勝手な妄想ですが、こういった人は全てを分析しすぎて、自分の足元さえも分析して、発狂してしまうような、そんな1周回ってかっこ悪いところもあると思うので、ニーチェだけでなく他の哲学も読みたいと思っているのですが、なるべく回り道というか混乱が少ない順番で読んで理解していきたいと思っています。そういった意味で、哲学というジャンル?学問?の大まかな俯瞰図みたいな解説をおうかがいさせて頂けませんでしょうか?横軸としてニーチェの周辺、対する縦軸として時系列としてニーチェ以前とニーチェ以降、現代といった、2方向でお願い致します。 アホみたいな汚い文章で申し訳ございません… どなたかお時間ございましたら、お助け下さい…。 m(_ _)m

  • ニーチェ「超人を目指し没落せよ」   え?

    雑学程度にニーチェの本を読んで  この文の意味がさっぱり解りません ネットでたどっても賛否両論ですし 言葉どうりにとるなら「蛮勇で死ぬことを推奨」「凡人は蚤」とあまりに乱暴な発言に見えますが  昔の人材が余ったいた死生観の苛烈な時代ならありなのかわかりませんが 人材の資源が足りないとにかく命を大事にする今の時代にはあまりにそぐわない 私は仏教徒なので平凡に生きれればと思っています もしその通りの理論なら私的にニーチェを大嫌いになるだけですが  別に凡人も自己否定しているわけでもないし 凡人でも自分の後悔を前向きに肯定できる人はいます 既存の価値観で「危ないよ」と言う人をを「道化」「悪魔」呼ばわりは現代の価値観ではあまりにありえない さすがにそんなことは言わないならもっと西洋哲学ならではの深い意味があるのでしょうか?それとも本当に昔の価値観ではこれでもよかったのですか?詳しい人がいたら教えてください 頭があまりよくなくてもわかるくらいかみ砕いてお願いします

  • それでもあなたは ニーチェ党か。

     ▲ (弱き者の自己欺瞞) ~~~~~~  ――しかしほんらいのテーマに戻ろう。《よい》のもう一つの起源の問題 ルサンチマンの人間が考え出した善の問題が解決を待っているのだ。――小羊が大きな猛禽に憤慨するのは 不思議なことではない。しかし小羊たちが猛禽にたいして 小さな羊をさらうことに文句をつける理由はないのだ。  そして小羊たちが《この猛禽は悪い。そして猛禽とかけ離れた者 猛禽の反対である者 すなわち小羊が――善い存在なのではあるまいか》と仲間うちで語っていたとしても このような理想のたてかたに非難すべきところはない。  ただし猛禽たちはこれをあざ笑うように眺めて おそらく《われらは小羊たちに憤慨するところはまったくない。あのよき小羊たちを 愛しているほどだ。やわらかな小羊ほどおいしいものはないのだ》と言っていることだろう。  ――強さにたいして それが強さとして現われないことを求めること 強さが他者を圧倒する意欲として 他者を打ち負かす意欲として 主人になろうとする意欲として現われないことを 敵と抵抗と勝利を望む渇望ではないことを求めるのは矛盾したことだ。  弱さにたいして それが強さとして現われることを求めるのと同じような矛盾なのだ。  ある量の力とは ある量の欲動 意欲 作用である――むしろ力とはこの欲動 意欲 作用そのものなのである。そう見えないことがありうるとすれば それはすべての作用が 作用する者によって すなわち《主体》によって生まれると考えさせ 誤解させる言葉の誘惑のためにすぎない(そしてその言葉のうちに化石のように固まった理性の根本的な誤謬のためにすぎない)。  たとえば民衆が雷をその雷光から分離して 雷光は雷という主体の行為であり 主体の作用であると考えるのと同じように 民衆の道徳もまた強さ〈そのもの〉と強さの〈現われ〉を分離して考える。あたかも強い者の背後にはもっと別の無頓着な〈基質〉のようなものが控えていて それが強さを現わすのも現わさないのも 自由に決めることができると考えるようなものである。  しかしこうした基質などは存在しないのだ。行為 作用 生成の背後には いかなる《存在》もない。《行為者》とは行為の背後に想像でつけ足したものにすぎない――行為がすべてなのである。  (『道徳の系譜学』 《第一論文 〈善と悪〉と〈良いと悪い〉》 十三 中山元訳 2009 pp.72-74 )  ~~~~~~~~~  ☆ ここで ニーチェは 次のように言っていますか?  (あ) 拉致された小羊は 猛禽に文句をつける理由はない。  (い) 《行為者》なる人間というのは まぼろしの観念論であって 世界は《行為》のみから成る。拉致された弱い者が 拉致する強い者に何を言っても それは まぼろしのごとくでっち上げた《道徳》とそしてルサンチマンのなせるわざであるに過ぎない。  ☆ ご見解をどうぞ!  何ぞのレトリックでしょうか? 何かの逆説が隠されているのでしょうか? ・・・ さもなければ キ印であるとしか考えられません。