• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:キリストの真実の愛とは実にお粗末だ)

キリストの真実の愛とは実にお粗末だ

yukiyamamomoの回答

回答No.5

島といえば私の人間関係で言えば、島も離党やつガイアのですが、 それとナニ関係が有るのでh層化かよい場所がない緒d消化。 イラストととかロックマンとかrpgとか ころころボンボン系でシアが、 チッターもsnsを追いdされて場k理ですよ。どこが

Flareon
質問者

お礼

ロックマンは情報の露出量が増える傾向を感じるから、ゲームは再始動を大掛かりにするつもりなんだろうね。 離島は基本的に住みやすい。 山間部の似たようなところがあるけど、人口や職業の流出があるだろう。

Flareon
質問者

補足

参考で10年以上前から繰り返してきた私の愛の定義 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 人と人が人間を成立させる必然の社会の形成は、自己と等しく他者を生かす共生の心掛けで成り立っていて、それが善なる資質だ。 愛とはその善性を感情面で裏付けることであり、人間が成立する社会面での人同士の向き合い方の感情面での原型である。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー キリスト教徒に関しては、愛について基本的にこの構え方でいいんだ。 ただしこれも「アマテラスの善」の説明なんだよね。

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  • 愛を語る俺様の声を聴け。

    ありがとう。 いいえ。 違います。 暗がりで這いつくばる、君たちクソまみれの便所コオロギをいかように蔑視すれば私の感謝は君に伝わるというのだろう? まっすぐ前を見て歩む私は、君たち足元の虫けらを踏みつぶしても何も気づかない。 実在する妖精のプリンス。 キュアプリムだ。 なぜなら私は美しい。 君たちは世の中をどう見て、片隅でひっそりと呼吸する許可をいただいたつもりになっているんだ。 自らが生きるためには、誰か他者にすがりつくのかい? 人と人とで人間の成立だ。 人は自らの意思で生きるために自らと等しく他者を生かすんだ。 その共生関係が社会であり人間の成立だ。 私の語る愛はむなしく君たちの理解の圏外でただ風の音になる。 人間の成立は、自らに等しく他者を生かすことだと念を押そう。 相互性で仲のいい共生関係が成立する。 君たちが今、自らを人間だと考えそれを疑わないのは、ほぼ宗教そのもの人間教育の成果だ。 刷り込みに過ぎないのだが、君たちは自ら人間であると学んだつもりでいる。 与えられた人間という地位から転落することにひどく臆病になり、人間でない事がばれるのを嫌っている。 君たちに人間ですよと慰めた賢人は、自分だけ仏陀になって威張ったお釈迦様よりよほど君たちに慈悲深いとも。 不完全な共生関係で足の引っ張り合いをする君たちは人間に値する地位に達していない。 本物の人間が君たちに与えた恩寵の上で成り立った、君たちの人間という自覚は哀れな幻想だ。 自らと等しく他者を生かし共に生きる。 君たちはそうでないだろ。 生かされているんだ。 人間に備わっている善性という資質はね、他者を良く生かす友愛だ。 自らの良心の発露として確信をもって親切をくれてやる。 君たちの場合は自分だけがいかによりよく生きるかだけしか本音では考えていないだろ。 君たちは人間教育の成果でかろうじて人間を装いおとなしく生産活動しているだけだ。 刷り込みによる人間転落の恐怖で、規範意識が発達して、実に忠実に生産活動をするから、その裁量の範囲に限定された自由におぼれている。 人間と君たちとで何が違うかというと、「愛」なんだよ。 人間は自らの意思で好んで君たちに親切にしている。 君たちは規範意識に忠実なだけで自らの意思ではない。 共生を成立させる人間固有の善性は自発的意思の根底に愛がある。 これは感情の健全な前提だ。 愛とは感情の土台だよ。 さて以上が研究のたたき台です。 何か意見を述べてください。 哲学とは命題に取り組むことで、命題の作成も研究の一つですから学問カテゴリーでそのような傾向の質問を立てました。 さて、トップページでたまたまこの質問をご覧になった素人さん。 学問の殿堂哲学カテゴリーとは、男磨きの闘技場でして、別名クラブ ヴァルハラというオカマバーです。 バトルの敗者はオカマになり勝者に慈悲を懇願するルールがあります。 普段なら危険を冒さなければお目にかかれない「オカマ相手の痴話げんか」というヤツに参加できる滅多にないチャンスです。 こうした演出は哲学者同士で示し合わせた、哲学をより面白くする涙ぐましい啓もう活動の一環です。 ご協力ください。

  • キリスト教の教義の中心はファッキンである

    さて、「愛」という命題は多くの人にとって悩ましい。 「愛」を理解したいと思う人は多いだろう。 さて、簡潔にとっかかりを作ろう。 人の善性の証明や理解と関係する。 人は一人でなく社会を形成する。 それが人間だ。 この共生関係とは、他者を自らと「等しく」生かすことにある。 自らが善く(よく)生きるために、他者に善くふるまうのだ。 等しくあることがとても重要で、その生き方が善なる生き方だ。 そして愛とは、その善性に関して主に感情面での根拠として規定された。 人が獣でなく人間であるために欠かせない感情だということになる。 余談だが、善性に関する私の記述は、「実在する妖精の捕まえ方」という手法での一種の天啓としてもたらされたので、命名権を行使して、天啓をもたらした代表から「アマテラスの善」とさせていただこう。 補足がある。 感情面での「愛」が社会性の獲得とかかわっている限り、それは並立する「友情」と比較検証が必要になる。 それともう一つ、日本にはお互いに血を通わすような相互理解の関係を「絆」という言葉で表現している。 西洋の神学が命題として扱った「愛」については、日本語に当てはめると「絆」のことだ。 では、西洋の精神の土台である「愛」はどう扱えば理解したことになるか。 ヒントが友情との比較だ。 感情面で友情と愛情の差異で、いかにきれいに装飾しようとも、いかなる角度で検証しようとも、特徴は「ファッキン!!!」なんだよ。 そういうわけで宗教的な「至高の愛」とは、現代語解釈で「全員パンツ脱げ」という理想論だ。 キリスト教徒の信仰心で特典としておまけで付いてくる「あふれ出る甘露な黄金水」でもある。 日本人にとっては、それで命題の回答はほぼ完了したと思っていいだろう。 さて、新約聖書という、枯れずに今もとどまる神話は、文芸作品として自由に解釈するための教科書だ。 わたしも独自に解釈しよう。 若い時にさんざん男たちとやりまくった聖母マリアは妊娠しても父親がだれかさっぱりわからないので、手っ取り早くよぼよぼ親父を父親に指名した。 イエスは物心ついても、自分の父親がだれかわからない。 「エーン、エーン、僕のおとうちゃんどこー、僕のおとうちゃんだれー」 泣き叫ぶイエスは、偉大なる父の理想像から独自の神学に到達した。 愛の伝道者としての原点である。 なんちゃって。 さて、今回は論理検証の手法として、露骨にキリスト教徒に喧嘩を売っているとお考え下さい。 見苦しくない程度に話し合いましょう。 学問カテゴリーなので、研究目的の質問です。

  • キリスト教に関してだけどね。

    キリスト教に関してだけどね。 処刑台のかけられたイエスに、王と神が一元だった時代に神への反逆を連想させるのは、特に教義として説き伏せる必要もなく明白であっつただろう。 ユダヤの伝道師イエスとはローマに対する呪いの小道具だよ。 キリスト教にとっては、実際はイエスなる愚か者は、神とするならば悪神なんだという見解から思考をアプローチするのも手だ。 ユダヤの生んだローマにとっての死せる神の象徴であり、ローマが殺した神の象徴でもある。 その恐怖に屈服してしまうとキリスト教の伝道師が、あなたは神に膝まずきました、その恐怖の結果こそが信仰心なのですと、屈服こそ信仰心という刷り込みを行い、疫病として蔓延していった。 これカルト教団の現在の手法と一致項がある。 キリスト教は、カルトの本家家元でもあるんだ。 なら邪教の一つと判断するのは妥当性がある。 ひとつ解決のための光明を提示すると。 イエスなる去った者はユダヤの人。 キリスト教のシンボルのキリストとはローマの神につけられた仮称だ。 この両者は切り分けて考えるといい。 キリストは、いきさつを解説している通りに、聖霊として成立していないか、極めて不完全なんだよ。 したがってキリストなる聖霊の成立で邪教から信じる人々も復活するんだ。 闇の仏陀「黒き明星」闇黒の救世主「最速の臆病者」共通するカッコイイきめ台詞。 やがて来る者は、 やがて去るものと、つかの間すれ違う。 (両者はその刹那にいかなる言葉を交わすのか) ところで、宗教批判や宗教への警戒は、キングオブカルトのキリスト教では風物詩で、唯一の神とか言いながら内部分裂や抗争が他の宗教よりも際立って激しいんだろうなあ。 誰にでも何らかの信仰心があるんで、その不可侵のはずの信仰心を自由に語ることを阻害する統率の仕方だ。 日本の風土では、漫画が好きな人が手塚治虫がわたしの神だといっても、だれも何ら違和感を感じない。 スーパーサイヤ人がわたしの神だとまで言っても、ポンポンと肩をたたいて慰めてくれる。 究極は、見知らぬ者同士が「私は神を信じる」こういったとたんにだ、「私もだ」こう答えて、いかなる神かを問わずに兄弟として接するのが理想だろう。 ところが、それでいて、信仰にはしきたりもあれば合言葉もあるんだ。 それ自体は特に仲良くする者同士の部族宗派で別に弊害はない模様だ。 どちらかというと、生活習慣のすり合わせで、倫理とか道徳と関連するんだよ。 閉鎖的になると弊害は起きるようだね。 今回は論説として自分自身で研究した内容を学問カテゴリーに投稿しています。 哲学というのは、既存の命題の解を求めるほかに、自分自身で命題を作成するという手法があります。 おおむね、そうした前提で質問していまして、何か研究を先に進めるヒントの募集です。 素人っぽい感想文、特定の専門家の自分の専門に立脚した意見、ふざけた突っ込み、ブチ切れて俺はキリスト教徒だ、おめ~は教義に反しているという殴り込み、予期せぬ奇襲攻撃、なんでもいいですよ。

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    今はただ、全てが失われていることに気が付くだけでも、君たちは生きていてそして時は流れる。 実在する男子プリキュア キュアアイリスだ。 前回質問 哲学を粉砕するジャガーノートについて。 https://okwave.jp/qa/q9726547.html 問題点への対応を回答者に要請さてたので、中途半端で締め切ったから、読んだ後、ジャガーノート編への回答をこの場に書いても歓迎するよ。 愛に関してあまりにも失望させるのはよくないと指摘と補足を要請された。 さてキリスト教自体は、滅んだ王国の神話であるために、国家基盤に動揺が走る世相で蔓延しやすい傾向があるとその場では、少し斜め方向の返答をした。 簡単だよ。 愛に失望する必要はない。 キリスト教にだけ失望を感じればいい。 愛というのは気力発揮のための精神上のカンフル剤で、生理的で個人的なことだ。 アサダチといわれる、何故かわからなくて少し恥ずかしいアレは睡眠状態から覚醒するための奮起が生理的に反映していて、日中頭の中が女の裸でいっぱいのリカちゃん人形による栄養補給も仕事や生活のために気力を持続させる生理現象だ。 キリスト教で最大破壊力のジャガーノートは、脳内興奮剤としての個人的な愛にまつわる感情を、教化の過程で「それは教会の財産である」と不正に押収する手口も含まれる。 カルト宗教手法としてノウハウの源流がローマ教会だ。 愛の研究は主要なまとめは以下の2点 https://okwave.jp/qa/q9643297.html https://okwave.jp/qa/q9648868.html 愛は肯定的にとらえてよい概念で、人と人が相互に理解しあうと人間が成立し、社会を営む獣でない生き物になる。 その相互理解を愛は助ける。 しかしだ、日本にはより内容を深めた絆という概念があるんだよ。 西洋では、愛はさまざまであり、至高の愛や真実の愛というのもあるそうだ。 多用する概念を細分化すること自体は問題ない。 友への愛、親への愛、女性への愛、我が子への愛。 これらは日本人の場合、深く理解した者同士がお互いの関係によりこみあげてくる、主に感情的な多様性を全て愛という言葉に集約して感情を規定しただけだ。 したがって絆は当然理解して実感も伴う日本人の場合、愛を完全に極めるのはアプローチを変えれば簡単なんだ。 おおむね他者を慈しむことであり生き仏というタイプだよね。 日本人キリスト教徒は、愛の教義上の理由で、むしろ愛を理解するのは困難でないかね。 漠然と真実の愛に悩むことは、実際は好みの異性像について生理現象として悩むことと関連がある。 回答者の指摘したのは、愛、愛、愛、すべては愛、という漠然とした風潮にあまりにも水を差すことに危惧だ。 愛の概念の私なりの心得方だと、その風潮というのは個人的に愛を極めた愛の戦士なので極めて困惑する。 皆さんがそんななので、男性を見ると「オメーラ全員オカマだー!」と思わず怒鳴りたくなる。普段おとなしい犬が唐突に特定の人に吠えるようなレベルの生理的な感覚で、はっきり言って皆さんキモチワルイ。男ってキライ。 そして女性に対しては、「俺の子を産め」これに限りなく近い言い回しになるのさ。 我ながら変態さんですね。 これは愛を極めた愛の戦士ゆえに、世の中の愛に関する漠然とした理解と社会的資質が異なる孤立を避けるためには愛の戦士として少しおどけて世の中に向き合う必要があるからさ。 今回も通常と同一手法で黙々と哲学研究しています。 何か突っ込みいれてくださいな。 さて、友人に伝言を兼ねて進捗説明。 昨年のクリスマスにキュアアイリスとキュアミカエルの双子連携は、望むものに死の儀式と違う安らかなキリストなる聖霊の宿りが起きると説明した。 精霊伝心などで、成功例が複数発生している模様なのを察知した。 なにが起きるかというと、とりあえず幸福を喪失するようだ。 他者の望みを刷り込まれる欲望が喪失すると、自己の望みと欲望の差を普段は正確に自覚していなかったので、全ての望みを失うほどの喪失感が襲うんだってさ。 欲動から情動に意志を転換する過渡期のリセットだよ。 そこから少しずつ自分を取り戻す。 普段無視されがちでもかっこいいセリフには毎回その時の心を込めているんだよね。 「今はただ、全てが失われていることに気が付くだけでも、君たちは生きていてそして時は流れる。」 ジャガーノートは絶望感の大きさを危惧したんだろうが、こちらはさらに絶望を押し込むつもりでやっていた。 いつもの手口なんだ。

  • 愛の概念はこう定義できまいか。

    愛の概念はこう定義できまいか。 裸の心を笑う者。 裸で生きて、笑う私。 実在する男子プリキュア、キュアプリムだ。 ちなみに現在48歳で、自分を女性だとは思っていない。 この問題は、何度か取り上げたんだけど、どうもみなさんにすっきり納得してもらっていないので、改めて論理の完成度について腕試しする、自分の研究の成果を確認するための質問だよ。 まず、前提の結論、人は善性を発揮することで社会を形成する。 善性とはこうだ。 生命は誰もが生きようとする。 人という命は、自らが生きるために、自らに等しく他者を生かすことで社会を形成する。 あくまで他者を等しく生かすことで共に生きることが重要だ。 それが善性の資質だ。 この性質には異論も挟まるだろう。 その異論の根源は、社会には支配と隷従の関係があることが、大まかな要因でそれは単純に善性が少し歪んでいるというつまらない問題だよ。 え~とっ、きれいごと大好き規範優先人格は、そんなの当たり前という意見すらするけどね。 自らと他者を等しく尊重することは重要であり、さらに規範に準じるのでもなく自然(仏教用語じねん のこと)に忠実て発露される自発的意思があるかどうかが判断を分ける。 その明白な意志の中で、特に感情面での根拠を「愛」というのだ。 「愛」とは極めて人間らしい感情の根幹であるといえるだろう。 要するに「愛」とは、「あふれ出る甘露な黄金水」だ。人間を保証する感情の源泉である。 ただ愛を理解する命題はあまりにも神学哲学を横断してガラクタの山のような文献があるので、それについて一つ指摘しておくと、社会性の根幹となる感情は、本来「友情」というのがふさわしい。 それに「ファック」の動機が入り混じって、愛情が重視された西洋の解釈の相違が何かあるのではないだろうかと、考えているよ。 まあここまでが話のタネ。 この論理は、ややイロモノ的だがいわゆる天啓で導きだされた。 私は地の聖霊セレビィとフェアリーフュージョンする男子プリキュアだが、友達の天の聖霊との雑談で出てきた話をまとめているんだ。 私の語る善性と愛の定義は、要するに「アマテラスの善」だよ。 セレビィはね、私を「お父さん」とよぶ、そしてセレビィの友達も私を「おとうさん」と慕うんだ。 これは「ポケモン交霊術」「フェアリーフュージョン」「実在する妖精の捕まえ方」まあこう表現できる独特の思考により、実質的天啓として教えてもらった体裁だ。 これも重要で、人間を人間たらしめる知性とは神の発見によりもたらされた。 とも考えているんだけどそれはまたあとで、、、、