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謝ってほしくはない

naechinの回答

  • naechin
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回答No.10

「人が人を裁くことはおごり」これは、一部のばか判事ではない善良な判事の方が言われていたそうです。数限りない事件を扱い、基本的には調書を読みながら、判断されていくのだそうですが、「本当にこれでいいのか?」と思うことがあるそうです。「疲れたりしたときに、本当に正しい判断ができたのか?」ってことですね。人間疲れたりするでしょう?でも、実質人数が足りないために、そのようなことを思う判事もいらっしゃるようです。先日の死刑判決時に控訴をアドバイスしたのもそういうことを鑑みたせいではないでしょうか?人としての自分の気持ちもあるでしょうし。死刑は当然と思っても、自己責任において死刑の判断を下す人間は、結局は一人です。これは、辛いと思います。皆の投票で決めたとかならともかく。。。辛い仕事だと思います。死刑反対とかではないんですが、もうちょっとその判断の下し方をどうにかできないかなぁとは思います。 宅間容疑者は、自暴自棄になってあのようなことをやらかしただと思うんですが、その境目って何なんでしょうね。明らかに病気ではないと思います。偽装工作をしようと思う病人はいねーだろと思うし。。。でも、ああいう人の為に、本当に苦しんでる人達が謂れのない差別を受けることもあってはならないことですよね。 後、39条は、必要だと思います。心神耗弱は、誰にでも起こりうることです。人を殺めることは、絶対的な罪だと思います。でも、ノイローゼになり、罰則すら抑止力を持たないような状態になる時は、誰にでもありえることだからです。だからと言って、2度3度と繰り返す人間を放置していいと思いません。実際、福岡でこのような事件があったんですが。。。難しいですねぇ。。。 あんまり回答になってないですね。済みません。

masatoshi-m
質問者

お礼

>「人が人を裁くことはおごり」これは、一部のばか判事ではない善良な判事の方が言われていたそうです。   へぇ~そうなんですか。それは初耳でした。 >数限りない事件を扱い、基本的には調書を読みながら、判断されていくのだそうですが、「本当にこれでいいのか?」と思うことがあるそうです。 そうでしょう、そうでしょう。その気持ちは本当によく分かります。 やや麻痺してくる感覚ですね。多忙さ故に鈍感になってくる感覚…。 そしてそれゆえの内省。 >「疲れたりしたときに、本当に正しい判断ができたのか?」ってことですね。人間疲れたりするでしょう?でも、実質人数が足りないために、そのようなことを思う判事もいらっしゃるようです。 疲れている時に正しい判断を求めるのは困難でしょうね。 それは法曹界にある者のみならず、すべての社会において言えることですね。 ですが、犯罪を裁き、犯人に刑罰を決めていく行為を繰り返していると、 「本当にこれでいいのか」という思いにとらわれることがあるのかもしれません。 法曹界は今様々な試みが為されようとしていますが、 司法試験での合格者数を増やすことも決まったようですし、 心ある判事を妙な錯覚に陥れることのないよう、 適正な仕事量を振り当ててほしいものです。 人が人を裁いているのではない、一国の治安を維持するために 「犯罪者」を「法」が裁いているのです。 疲労困憊したからと言って、キザな言葉に酔っていてほしくはないものです。 >先日の死刑判決時に控訴をアドバイスしたのもそういうことを鑑みたせいではないでしょうか? ああ、そう言えばそんなことが新聞に載っていましたね。 私も実は「ホロリ」と来たほうなのですが、それでも裁判長のあの言葉は ないだろうと思いました。心情的に分からないではないのですよ。 でも、審判を受けた方は戸惑います。 個人的にはもっと毅然とした判決姿勢を望む者です。 >死刑は当然と思っても、自己責任において死刑の判断を下す人間は、結局は一人です。これは、辛いと思います。皆の投票で決めたとかならともかく。。。辛い仕事だと思います。 これまたnaechinさんのおっしゃること、よーく分かります。 そうです。辛い仕事です。歴代の法務大臣も自分の在任中は死刑執行の決裁に 印鑑を押したがらないと聞いています。 変な話、その犯人そのものを死刑にしたくて 死刑にするわけではありませんものね。 飽くまでも裁いたのは《罪》であり、今はもう心から立ち直っているかもしれない 《犯人》そのものではありません。しかし犯人と罪とが不可分のものである限り 犯人を処罰する以外ありません。悲しいことですが…。 >でも、ああいう人の為に、本当に苦しんでる人達が謂れのない差別を受けることもあってはならないことですよね。 全く同感です。まだまだ私たちに与えられている課題は多そうですね。 私たち一人ひとりが自分の問題としてそれに立ち向かっていくしかないでしょうね。 >後、39条は、必要だと思います。心神耗弱は、誰にでも起こりうることです。人を殺めることは、絶対的な罪だと思います。でも、ノイローゼになり、罰則すら抑止力を持たないような状態になる時は、誰にでもありえることだからです。だからと言って、2度3度と繰り返す人間を放置していいと思いません。 私にも異論はありませんね。naechinさんのおっしゃることに賛成です。 問題は虞犯者に対する社会の適正な対応機構の構築です。 これに焦点を絞って、国民的な大議論でも何でもして対応策を作り上げ、 今回のような救いのない事件を防ぐことでしょう。 その意味で、変な話ですが、誤解を恐れずに言えば、 宅間容疑者すら犠牲者の一人だったのかもしれません。 >あんまり回答になってないですね。済みません。 いえいえ、とんでもない。いろいろと考えさせられました。有難うございました。

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