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井伊なおとら
さいごどうやってしんだんですか
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記録が無いのでわかりません。 直虎という名前も当時の資料に出てくるのはただ一点のみで、広く知られた資料には出てきません。 幕府の公式な家系図集である『寛政重修諸家譜』に記載された井伊家の系図には、該当する人物名として【次郎法師】として以下のように記されています。 「女子-直親に婚を約すといへども、直満害せられ直親信濃国にはしり、数年にしてかへらざりしかば、尼となり、次郎法師と号す」 公的文書に登場する直虎(次郎法師)の記録は上記のみです。次郎法師前後の直盛、直親、直政の略歴でも次郎法師への言及は一切ありません。井伊家伝記には度々登場しますが、この書は一坊主が書いた私的文書なので創作が混じっています。 結局、謎の人物です。 ちなみに、亡くなったのは天正10年8月26日、46歳前後(生年不詳のため)とされています。 当時は本能寺の変(6月2日)、山崎の合戦(6月13日)、清洲会議(6月27日)の直後で、秀吉は信長葬儀(10月15日)と中央での地盤固めに追われている頃、信長亡き後の空白期間で中部・東海地方では徳川、北条、上杉、武田遺臣ら敵味方入り乱れる陣取り合戦、天正壬午の乱が発生していました。 真田丸で言えば草刈正雄が国人衆に担ぎ上げられ、西村雅彦が大泉洋に向かって「黙れ小童!」と叱りつけ、堺雅人が結婚しよかという時期です。 日本中が上を下にの大騒ぎの最中で、地方の一地頭の最期などは記録がないのもやむをえません。