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柳生但馬守の一族と私の家系について調べてます
- 柳生但馬守の関係とされる母方の家系について調べていますが、名字が「但馬」と関係ありそうにありません。
- 母方の家には戦前に「柳生但馬守の関係」という資料があったが、戦火か火災で焼失してしまいました。
- お墓の情報では、「但馬」という名字になったのは幕末から明治に生きていた夫婦からで、その後の人たちの名前が書かれています。
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明治になって平民苗字必称義務令 が公布された結果、名字だけを頼りに氏族の系統を辿るのは至難の業です。 お墓のある菩提寺に古い過去帳は残っていませんでしょうか。 お墓に始祖と刻まれているようですが、始祖というのがヒントかもしれません。 明治初期の「平民苗字必称義務令 」が公布された際に、面倒なので居住地の村落名や地名を名字として届け出た人が沢山いました。 一方で、武家であっても徳川時代の名字を変更された方が沢山おられます。 つまり但馬という名字を名乗った人が沢山いたことから、当家はそのような有象無象ではなく正当な但馬家であるという意味合いが込められていたことが考えられます。 お墓の文字は、但馬氏の始祖の系統であるところの「夫名」「妻名」と読み取ることもできます。 「柳生但馬守の関係」と言うのがもう一つのポイントかと思います。 但馬守というのはあくまでも「守名乗り」と呼ばれるものです。 氏や系統とは直接関係がありません。 柳生但馬守と関係があるとされるのは、ご先祖の何方かが柳生新陰流の高弟だった可能性があります。 但馬の国は江戸時代には天領だったことから、関係者が江戸に在府していた可能性は多分にあります。 徳川家の武術指南を勤め大名にまで昇格した柳生氏が有名ですが、氏族の系統としては但馬氏の方が古い格式のある氏族です。 参考 但馬君氏と但馬国の有力氏族 www.seijo.ac.jp/education/falit-grad-school/jp-antholopology... ご先祖が新陰流を学んでいたことから、但馬氏よりも有名な柳生氏に因んで、柳生氏云々の話が伝えられたことが考えられます。 柳生に囚われずに素直に但馬氏の系統をお調べになられてはいかがでしょうか。 意外や意外柳生などよりも由緒正しい但馬一族の系統だったということもあり得ます。 現在の豊岡市の図書館や博物館などへ行かれれば、郷土史があるかと思います。 図書館や大学などへ問い合わせれば、郷土史家と呼ばれる人を紹介してもらうことができます。
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- SPS700
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柳生宗矩に但馬守の称号が、与えられたのは下記によりますと、寛永6年(1629年)です。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E7%94%9F%E5%AE%97%E7%9F%A9 柳生宗矩の流れをくむ江戸新陰流は、下記但馬守の項にもあります。 http://homepage3.nifty.com/naitouhougyoku/frame/doku-bukekani-nanori.htm 但馬は、明治の廃藩置県まで続いた今の兵庫県北部の地域です。明治の初めには、それまでなかった新姓が作られました。 「但馬という名字になったのは、幕末~明治に生きていた夫婦からのよう」で、「母方の名字は「但馬」と言い、柳生但馬守と関係なさそうな名字です」なら新姓かもしれません。
お礼
ありがとうございます。墓の件ですが、正確には『但馬家代々祖【夫名と妻名】之奥城(花飾るところに家紋の丸に梅鉢)』でした。 過去帳の件ですが、うちは金光教徒(初期メンバーみたいなもんらしいです。)で、もしかしたら教会?の方に行けば何か分かるかもしれません。(過去帳が墓地にあるのか分からない) 私は大学生で、学校に市史とかはあるので、とりあえず学校の資料などで調べて、豊岡市の方に問い合わせてみようと思います。