- ベストアンサー
奈良の大仏「毘盧遮那仏」は本当にゼロを表しているのか?
- 奈良の大仏「毘盧遮那仏」は「数字のゼロ」を表しているという説明があるが、他の説明はないか?
- 仏教発祥の地インドはゼロを使う位取り記数法を編み出した土地柄であり、毘盧遮那仏がゼロを表しているという説明は違和感ない
- 毘盧遮那仏がゼロを表しているという説明が他にあるかどうか、またその説明の詳細を知りたい
- みんなの回答 (6)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
お礼コメント,ありがとうございます. NO.2 です. 回答を投稿したあと,「毘盧遮那仏」の文字列を見たときのオレの脳内をもう少し細かく見ると下記でした.考えた数は自然数,ゼロです.原理的に答えはわからないけど,司馬遼太郎の思考も同じようにシンプルだったかもしれないと思い直しましたので,再投稿します. ・「毘盧遮那仏」の文字列→漢字の義を知らなかったので,脳内に対応するものがなかった.なにも連想できなかった.発音した.聞いたことのない音だった→脳内に語,イメージ,思考が浮かばなかった→脳内メモリに対象がなかった.なにも見えなかった.暗い印象→仏教の「無」の語の連想.数学のないという意味での「ゼロ」の連想 まとめると「毘盧遮那仏」の文字列を見たあと,脳内メモリに仏教の「無」の語,数学の「ゼロ」の語が見られた.そこで脳内で「無」と「ゼロ」を同じグループにした.また「毘盧遮那仏」の語を,「無」の語,「ゼロ」の語へ対応させた. ・「大日如来」の文字列を見て「大日」から「太陽」の文字列を連想→脳内に太陽のイメージ→脳内は太陽のイメージに照らされて明るかった 「毘盧遮那仏」の文字列に対してなにも思いつかなかったのに対して,「大日如来」は脳内に対応する「太陽」の語が浮かび,イメージが浮かんだ.そこで毘盧遮那仏の「無」に対して,大日如来に仏教の「有」の語を対応させた.「毘盧遮那仏」に数学の「ゼロ」を対応させたので,「大日如来」を具体的に対応するもののある「自然数」を対応させた.
その他の回答 (5)
- ichikawa2017
- ベストアンサー率54% (452/836)
>そこで質問なのですが、毘盧遮那仏は本当にゼロを表している如来なのでしょうか? 毘盧遮那仏が直接ゼロを表している訳ではありませんが、毘盧遮那仏というのは華厳思想に基づいた仏です。 華厳教の中に ……無量劫即ち是一念なるを知り一念即ち是無量劫なるを知り一切劫無劫に入り無劫一切劫に入るを知らんと欲し…… という一節があり一般的には無劫をゼロと看做す解釈がされています。 ゼロという概念は華厳教では特に触れていませんが古代インド人は容器に水が無いという言い方をせずに容器には水の無があるという言い方をします。 この表現方法で行くとゼロというのは何も無い状態があるということを表す記号だということになります。 「何も無い状態がある」というのは日本語の表現としては矛盾した表現になりますが古代のインドの人々とは発想が異なりますので古代インド語であるサンスクリット語に相当する日本語が無いのでやむを得ません。 司馬遼太郎はおそらくこのサンスクリット語のゼロの概念と華厳思想を組み合わせて考えた結果毘盧遮那仏がゼロを表しているという表現になったのではないかと思います。 >それはどこにどの様な説明が書かれているのでしょうか?教えて頂けると幸甚です。 ご希望のような直接的な説明ではありませんが下記のような書籍があります。 華厳経をよむ 木村清考著 NHKライブラリー 真釈般若心経 宮坂宥洪著 角川ソフィア文庫 他の解説書とは異なりサンスクリット語に基づいて解説しています。 蛇足 従来合理的とされていた自然科学的なものの考え方に疑問を持ち従来非合理とみなされていた東洋哲学の考え方を自然科学の分野へも適用しようという動きがあります。 参考 現代物理学の先端から東洋の世紀がはじまる タオ自然学 F・カプラー著 吉福伸逸他共訳 工作舎発行
お礼
ご回答ありがとうございます! >> 華厳教の中に……無量劫即ち是一念なるを知り一念即ち是無量劫なるを知り一切劫無劫に入り無劫一切劫に入るを知らんと欲し……という一節があり一般的には無劫をゼロと看做す解釈がされています。 実はこの様なことが知りたかったことでした。「無量劫」と「無劫」をゼロと捉えたに違いないと思います。 もしご存知であればお教え頂きたいのですが、『塵劫記』にある「無量大数」という数字の位の名は「無量劫」に雰囲気が似ていますが、関連はありますでしょうか?よろしくお願い致します。
- hue2011
- ベストアンサー率38% (2801/7249)
般若心経です。 色即是空、空即是色です。 ない、ということとゼロが違うのは、早く言うと概念が存在するか(枠があるか)ということです。ものを数えるソロバンがあって、どんどんひいていって、全部の玉が下に降りている場合は、「ない」のじゃなくゼロなんです。ソロバンの玉は全部あるんですよ。玉子が10個入れられるパックからどんどんぬいていくと最後はひとつもなくなるけど、ゼロ個になっただけなのです。卵のいれものまでなくなったわけじゃない。一個どこかから得られたら入れる場所はあるんです。 ゼロというのはそういう意味で、あることを理解していないと想定できないモノなんです。 そろばんの玉が全部上がっている場合は9999・・という表現になります。全部降りている場合はゼロなんです。でも玉は同じものですし同じ数存在します。 色即是空空即是色というのは、みんなあるということとみんなないということがほぼ同じ理解で把握できるということです。だからものがないということで悩む理由はない。 知識、思考が進化し、行きつくところまで行った存在が毘盧遮那仏であり究極の信仰の対象となってかまわないが、そもそもこれは行きついた先だから、何もはじめていないときと同じだと意識してもいいんじゃないか、そこを出発点と考えても同じことじゃないか、というのがこの般若心経の意識の底にあります。だから、究極に向かって、進め進めどこまでも行けと考えるのが真理の道であり、どこかで止まると考えてはいけない、と弟子(舎利子)に呼び掛けているわけです。 修行中の状態が菩薩であり、究極が如来なんですが、常に如来を目指し修行を続け、いつでもゼロの状態である、しかしものをはめようとする枠は存在している、というのが仏教の修行の根本です。 これは学術研究なんかでも同じことで、どう調べればいいかわかっている、努力の方向も知っているがまだまだ未熟だというのが普通のはずです。常に成果はあり、常に何もないんです。 あんまり決めつけると外れますからこの辺にして、司馬遼太郎がいいたかったことはこの周辺のことを示していると思います。
お礼
ご回答ありがとうございます! 般若心経かも知れないですね。私もそんな気はしています。「色即是空、空即是色」ということを言い換えると「有は無から生じ、無は有から生じる」ということと理解しています。それを数式にすると関数にも出来、その中央には、もしくは原点には、ゼロがあったということかも知れません。ただ、それが毘盧遮那仏とどういう経緯で結び付いたのか?を知りたいと思っています。ありがとうございます。
- yukiyamamomo
- ベストアンサー率37% (57/151)
nあら 平城京 東大寺 奈良の大仏 華厳経 京都 平安京 比叡山延暦寺 法華経 まあ、見た目の大きな違いは大仏の有無だけれど、 華厳経と法華経と、仏教におけるイデオロギーの違いが どれほどなのか、最近気になってます。
お礼
ご回答ありがとうございます! >> 仏教におけるイデオロギーの違いがどれほどなのか、最近気になってます。 実は私も無宗教なのですが、仏教には2500年もの歴史があり、それだけの年月と広範囲にわたって「広げて行った」人間たちのことを思います。どういう思いをそこに込めたか?です。
- hiro-hiro-hiro
- ベストアンサー率35% (90/252)
こんにちわ!オレは仏教徒でないです.仏教については詳しくないです.正しい説明,それが記載されてる文献について知らないです.ふんわりとした意見でお答えします.真面目にやっていらっしゃる方々については(失礼な!)と思われることがあるかもしれません.その際は宗教をやったことのないものの一意見と思って,お許しくださるようお願いします. 「大日如来」の文字列を見て太陽を連想するけど,「毘盧遮那仏」という文字列から意の解釈がまったくできなくかったので,(意味不明)と思い,発音すると聞いたことのない音で(謎めいてる)という印象だったので,オレも(ゼロは大日如来でなく毘盧遮那仏かな?)と思ってました.テキトーに解釈してたので,質問文を見て,ちゃんとググりました.下記は毘盧遮那仏 について Wikipedia からの抜粋です. ---------------------- 「毘盧遮那仏」 毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)は、大乗仏教における仏の1つ。 概要 毘盧遮那とはサンスクリット語のVairocana「ヴァイローチャナ」の音訳で「光明遍照」(こうみょうへんじょう)を意味する。「毘盧舎那仏」とも表記される。略して盧遮那仏(るしゃなぶつ)、遮那仏(しゃなぶつ)とも表される。 史実の人物としてのゴータマ・シッダールタを超えた宇宙仏(法身仏)。宇宙の真理を全ての人に照らし、悟りに導く仏。 密教 真言宗などの密教における「摩訶毘盧遮那仏」(大毘盧遮那仏、Mahāvairocana(マハー・ヴァイローチャナ))は、大日如来と呼ばれ、 ---------------------- なんと, Wikipedia によると毘盧遮那仏:大乗仏教=大日如来:大乗仏教の真言宗などの密教ということでした!ややこしいですね!下記は大日如来についての Wikipedia からの抜粋です. ---------------------- 「大日如来」 概説 「無相の法身と無二無別なり(姿・形の無い永遠不滅の真理そのものと不可分である)」[4]という如来の一尊[注釈 1]。大日如来は、無限宇宙に周遍する点では超越者だが、万物と共に在る点では内在者である[5]。全一者であり、万物を生成化育することで自己を現成し、如来の広大無辺な慈悲は万物の上に光被[注釈 2]してやまないとされる[5]。三世(過去・現在・未来、前世・現世・来世)にわたって常に説法しているとも説かれる[6]。 ---------------------- 上記の毘盧遮那仏,大日如来についての説明を読んで,オレは,司馬遼太郎はゼロを数直線と考えたとき,数学の数直線と数直線上の数字の関係が仏教の毘盧遮那仏とオレ,アタシの関係に似てると思ったので,毘盧遮那仏を「数字のゼロ」にたとえたと思いました.もちろん数直線は数直線上の数字になにも説きませんが,,,どうでしょうか?^ ^
お礼
ご回答ありがとうございます! >> 数直線は数直線上の数字になにも説きません。 なかなか示唆的なお考えと思います。 考えさせて頂きたいと思います。 ありがとうございました。
- kei00332
- ベストアンサー率11% (5/45)
たんなる司馬遼太郎氏の想像だと思います そもそも毘盧遮那仏が釈迦様を表してるのかどうかも疑問ですし。 お釈迦様は如来の一人とされるが毘盧遮那仏がそれかどうかも疑問です。 偶像崇拝などしていなかったお釈迦様が如来様を崇拝していたはずもなく・・・と あ、いま仏教とかお釈迦様とか関係ないですよねw 般若心経知ってますか?般若心経には観音様が登場しますよね。 そんなことが事実であるはずもなく、偶像崇拝などしてなかったお釈迦様の教えであるはずもありません。 つまるところですね、そんなものは後世の人次第でいくらでも変わるってことです。
お礼
ご回答ありがとうございます! >> たんなる司馬遼太郎氏の想像だと思います。 私も何かそういう気がしているのですが、これにはどの様なバックグラウンドがあるのだろう?とずっと気になっていることです。
お礼
ご回答ありがとうございます! 司馬遼太郎はきっと無のことをゼロと言ってみたのだと思います。ご存知かも知れませんが … 司馬遼太郎が若い頃に多大な影響を受けた本に『零の発見』 (吉田洋一著、岩波新書)というものがあります。これに関連付けたのだと思います。想い出しました。ありがとうございます。