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ロジェ・カイヨワ「遊びと人間」についての質問
- 遊びの定義は6つありますが、これにすべて当てはまるものだけが遊びなのですか。それとも場合によってはいくつかの逸脱も認めているのでしょうか。
- 「遊びの堕落」という言葉の意味は「もはや遊びではない」か、「遊びではあるが低俗なもの」のどちらでしょうか。
- P92がよく理解できません。「スポーツや演劇のプロは『遊んでいるとは言えない』が、報酬と引き換えに『遊んでいる』」の文が矛盾に感じます。そのあとの「プロの遊び(=仕事)は日常活動であり、気晴らし(遊び)ではない」からの「俳優にとって劇は遊びだ」も同じく矛盾を覚え、意図が読み取れません。
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Kibouou39さん こんにちは。独学素人です。本は読んでいません。ネットて調べて勝手なことを書きます。だから正しい回答かどうか分かりませんよ^_^ 1. 定義は必要十分条件のはず。定義の一つでも満たせば十分に遊びである。 2. すべての定義が満たされてないのなら遊びではない。定義の一つでも満たされて、かつ満たされてない定義があるのなら、欠けた面もあるが遊びである。それに、遊びは高尚な活動であると定義されたものが満たされてないなら堕落であり低俗である。(どれが高尚な活動の定義か分からないが) 3. 仕事の相の下に眺めれば、プロは仕事をしていると言える。しかし、遊びの相の下に眺めれば、その人たちは遊んでいる。練習や稽古を日常生活、観客の前でプレイするのは非日常と思う。遊びは気晴らしであると定義してはいないので無視出来るのではないかな。ホイジンガやカイヨワは遊びの相の下に人間活動を見る立場の人。 4. 遊びは偶然的な活動であるという定義があり、かつ偶然的な活動が高尚で、かつ迷信がそ れを損なったなら、遊びは堕落する。ここでは迷信が堕落させたということ。迷信自身が遊びとして堕落するとは言っていない。 迷信も文化であるなら遊びの相に下に遊びの本質が見られるべきてある。 ホイジンガは「遊び→文化」という常識を「遊び←文化」にひっくり返した人。きっかけはプラトン『法律』神さまは人間を遊ばさせるために作ったとか。遊びは文化に先行するという信念が高まって文化は遊びと主張することになったという感じ。 文化は遊びという結論が正しいとすると、どういう前提から合理的に演繹できるか。仮説形成ですね。それで遊びの特徴を本質的に定義することを試みた。本質的定義ならどんな事象にも当てはまるかも、と考えたのかな。そしてカイヨワは引き継いで遊びの定義を拡張した。なので、なんでも遊びに結び付けたいという思惑があったのかなと思う。 定義に成功しているのかどうか。文化として考えられる事象に意識が向き過ぎてるような気がする。子供のころの原初的な遊びの方が本質に迫りやすいかと思った。「文化は遊びである」に帰結させるのは多分無理。「文化は遊びの変容である」ならいけるかも。文化や歴史を眺める新たな視点として確立したら、世界は楽しい社会に見えたり社会変革して遊戯的社会になるかな。 少しでもお役に立てれば幸いです。
お礼
回答ありがとうございます。 一つ一つ丁寧に答えてくださったので、大変参考になりました。遊びの見方、捉え方が柔軟になった思いです。重ねてお礼申し上げます。