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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:義満の選択した「冊封」の意味するものは???)

義満の選択した「冊封」の意味するものは???

fujic-1990の回答

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  • fujic-1990
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回答No.2

> 義満はなぜ「冊封」という道を選んだのでしょうか  商人どうしの通商だと、原則「等価交換」です。もちろん中国での価格と日本での価格は違うので、日本まで持ってくれば儲かるということはあったのですが。  ところが、明の朝廷に朝貢すると、「我が国の権威を慕ってはるばる海を越えてやってきたか。ういやつじゃ。褒めてとらすぞ」とメンツがたったとして、ちょっと贈り物をすると2倍3倍の量・価値のある返礼品が返ってきたわけです。  2000円故郷納税すると、1万円相当の松阪牛の肉が届く、という感じです。  マイナスが大きいので、朝鮮に対してだったと思いますが、明は「あまり頻繁に朝貢してくれるな」と通達を出したそうですが、大陸国の明にとって元を撃退した日本などが「はるばる海を越えてやって来た」という事実は自身の虚栄心をくすぐることで、琉球に対しては「来るな」と言わなかったようです(拳骨拓史:中国が憧れた理想の国日本)。  但し、朝貢だからこうなるのであって、「我が国は対等の貿易をしたいだけで、朝貢はイヤです」と言ったら相手をしてもらえないわけです。  朝貢するには冊封してもらわなければならない。だから、冊封を受けただけでそれ以外の意図はなかったのではないでしょうか。 > 鎌倉時代の「元寇」は関係しているのでしょうか  無関係ではないでしょうね。  質問者さんが、どう関係していたとお考えかわかりませんが、私は自信の表れだと思っています。「冊封だなんだと言ったところで、なにも変わらない。何か命令してきたら拒否すればいい。元寇以上に、完膚なきまで叩き潰してやるわい」に思っていたのではないか、と思います。 > 現在の「日中」、「日韓」、「日朝」の関係 > この4国関係は、「古代から何も変わっていないのではないか???」  日中韓北 の4ヶ国ですか?  どの点が変わらないとおっしゃっているのかわかりませんが、まあ変わらない点もあるでしょうが、全般的には変わっているでしょう。  当時1国だった朝鮮が今は2国になって争っていますし。もっと昔の事を言えば、今2国の朝鮮は3国(高句麗、新羅、百済)だったり4国だったりして争っていましたし。  大陸国で、日中の間には広大な海がありましたが、いまは「もともと海は我が国のものだ」とか中国では言ってますし。  「冊封だ(海は我が国のものだ)なんて言っていても、口先だけさ。そんな力なんてナイ!」「我が国には恐れ多くも憲法第9条がある」などとうそぶいているわけにはいかない時代ですよ。

noname#247736
質問者

お礼

ありがとうございました。 よくわかりました。

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