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連合艦隊司令長官には近藤信竹中将
山本五十六連合艦隊司令長官が戦死した後を受ける形では、第2艦隊司令長官だった近藤信竹大将ではいけなかったのでしょうか?この方面にお詳しい方、よろしくお願いいたします。
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近藤信竹は山本五十六の戦死後、 次期連合艦隊司令長官の古賀峯一大将が統帥発動までの間、 連合艦隊の次席指揮官として、一時的に指揮を取りました。 この時、近藤信竹はまだ中将です。 この時、上席の現役大将には先任順に、 元帥 伏見宮博恭王 大将 永野修身=軍令部総長 加藤隆義=先任軍事参議官兼高等技術会議議長 長谷川清=台湾総督 及川古志郎=海大校長 塩沢幸一=軍事参議官 吉田善吾=支那方面艦隊司令長官 嶋田繁太郎=海軍大臣 豊田副武=軍事参議官 古賀峯一=横須賀鎮守府司令長官 が居ました。 内、連合艦隊司令長官経験者は、永野修身と吉田善吾です。 戦時下として、軍令部総長の永野修身と、海軍大臣の嶋田繁太郎は動かせられません。 山本五十六の順位は、吉田善吾と嶋田繁太郎との間です。 山本の次期連合艦隊司令長官には、慣例でその下位に居る者 (嶋田繁太郎、豊田副武、古賀峯一)と考えられていました。 通例では連合艦隊司令長官は、1~2年で人事を動かしていました。 山本五十六が2年を迎えたのは、昭和16年夏で、もう開戦準備が進んでおり、 作戦現場の総司令長官は動かせる状態ではありません。 山本五十六は、書類上続投で2回目の連合艦隊司令長官という人事が行われました。 先の通り、戦時下で東条内閣の海軍大臣の嶋田繁太郎は動しにくい。 軍事参議官会議で、豊田副武か古賀峯一のどちらかと考えられました。 豊田副武は、今の陸軍との関係、陸軍姿勢では、引き受けられない。 と固辞し、結局、古賀峯一が選任されました。 過去の平時では、中将連合艦隊司令長官もありました。 確かに、近藤信竹は連合艦隊の次席指揮官で、 太平洋方面状況は、かなり理解度がありましたが、 先任中将とは言え所詮中将で、やはり順当に大将から選任されました。 まもなく大将昇進になった近藤信竹であったが、 この昇進は、山本五十六の戦死によって、 一つ空席になった大将枠の定員を、先任中将で埋めただけのものです。
お礼
ご回答ありがとうございます 近藤信竹は連合艦隊の次席指揮官で、 太平洋方面状況は、かなり理解度がありましたが、 先任中将とは言え所詮中将で、やはり順当に大将から選任されました。 。でも、この後、古賀峰一大将も事故でお亡くなりになります。小沢治三郎中将なども重要ポストをこなし、彼は蚊帳の外に置かれてしまいました。 山本大将の跡がだめなら、古賀大将の跡なども考慮してほしかったです。
補足
彼にはもう少し活躍の場があったと思います。