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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:山口県見島の古墳は防人の古墳?そんな馬鹿な…と)

山口県見島の古墳は防人の古墳?そんな馬鹿な…

このQ&Aのポイント
  • 山口県見島の古墳がなぜ防人の墓と思われていたのか疑問です。
  • 見島の古墳は豪族の墓であることが最近判明しました。
  • 古墳には農具などの埴輪はなく、武器が入っていたために防人の墓と推測されていました。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.2

No.1です 補足を頂戴しました。 追加の御質問がありましたので説明させて下さい。 >江戸時代まで 庶民は埋葬されなず 墓 というものはなかった…という様に聞いたことがあった 現在のような石作りのお墓がなかったということで埋葬されなかったということではありません。 江戸時代でも石作りのお墓を作ることができたのは富裕層だけでした。 >でも縄文・弥生時代にも埋葬されているわけで…あれ?… 弥生時代のものとして遺体を埋葬した墓地の遺跡が見つかっています。 参考 甕棺墓 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/甕棺墓 抜粋 墓地は一般集落構成員の墓と有力者層の墓とは別に造られるようになった。 青銅製品などの副葬品にも差が出てきた。この地域社会にいくつかの階層ができあがっていったことがわかる。 中略 吉野ヶ里遺跡(佐賀県吉野ヶ里町) - 弥生時代の墳丘墓が遺跡全体で3,100基以上確認。 吉野ヶ里丘陵の尾根では長さ約600mに渡り計1,500基がまとまって分布 吉野ヶ里遺跡も御質問の山口県見島の古墳群とよく似た形式だったということです。 >私の勘違いで 飛鳥時代から農民も普通に[墓]に埋葬されていた…という事なのでしょうか? 飛鳥時代というか大化2年(646年)に薄葬令という身分に応じて墳墓の規模などを制限した勅令が出されていました。 この次期に敢えて勅令が出されていたというのは勅令以前に行われていたことが推察できます。 参考 大化の薄葬令 - 日本語と日本文化 - 東京を描く http://japanese.hix05.com/Folklore/Burial/burial12.taika.html 抜粋 「庶民亡(し)なむ時には、地に理(おさ)めよ。其の帷(かたびら)帳(かきしろ)の等には、(あらぎぬ)を用ゐるべし。一日も停むることなかれ。凡そ王より以下、庶民にいたるまでに、殯営(つく)ること得ざれ。凡そ畿内より、諸の国等に及ぶまでに,一所に定めて、収め埋めしめ、汚穢しく処々に散し埋むること得じ」 庶民の死に際しては、粗末な帷子を着せただけで地面に埋めよ、一日もそのままに放置しておいてはならぬ、王以下庶民に至るまで、殯を営むことは許されない、畿内をはじめ諸国ではそれぞれ埋葬地を定め、すべての死体はそこに埋めて、汚らしく散乱させてはならない、という内容である。 遺体の処分に関しては薄葬令に挙げられている方法以外に散骨という方法が取られていたことが分かっています。 万葉集にそれにまつわる歌が残っています。 「玉梓能 妹者珠氈 足氷木乃 清山邊 蒔散(玉梓の妹は玉かもあしひきの清き山辺に撒けば散りぬる)」 「玉梓之 妹者花可毛 足日木乃 此山影尓 麻氣者失留(玉梓の妹は花かもあしひきのこの山蔭に撒けば失せぬる) いずれも妻の遺骨を散骨した際の心情を謡ったものです。 >高校日本史の地理以前に中学歴史もあやしいもので 歴史学というのは文字(文献)史料を基にした学問です。 考古学というのは物を基にした学問です。 日本で古墳時代とされる時期の文字(文献)史料がありません。 従って古墳については物に頼る以外に方法がありません。 庶民の遺体処理方法に関する文字(文献)史料がありません。 貴族層が残した日記などに頼ることになります。 現在もそうですが遺体の処理方法は極めて土俗的なもので地方によって異なります。 結果的に文字や物に頼らない民俗学の領域になってしまいます。 中高等学校の教科書は歴史学者が主体となって作られています。 考古学や民俗学の知見は参考程度に留められています。 過去のお墓や古墳に関してあやふやになるのはやむを得ません。 蛇足 現在お墓はお寺の専管事業のようになっていますが、仏教の発祥地であるインドには現在もお墓というものはありません。 遺体は河原で焼いて残った遺骨はガンジズ川に流してハイオシマイです。 you tubeに動画が掲載されています。 タイトル:Hindu Cremations at Pashupatinath Temple in Kathmandu Nepal 投稿者:cctwebteam 唯一の例外がお釈迦様の遺骨を祀ったストーバと呼ばれる遺跡です。 日本では五重塔として心柱の下に仏舎利を埋めてあります。

tigerdragon
質問者

お礼

ありがとうございましたm(__)m m(__)m m(__)m! 息子に伝えましたら 納得しておりました。 読書感想文を書くにも 書いてある前提が「????」になっていた様で 「ーーー見島の古墳が防人の古墳だと思われていたものが 最近になって 当時(白村江の戦後の頃)の国境防衛軍的に派遣されて指揮していた豪族の古墳だったとわかりました。ーーーびっくりですね~!」 的な書かれ方をされていたのに 既にモヤモヤと引っかかっていた様でした。 『あーただ防人が派遣されて本島から米などが送られてたっていうのではなくって 防人を統括する豪族がいて 見島の島の力だけで自給自足をしながら 国境警備隊みたいに頑張ってました。今残っている田んぼはほとんど当時のままなんですよ という事を言っているわけか!』とやっとつながったようです。 (うちの息子…あまりにも読解力がなさすぎるのもあって…作者が何を言いたいのか…だからなんなの?的に意味不明になっていたようです。) ありがとうございましたm(__)m m(__)m m(__)m。

その他の回答 (1)

回答No.1

>防人たちの墓 と断定されていたのはなぜでしょうか? 御質問で 「古墳は身分の高い人たちの墓であって」 とありますが これは近畿地方の古墳を基にした見解です。 御質問の山口県見島の古墳は単独のものではなく東西約300m巾50~100mの狭い地域に約200基からの古墳が集積している遺跡です しかも近畿地方のもののように土を積み上げたものではなく大小の石を積み上げただけの簡素な形式です。 近畿地方で見られる古墳とは全く違う形式の古墳群です。 つまり「身分の高い人たちの墓」とは断定できないということです。 参考 見島ジーコンボ古墳群 文化遺産オンライン http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/202706 写真が掲載されています。 さらに 「農民が古墳に埋葬されるとは思えないのです」 とありますが、 古墳群がつくられた時代に総面積約7.8km2の孤島に大量の古墳を作るほど農民が居住していたという確証は何処にもありません。 むしろ、外部から大量に移住してきていた集団がいたと考えられています。 古墳群が作られたと考えられる時代には玄界灘に面する山口県をはじめ北九州一帯に全国から徴収された防人が駐屯していたことが文献史料からも確認されています。 以上のことを総合的に考えて、中央の朝廷から派遣された指揮官と防人や健児として従軍した人々の墓地群ではないのかと考えられるようになりました。 現在も考古学会では見解が分かれています。 防人や健児ではなく関東地方以北で捕らえられた俘囚の墓地群ではなかという説も出されていますが確定していません。 参考 見島ジーコンボ古墳群 - 山口大学 http://petit.lib.yamaguchi-u.ac.jp/G0000006y2j2/file/21577/20130425...

tigerdragon
質問者

お礼

丁寧なご回答をありがとうございましたm(__)m。 身分は高くなくても(防人の様な人たちも)小さな古墳=お墓に埋葬する事はあったので 最近までそう思われていた と理解しました。

tigerdragon
質問者

補足

江戸時代まで 庶民は埋葬されなず 墓 というものはなかった… という様に聞いたことがあったのもので そう思い込んでいましたf^_^;。 (でも縄文・弥生時代にも埋葬されているわけで…あれ?…) もしかしたら 私の勘違いで 飛鳥時代から農民も普通に[墓]に埋葬されていた…という事なのでしょうか? 高校日本史の地理以前に中学歴史もあやしいもので…すみません。

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