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古文書で橋料とは

江戸時代の古文書を見ています。「五千石 淀ノ橋料、二千石 伏見ノ京橋料」という表現に出会いました。意味が不明です。有識者の方の教えをお待ちします。参考文献も教えてください。

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  • Kittynote
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回答No.5

再度、失礼致します。 No.4前出の(5)(6)『東京市史稿.橋梁篇第一&第二』からの 抽出作業に着手しようと思いましたが、 「何れも石高が千石単位で表記」の方が気になって 改めて調べ始めましたところ、 下記のようなカキコミが幾つか見つかりました。 ・草莽の記 杉田謙一氏 https://plaza.rakuten.co.jp/seimeisugita/diary/201006280000/ 御田扇祭の由来 「岡崎藩は五万石の大名ではあったが矢作橋の管理料として一万石が 附加され、実際は六万石であった訳であります」 裏付けは取れていませんが、 これならば「何れも石高が千石単位」が頷けます。 よって、No.4の架橋料云々は見当違いの可能性が高まり、 結果「橋料」とは、「各公儀橋の有る藩に幕府から附加して下された 維持管理費の石高」の可能性大のようです。 以上 緊急報告 失礼致します。

hyoro37
質問者

お礼

有り難うございました

その他の回答 (4)

  • Kittynote
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回答No.4

御質問フレーズ2箇所と石高は一致すれど名称に僅少差ありですが、 概ね下記(1)『玉露叢 卷第三十六』「一、所々橋料の事」と 下記(2)『鹽尻 卷之四十九 正德』「五大官橋」と一致しますので、 出所は違うかもしれませんが、元々は同源の可能性が高いように思います。 よって古い方の『玉露叢』を前提にお話を進めさせていただきます。 『玉露叢』は1674(延宝2)年の序&1598-1681(慶長3-天和1)年の編年史とそ の他とで構成された記録で、林鵞峯著との説もあるようですが作者は定かで はありませんが、1674-1681年頃の江戸前期の記述であることが 1つ目のポイントです。 (1)『国史叢書/国史研究会編/国史研究会/大正6.6.28』 〇「玉露叢 卷第三十六」 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3441753/155 <155-156/230>(293頁12・13行目-294頁1行目) 一、所々橋料の事 五千石 淀橋料 二千石 伏見の京橋料  一萬石 三州岡崎の橋料長さ京間二百八間 三千石 吉田橋料  五千石 江州瀬田大橋長さ九十六間・小橋長さ三十九間 (2)『塩尻:随筆.上/天野信景/帝国書院/明治40.6.30』 「鹽尻 卷之四十九 正德」 ※天野信景、1697年頃から1733年迄執筆。※ http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991406/401 <401/422>(790頁下段20行目-791頁下段2行目) ○五大官橋 山城国淀[橋料秋米五千石]  同國伏見[京橋料米二千石] 江州瀬田[橋料秋米?千石?]  三州矢作[橋料秋米一萬石] 三州吉田[橋料秋米三千石] 此外武州六郷の大橋今はなし…(以下省略)… 「淀橋料」は「淀大橋・小橋・孫橋」のどこまでを含むか曖昧ですが、 5つの橋々は何れも官橋いわゆる「公儀橋」ですから、 これが2つ目のポイントです。 続きまして、上記5つの橋々とは直結しませんが、 下記(3)によれば、享保期に幕府費用で直接維持管理を行っていた江戸の橋 のかなり多くを町(民間)の管理に切替えた事と、幕府が直轄で管理する御入 用橋の大半を一定金額で民間委託したことなど江戸の橋に対する政策に大変 革があり、また老朽化した永代橋は現状のまま民間移譲されたものの、架け 替えが不可避ゆえ、享保6年(1721)から10年間限定で武士を除く通行人から 1人あたり2文づつ徴収したいとする願が奉行所に出されたものの、下付し たときの条件では町方の責任で橋を維持するはずとして、この時の橋銭の徴 収は許可されず、後に架け替え費用の全額を町々に負担させるのは困難と判 断した幕府は享保11年(1726)5月から7年間に限り、武士を除く通行人から 1人あたり2文を取ることを許可、また元文元年(1736)から10年間1文づつ の取立てが認められたなどとあります。 ・公益社団法人土木學會>土木学会学術論文等公開ページ> 土木史研究講演集 https://www.jsce.or.jp/library/open/proc/maglist2/00902/2004/mg01.htm (3)〇「松村博/享保期における江戸の橋の民営化について/24/2004 9-16」 http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00902/2004/24-0009.pdf 上記からは、享保年間の江戸中期に至っては大変革があったとは言え、 民間移譲後の橋ですら橋銭(通行料)は限定的に許可されていたに過ぎず、 また、手元の電子辞書の『角川日本史辞典』【橋銭(はしせん)】には、 「…(前略)…近世でも行われ、江戸隅田川の両国橋、新大橋、永代橋などは 18世紀に橋の維持が町人の請負となり、通行人から橋銭が徴収された。」と あって、前記(3)とも概ね一致します。 あと、江戸期に限れば、橋の通行料は、「橋銭」「橋渡銭」「渡銭」表記が 多く散見されますが、管見ゆえか「橋料」は見出せません。 どうやら、徳川政権下での公儀橋の「橋銭(通行料)」は享保年間からの様子、 これが3つ目のポイントです。 1つ目(江戸前期)、2つ目(公儀橋)と3つ目(橋銭は享保年間以降)のポイン トから、少なくとも江戸前期の公儀橋は、創架当初の大名負担とか有力商人 などの献金までは否定しませんが、基本的には幕府の費用負担で架橋・維持 管理・修復が行われていたものと考えられます。 個別具体的な5つの橋々の何れかの情報が得られればベストですが、 残念ながら事は上手く運びません。一般論としてなら下記(4)には、 「近世伏見の橋は、その管理体制から幕府が直接維持管理にあたる公儀橋と、 近隣の町々が管理する町橋に分類される。公儀橋の維持管理は「公儀支出即 ち官費に於て修繕若しくば架替をなす」(京都府紀伊郡役所編・伏見町役場 編:京都府紀伊郡誌・京都府伏見町誌、臨川書店、p.259、1972.12)と、 原則は町奉行が行うことになっていたが、日常の管理は橋掛り町と呼ばれる 橋筋の町々に義務付けられていた。その内容は、橋及び橋詰、そして河岸の 管理・清掃、洪水時の監視、橋破損の通報、小補修、橋付近の捨て子や行倒 れ人の処置など様々なものがあった。」とあります。 ・『土木計画学研究・論文集 Vol.19(2002)』(P331-338) (4)「京都伏見における水辺の近代化に関する研究/田中尚人・川崎雅史」 https://www.jstage.jst.go.jp/article/journalip1984/19/0/19_0_331/_article/-char/ja/ <2/8> 以上から、享保年間以前の江戸前期の公儀橋では、橋銭(通行料)とその積立 は考え辛く、また仮に町役・村入用の内の積立金としても、一箇所の橋の維 持管理費としては維持の程度にもよるとは言え、明らかに金額が多過ぎるよ うに思います。 よって消去法でいけば「架橋料」に落ち着きそうですが、果たして 架橋料には請負などの工賃以外にも木材等材料費(幕府が木材等現物支給し た場合には、その評価額)を含むか否かの問題が残ります。 ただ、5つの橋々何れも石高が千石単位で表記されていますから、 大雑把な数値に過ぎない事は確かなようです。なので下手すれば例えば 下記の如く、五大官橋限定の単なる見立番付の可能性もゼロとは言えません。 ・『大日本国橋見立相撲』 http://www.wul.waseda.ac.jp/kosho/wo06/wo06_3145_57/ 5つの橋々の何れかの架橋料内訳を見出せればと彼方此方あたりましたが、 残念ながら現状WEB上では見出せません。 あと残された方法は、 江戸限定とはいえ橋梁情報が集積された下記(5)(6)等から架橋料内訳を 抽出して、場合によっては江戸前期と中期・後期との貨幣価値の換算なども 含め、推し測る程度しか思い浮かびません。 (5)・『東京市史稿.橋梁篇第一/東京市編/東京市/昭和11.11.30』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1915626 (6)・『東京市史稿.橋梁篇第二/東京市編/東京市/昭和14.10.31』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1915642 諸事情により一旦失礼致しますが、次回投稿には少し時間を要しそうです。 以上 ここまでで少しでも疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^

hyoro37
質問者

お礼

NO.5共々有り難うございました。

回答No.3

ご質問の文章だけでは、誰が何の目的で作成した文書なのか分かりません。 一般的な説明になります。 江戸時代の橋は大まかに分けますと、幕府や大名が架けた橋と住民が架けた民間橋がありました。 江戸ではそれぞれ御入用橋、町橋 京大阪では公儀橋、町人橋と呼ばれていました。 民間橋の場合は、架設費用や維持費を賄うために渡橋料を徴収していました。 江戸では俗に銭取り橋と呼んでいました。 京都の伏見では、観月橋、京橋、肥後橋、直違橋、常円橋、六地蔵橋、などが公儀橋でした。 その他には 三条大橋、三条小橋、白川橋、五条大橋、中立売橋など周辺を含む総数107ほどありました。 公儀橋の場合は架設料は幕府が負担していましたが、橋の維持管理費は橋の周辺の住人が負担していました。 大名領の橋としては現在も日本三大奇矯と呼ばれる岩国吉川藩の錦帯橋がありますが、吉川藩は橋催相(はしもやい)という税を身分を問わず取り立てて橋の維持費に充てていました。 つまり、ご質問の文書の橋料というのが、架設費用なのか、維持管理費なのかがよく分かりません。 伏見は京橋と橋を特定しているようですが淀ノ橋は料の多寡からして複数の橋が推定されます。 蛇足 江戸時代の身分の区分は境界が曖昧でした。 幕府では武家は士と卒に区分けされていました。 この他に郷士と呼ばれる人がいて、身分は百姓ですが日常的に帯刀が認められていました。 藩によっては上士下士と区分けしていました、 明治に入って士族と区分された際にこの卒や郷士、下士に相当する人も士族としましたので、混乱を招いています。 江戸時代には武士と言う言葉は特定の身分を意味することから日常的には使われていませんでした。 「お侍」という言葉が使われていました。 町人は城下町や主要市街地に居住する人を指し百姓は城下町外に住む人を指していました。 身分は百姓でも茶店や旅籠、鍛冶、大工などを経営する人がいました。 漁労営林関係者も身分は百姓でした。 税は百姓に対しては年貢と呼ばれる米を主体とする物納が基本でした。 漁労関係者は浦役と呼ばれる金納がありました。 これも個人単位ではなく村落単位でした。 町人の場合は冥加金と呼ばれる金納でした。 これを徴収していたのは町人の自治組織の町役人でした。 京大阪では惣年寄、町年寄と呼ばれていました。 町役人はこの他に町を運営していくのに必要な費用を徴収していました。 ご質問の橋料も文書の性格によってはこの諸費用の可能性があります。 幕府の架橋費用は、実際はお手伝い普請と称して大名に押しつけていました。 ご質問の文書が大名家関係のものであれば橋料もこのお手伝い普請の費用の内訳という可能性もあります。 特段参考文献はありませんが、各用語の説明がネットにあります。

hyoro37
質問者

お礼

有り難うございました

  • chie65535
  • ベストアンサー率43% (8523/19372)
回答No.2

橋料は「橋の通行料」です。 現在でも「橋料」を取っている橋が存在します。 https://www.city.iwakuni.lg.jp/soshiki/40/14258.html 上記に「架け替えや修繕など管理を適正に実施するため、入橋料をいただいております。」と書いてありますね。 昔の橋も「架け替えや修繕など」の費用を「通行料」として徴収して、積み立てしていたのです。 で「五千石」とか「二干石」とかって単位であれば、ある程度の長い期間に徴収した「通行料の総額」だと思われます。 因みに「1石」は「大人が食べる米、約1年分(10斗、100升、1000合)」です。小判1枚1両が1石に相当します(1両は今の10万円くらい) ですので「成人1人が1年間食っていけるだけの金額」を「1石」として「大きな額」を表すのに「五千石」とか「二干石」とかって表記をします。 五千石なら千両箱5つ分で今の5億円、二干石なら千両箱2つ分で今の2億円くらいです(千両箱は1両小判が千枚入る箱。1石=1両、1両=10万円と想定)

hyoro37
質問者

お礼

有り難うございました

  • kagakusuki
  • ベストアンサー率51% (2610/5101)
回答No.1

 適当な参考URLがすぐには見つからなかったため、うろ覚えの知識になって申し訳御座いませんが、橋も実体のある建築物である以上、使い続けて年月が経過するに従って傷んでくるため、定期的に修繕や架け直しが必要となります。  修繕や架け直しを行うためには多額の費用が必要となりますので、その橋の近隣に居住していてその橋を使う事が多いと思われる街の住民などにお金を納めさせる様な決まりを作っておいたり、橋を渡る通行人から通行料を取り立てたりしておき、その納められたお金や通行料を積み立てておいて修繕や架け直しを行うための費用に充てるという事が行われていました。(近隣の住民から取り立てるのか、通行人から取り立てるのかは橋によって様々だったと思います)  この近隣の住民や通行人に、橋の修繕費・架け替え費用として納めさせるお金の事、或はそれらを積み立てた積立金の事を「橋料」と言いました。  「五千石」や「二千石」の「石」とは体積の単位で、1石は100升に等しい量になります。  昔の武士社会では、予算や費用を「両」や「文」などのお金の単位ではなく、領地で栽培可能なお米の量で表す場合が多く、 >「五千石 淀ノ橋料、二千石 伏見ノ京橋料」 の「五千石」や「二千石」も「五千石の白米に相当する費用」(五千石の白米で賄える費用)、「二千石の白米に相当する費用」(二千石の白米で賄える費用)、といった様な意味ではないかと思われます。  そんな金額を、1人の通行人や1件の住民で支払う事など到底出来ませんから、おそらくその記述は1人に納めさせる金額ではなく、橋の架け替えのために積み立てておいた金額に関して書かれたものではないかと思います。

hyoro37
質問者

お礼

有り難うございました

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