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方丈記を読みたい。
LN-TFの回答
方丈記は、比較的短い為に、口語訳は可也多数出版されて居ます。 高等学校の国文の参考書として、色々の国文が文法註釈などと共に、現代語訳が付されたものも多いですが、これらも方丈記は全訳と云うものが多いです。 又、国文の全集でも、口語訳が付されているものが結構あります。 そこで、どのように読むかによって選書の仕方が違って来ます。市販されている訳書をすべて承知しておる訳でもないのですが、幾つか目についたものをご紹介して置きます。 丁度良いから、高等学校の国文の復習も兼ねてと云うのならば、 ・文法全解方丈記・無名抄―2色版 (古典解釈シリーズ) 旺文社 ::方丈記の方は、国文を全て文法的の分解をして居ります。 そこ迄はいらない、唯余り意訳をせないで、原文に即してと云うのならば、国文の叢書や文庫本の国文に併録されて居るものが良いでしょう。ここでは文庫を例に二つ程挙げておきます。 ・方丈記 現代語訳付き (角川ソフィア文庫) 角川書店 ::元々は、角川文庫の国文学書の一冊として出版されていたもの。版元は国文学関係に関しては、専門的の本も出版して居るので信頼を置いても良いと思う。 ・方丈記 (講談社学術文庫) 講談社 ::訳者は、元東京学芸大学の教授で、徒然草の校訂(改訂校訂)も行っている人。(故人)。訳文は信用しても良いと思う。 逆に、難しい事は考えずに、内容が分ればよい、寝転びながらでも読めるやうなものが良いと云うのであれば、口語訳国文全集の如き企画で拵えられた訳文が良いかと思います。元は、全集用に拵えられたものですが、今は文庫に入っているものを例として挙げて置きます。 ・現代語訳 方丈記 (岩波現代文庫) 岩波書店 ::取り扱っている書店が少ないのが難ですが、版元は国文や哲学、経済学、理学、数学等に関しては権威的な本を多数出しているので、信頼が置けます。訳者は支那文学を専攻した人で、小説家ですから、讀み良いと思います。 なお、小学館の古典文学全集には口語訳が付されたものがある由ですが、未見なので情報としてのみ記して置きます。 このやうの状況ですので、可能なれば、大規模の書店などで実物を見てから購入されれば良いと思いますが、お住まいの関係等で書店の便がないのでしたならば、更に詳しくご要望を頂ければある程度は絞り込めると思います。 御参考にならば幸甚です。
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補足
ありがとうございます。「讀み良い」という文字を初めて目にしました。 原稿用紙わずか25枚ほどですが、これほど有名な出だしもないものだと思います。そして中身を知らないのは他の名作と同様ですね。現在が「方丈記の時代」という話もあり大変興味を持ちました。茅葺の方丈を作るわけにもいきませんが、テントを張れば方丈かと思ったり。屋外で方丈記を読んでみたら、鴨長明の気持ちも身近に感じられるかもしれない。そんな用途の方丈記を一冊持ち、旅に出たいと考えました。書店で実物を、とのことですが、残念ながら視力が衰え、背表紙を眺める楽しみは失われました。できれば文庫は避けたいと思っています。