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日清戦争後の清について

『東アジア国際政治史』という書籍のP84に「日清戦争は、清が冊封・朝貢など既存の対外関係を維持しつつ、他方で万国公法を利用して「近代的な再編」を行うという外交路線に決定的な打撃を与えることになった。」という記述がありますが、「万国公法を利用して「近代的な再編」を行うという外交路線」というものがどのようなものなのか、また、何故それが日清戦争によって困難に陥ったのかがよくわかりません。 解説をいただけるとありがたいです。

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  • mekuriya
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回答No.2

「万国公法を利用して「近代的な再編」を行うという外交路線」とは南京条約、虎門寨追加条約、望廈条約、黄埔条約などの不平等条約を改正して平等条約にするってことです。関税自主権を奪回するといったことです。要は、イギリス、アメリカ、フランスなどの欧米列強との関係を改善といったことです。 日清戦争の10年前に清仏戦争がありました。フランスが清の朝貢国であるベトナムを植民地化しようと進出したことが戦争の原因です。形の上ではフランスの勝利として講和したが、途中はフランスは大苦戦していて、フランスは日本に参戦を要請したぐらいなんです。フランスの味方をしてくれたら、日仏間の不平等条約を改正してもいいといった取引でした。日本は誘いに乗りませんでしたが。清仏戦争で清はそれまで軍事の近代化を進めていたつもりだったけど成果が出なかったことで自信を無くす。フランスも清に苦戦したことで自信を無くす。この時点での欧米列強の認識は、清はなかなか手強い、侮っては成らぬといったもの。 日清戦争で清が敗れたことで、清の元での近代化など不可能なのだというのが清の知識人の共通認識になってしまったということなんです。それが興中会、華興会、光復会といった清朝打倒を目指す革命団体の結成に至る背景です。もはや清朝にまかせておけないと漢人が立ち上がった訳です。 それは漢人の知識階級の流れですが、非知識階級の漢人は、義和団の乱に向かう排外テロを起こすようになります。排外テロなんだから万国公法とかけ離れた無法な手段であります。 欧米列強にすれば清を眠れる獅子と評価していたのが、日清戦争に清が破れたことで清が張り子の虎であることが分かって清の半植民地化が進んだということです。 三国干渉の見返りにロシア、フランス、ドイツは清から利権を獲得しようとしました。 ロシアは満州での鉄道敷設権や旅順・大連を租借地として獲得した。ドイツは山東半島に進出し、膠州湾を租借地として獲得した。フランスは広州湾を租借地として獲得した。 不平等条約の改正どころか逆に清の半植民地化が進んでしまったのです。三国干渉のように日清戦争は欧米列強の清の半植民地化に利用され、内外共に清の近代化が不可能なことが露呈してしまった。それが決定的な打撃という意味。 革命諸団体は『清が』を否定しました。義和団は『万国公法』を否定しました。欧米列強は『近代的な再編』を否定しました。結局、日清戦争によって全部否定されてしまったのです。

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その他の回答 (2)

  • mekuriya
  • ベストアンサー率27% (1118/4052)
回答No.3

補足させてもらえるなら、No.1さんの回答は、「日清戦争は、清が冊封・朝貢など既存の対外関係を維持しつつ、」路線が清仏戦争~日清戦争の敗北で破綻が明確に成ったことの回答にはなっていても「他方で万国公法を利用して「近代的な再編」を行うという外交路線」の説明にはなってないように見えるのですが。

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  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.1

http://www.ouj.ac.jp/hp/kamoku/H25/kyouyou/B/ningen/s_1554662.html 本年度開講の放送大学 第10回の内容が、質問の回答にあたります。 19世紀後半、世界史の教科書では、アヘン戦争やアロー戦争で清朝はグダグダ 1911年の辛亥革命に向かって真っ逆さまというようなイメージがあります。(途中の記述が割愛されているので) 放送大学の第10回 結局は地方の紳士たちの支持と海外貿易にもとづく財源によって体制を立て直した。 なんだかんだと言って、清朝は巨大な国家です。 日本が近代化して一つになって頑張った軍事力 < 清朝のうちの李鴻章一派の作り上げた軍事力 つまり、清朝の一部の財力は日本全体の財力に優っていたのです。 朝鮮、あるいはムスリム反乱の鎮圧など、あるいいみ19世紀前半に弱体化して、放ったらかしにしていた中央から遠い「柵封・朝貢」体制の対象地域に対して、再度万国公法基準で支配しようとしたのが、19世紀後半です。 名ばかりの保護国だった、朝鮮を実質的に支配下に置こうとした。 ということなんです。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%96%86%E3%82%A6%E3%82%A4%E3%82%B0%E3%83%AB%E8%87%AA%E6%B2%BB%E5%8C%BA 19世紀には各地で反清反乱が相継ぎ、ヤクブ・ベクの乱によって清朝の支配は崩れたが、左宗棠により再征服され、1884年に中国内地並の省制がひかれて新疆省となった。 ↓ 間接支配だったイスラム教徒地帯を、直接支配対象とした が、1895年の日清戦争敗北によって、「名ばかりの保護国だった、朝鮮を実質的に支配下に置こうとした。」が、失敗したわけです

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