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在地代官
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旗本ということは幕領ですね。 旗本の雇う在地代官は基本的にその領主たる旗本の専権事項です。一般的には村の有力者の名主がやりますが、この名主は幕府の場合は基本的には農民です、郷士(下級武士)というケースはほとんどないかと思います。(例外あり) 諸藩の場合は名主が郷士であるケース、郷士がそもそも農民身分の地域等もあります。 代官として自分の家人たる部下を派遣することもできます、この場合下級とはいえ完全に武士ですね。ですが費用がかかりますし地元の有力者を押しのけて支配者を送るというやり方は難しい面もあるでしょう。 家康の江戸入府時、当然旗本の所領は関東にありました。だいたい江戸から一日でいける距離です。そうなると日々の管理は村の名主に任せ、問題が発生したときだけ自分が行くなり人を送るなりすれば事足ります。 これが幕府を開き家康の所領が全国に拡大し旗本の知行地も地方に移っていくと、家人である武士を代官として派遣せざるをえなくなります。そうなると地方に在住する郷士が代官を世襲になりがちですね。 この名主の選び方は、多くの場合世襲ですが、村で交代や投票により選ぶ地域もあります。 5000石の旗本が藩主より裕福だったか、これはそれこそ1万石クラスの大名と比べると当然に裕福だったでしょう。大名となると参勤交代に賦役にと幕府に軍役奉仕しないといけません、旗本の場合太平の世ですと別に戦に出るわけではなく奉行等に任命されるだけです、それも奉行の場合役料がでるものもありますし、収入の大半が経費に消える小大名よりは明らかに裕福でしょう。 そしてもっと裕福なのが雄藩の大身家老です。旗本の場合はMAX9000石ですが大藩の家老の場合もっと知行が多い者もいます。
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- GuruGuru2580
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いろんな方の本を読みすぎて誰それのどの題名?とか言われるとゴニョゴニョ…ですが、司馬遼太郎さんが当時の大名の構成人員は7割が4万石以下、2割が7万石前後、のこりが大大名と書いてました。 で、2~3万石の大名よりは遥かに4千石~(制度上大名の名乗りは1万石超えてから)の旗本は豊かだったとしるしてあります、幕府直轄領の代官に関しては分かりません。 他の作家さんも似たようなコト書いてますが、恐らく皆さんのソースも先輩作家である司馬遼太郎のように見受けられます、オマージュですね。
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