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恨とルサンチマンの違い
- 恨とルサンチマンは、韓国及び朝鮮の人々が持つ心根とニーチェの概念であり、厳密には異なるものです。
- ルサンチマンは弱者が強者に対する憤りや怨恨を指し、人の敵が拡大すると社会全体を敵と見なす傾向があります。
- 一方、恨は韓国及び朝鮮の文化や歴史に根ざした感情であり、特定のターゲットに向けられることが多いです。
専門家の回答 ( 1 )
- 専門家吉田 修(@osamucom0409) 産業カウンセラー
こんにちは。 読ませていただきました。 面白い視点ですね。 この問題を解決するための補助線を引くとしたら、なんでしょう。 ルサンチマンについて同じくwikiを見てみると、以下のように続いています。 >ルサンチマンを持つ人は社会的弱者であり、自身では社会的格差を解消できず、一般的な価値観を否定したり、逆転した価値判断を行っている。 社会的弱者の立場を規定しているのは「一般的な価値観」です。 これを社会規範と言ったりしますが、これをひっくり返して、立場を逆転させて自分が社会的強者になろうとすることです。 この場合、強者になったことの正当性が問題となるわけで、このためには社会規範がどうしても必要になります。 この原動力が「憤り・怨恨・憎悪・非難」の感情であり、内面化されていくと『「世界はどうしようもなく悪によって支配されている。したがってわれわれのほうが世界より優れている」と拡大解釈されるようにもなる』ということだと思います。 このように考えると、社会の「一般的な価値観」に対してどのような態度をとるかということが重要なようです。 これに対して、恨の場合、この恨自身が見かけ上「一般的な価値観」になってしまっているのではないかと思えます。 つまり、社会の「一般的な価値観」を転倒させひっくり返すことで社会的弱者が自らの正当性を主張しようとするのがルサンチマンであるのに対し、いきなり「憤り・怨恨・憎悪・非難」そのもので相手を圧倒し、ごり押しするのが恨であり、このためにはどのような事実をもその感情によってねつ造することになり、このねつ造された事実がまた感情をたきつけるというループ構造になっています。 いわゆる客観的事実に対して、彼らはこのような感情的事実というものを根拠にしているのではないかと思われます。 この錯乱した感情に理性が飲み込まれ、ますます錯乱していくことにより、社会規範そのものが崩壊し、無規範状態になるのが恨の本質だと思います。 社会規範とは秩序のことであり、秩序とは理性的なもののはずですが、恨の根底にはこういう秩序や理性に対する徹底的な嫌悪があるように思います。 当初、社会規範に対する激しい感情であったものが、これを転倒させひっくり返すという運動になるのではなく、社会規範そのものを破壊することが自己目的化し、さらに錯乱した感情的攻撃性だけが残り、万人の万人に対する誹謗中傷が常態化することといえるかもしれません。 では、なぜこのような破壊的な考え方が成り立つのでしょう。 改めて恨についてwikiを見てみると、以下のように定義されています。 >朝鮮民族にとっての「恨」は、単なる恨みや辛みだけでなく、無念さや悲哀や無常観、(虐げる側である優越者に対する)あこがれや妬み、悲惨な境遇からの解放願望など、様々な感情をあらわすものであり、この文化は「恨の文化」とも呼ばれる。 この「無念さや悲哀や無常観」というのは西洋にはないもので、東洋的な思想の特徴です。 西洋的な思想の特徴はこの世は意味あるものの総体であり価値あるものという考えが根底にあり、これを自らの力で獲得すること=戦うことを肯定することですが、東洋の無常観といった場合、この世は空であり、すべての意味は結局のところ無意味であるという考え方ですから、東洋の思想の根底には禅宗の影響だと思いますがすべてを無に帰するという発想が根底にあるように思います。 悲しいことに、ルサンチマンと恨には、このような違いがあるのではないでしょうか。 韓国が様々な日韓条約があるにもかかわらずこれを反故にするような言動をずっと繰り返しているのを見ていると、彼らは、秩序というものそのものに反発し、これに従うことを良しとするのではなく、錯乱した感情にこそ価値があると考えているのではないかと思えます。 回答になっていますでしょうか。
吉田 修(@osamucom0409) プロフィール
産業カウンセラー(日本産業カウンセラー協会) 吉田修(株式会社Dream・Giver) ■ご質問者・みなさまへ■ コーチング最新メソッドを使い、自分でできる、気持ちの切り替え方法をご提案しま...
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お礼
コメントありがとうございます。 確かにご指摘の様に、感情的になってしまうと何事も難しくなってしまいます。