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プラトンとアリストテレスの系譜

実在論=イデア論=現在の観念論(ドイツ観念論的)>演繹法 唯名論=形而上学=現在の「実在論」(イギリス経験論的)>帰納法 OK?

みんなの回答

  • koosaka
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回答No.2

補足質問に私なりに回答いたします。 まず輪廻転生思想と最後の審判は、相いれないのではないでしょうか? なぜって輪廻転生というのは、グルグル回ってどこにも行き着かないという思想です。 それに対して、最後の審判というのは、そこで終わるということです。 時間でいえば、輪廻転生とは循環であり、円ですが、最後の審判は直線であり、始めがあって終わりがある、というものです。 キリスト教のその考えが、古代ギリシャの「今は永遠に循環する、永遠の今」という説を否定して、西欧に直線的な時間の観念を導いたとされます。 あなたはゾロアスター教の輪廻転生思想には最後の審判が含まれていて、それはピタゴラス教団の輪廻転生思想と相いれないのではないかと言っていますが、そもそも輪廻転生思想と最後の審判は相いれないのではないでしょうか? 私は最後の審判はユダヤ・キリスト教の神による世界創造という教義・ドグマに基づくもので、ゾロアスター教とは関係ないと思います。 ゾロアスター教には、神による世界創造という教義・ドグマが果たしてあるでしょうか? また、歴史のある時点で世界を創造し、最後の審判に向かって時間が、また歴史が直線的に進行して行く、という思想があるでしょうか? もし、あるとして、それは輪廻転生思想と矛盾しないのでしょうか? あなたはユダヤ教はゾロアスター教から輪廻転生思想と最後の審判という教義・ドグマを導入したというようなことを言っていますが、私の知る限り、そのようなことを言っている人にお目にかかっておりません。 ユダヤの一神教は古代エジプトの新王朝の紀元前12世紀、アクエンアテン・アメンホテップ4世が初めて唱えたもので、それがモーセを通じて、パレスチナの地に伝えられ、ユダヤ教になったと聞いています。 ゾロアスター教の影響というのはあまり聞いたことはありません。 ユダヤ教は紀元前6世紀、ユダヤの人々が「バビロン捕囚」から解放されて以後成立した言われており、ゾロアスター教もユダヤ教の成立と同じ時期に、ペルシャ(今のイラン)で起こったとされ、ゾロアスター教からユダヤ教へ影響を与えるには、あまりにも近すぎるのではないでしょうか?

Psychic_student
質問者

お礼

おかげで古代思想を勉強しつつあります。 ありがとうございました。

Psychic_student
質問者

補足

ご回答ありがとうございます。 >まず輪廻転生思想と最後の審判は、相いれないのではないでしょうか? はい。相容れません。むしろ相容れないのではないでしょうか? と述べています。 その上で、ゾロアスター教は最後の審判説であり、輪廻転生説ではない、と申し上げております。 最後の審判説が輪廻転生説のうえに起こったら、蘇るべき死体がたくさんあって困るじゃないか、と述べています。 ただし、輪廻転生説のうえに最後の審判説がある教説もあります。マニ教の類いです。これは、「肉体として蘇る」のではなく、「魂のまま神と融合」しますので、肉体がたくさんあっても困ることはありません。 『ゾロアスター教の神秘思想』(岡田 明憲著) ・11ページ 「ピタゴラスにはバビロンを訪れて、・・・ゾロアスターからピタゴラスへ伝えられたものだという。・・・むろん、これは伝説に過ぎない・・・証拠もない」 可能性はあると思いますが、輪廻転生説ではありません。最後の審判説です。 同115ページ 「ユダヤ人をバビロン捕囚から解放したのは・・・紀元前538年・・・ゾロアスター教の影響・・・ユダヤ教におけるメシアと終末論・・・ゾロアスター教・・・抜きには考えられない」 同189ページ 「輪廻転生説は・・・『アヴェスタ』には無論のこと・・・見出せない。そればかりか・・・ゾロアスター教の精神に明らかに反する」 ブラバッキー夫人がでっち上げたのかもしれませんよ。 グノーシス主義はウパニシャッド>ピタゴラス>プラトン>新プラトン>色々・・・とすれば輪廻転生説が混ざっていると思います。そこでカルマ、再生、アセンション(つまり終末)の仕組みが出来あがります。 しかし、ゾロアスター>ユダヤ>キリスト>イスラムの流れは最後の審判説であり、しかも現世の肉体で蘇ると言っているので、「現世的アセンション」があるだけです。輪廻転生説は混ざっていません。 あなたとまったく同じことを言っている人がいます。 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11154582081 もしや、同一人物では?

  • koosaka
  • ベストアンサー率43% (78/179)
回答No.1

私の乏しい哲学史の知識からして、確かなことは言えませんが、あなたの質問に対して若干異論を唱えて、回答したいと思います。 プラトンは師のソクラテスが隣国スパルタとの「ペロポネソス戦争」で敗北し、その敗北の原因が教え子のアルキビアデスと、クリティアスが敵に内通したことにあり、その敗北の責任を取らされて裁判にかけられ毒を飲んで死んだのを知って、自分もソクラテスの弟子として捕えられ、裁判にかけられるのではないかと恐れ、当時ギリシャの植民都市シチリアのディオニソス二世を頼って亡命した時、南イタリアのクロトンにあったピタゴラス教団の、数こそが自然の、世界の根源である、という数学思想と、ペルシャ(今のイラン)で紀元前6世紀に起こったゾロアスター教の輪廻転生思想と魂の不死という教義を民間信仰のオルフェイス教の神秘主義と合体したものを知ることにより、「イデア論」を思いついたと言われます。 プラトンは天に「イデア界」があり、そして地には個物・個々のもの・実存がある、と言って「イデア」こそが真の実在であり、個物・個々のもの・実存は真の実在ではなく、仮象であると言いました。 この何か地上を越えた超越者がいて、それから地上の物事を考えるのを古来、「形而上学」と呼びならわしてきました。 この考えをプラトンの「実在論(実念論)・リアリズム」と言っています。 簡単にいうと概念実在論です。 これを批判したのがアリストテレスで、たとえば「ソクラテスは人間である」という命題があったとしたら、主語・ソクラテスは個物であり、実体であるが、述語・人間である、はその主語ソクラテスの述語であって概念であるが、述語は主語があってのものであり、主語から切り離して単独に存在するものではない、ところがプラトンは述語を切り離しただけでなく、それを実体化して、「イデア」といい、その「イデア」から個物であるソクラテスが生じるようなことを言ったが、それは本末転倒なのではないか、真の実在と言ったら個物の方にある、と言って批判しました。 このアリストテレスの考えを「唯名論・ノミナリズム」と言いっています。 「唯名」とは、「イデア」などは、ただの抽象にすぎないという意味です。 そこであなたの質問、あなたはアリストテレスの「唯名論」と「形而上学」をイコールで結んでいますが、アリストテレスに「形而上学」というタイトルの著作があるところから連想したのかもしれませんが、アリストテレスが言ったものではなく、それはアリストテレスの遺稿を後から編纂するときに後世の人が付けたタイトルで、アリストテレス本人は「第一哲学」と言っていました。 「第一哲学」とは、「存在論」であって、「形而上学」ではありません。 彼は言っています、「存在するものをそれが存在するかぎりで、その全体を論じるものが存在論である」と。 どういうことかというと、学問は個別的対象を、あるいは個別的領域を論じるものですが、物事の全体を論じるもの、一般的に論じるものが「存在論」だということです。 それに対して「形而上学」はプラトンのいう、この世界を越えた超越者から、この地上の物事を論じるものであり、それが「イデア論」ですから、「形而上学」はアリストテレスでなく、むしろプラトンの唱えたものというべきです。 そして現在の私たちはプラトンの「イデア」を「観念」と訳していますが、「観念」というのは、ロック・ヒュームの「観念」を指して言ったもので、彼らに言わせれば、「観念」とは外的対象があり、その「印象」「写し」であり、その単純観念を組み合わせて複合観念を作り、そうして認識が出来上がると考えましたが、だから、私たちが何か食べるのも「観念」であり、旅行に行くのも「観念」であり、女の子とセックスするのも「観念」であり、この世の中に「観念」でないものはありませんから、「観念」とはほとんど実在と同じです。 したがって、ロック・ヒュームの「観念」とプラトンの「イデア」はまったく別のものです。 つながりません。 さらに、すでに述べましたように、プラトンは「イデア論」をピタゴラス教団の数学思想と魂の不死という教義にヒントを得て思いついたのですから、それは帰納法によって得られたものではありません。 その「イデア」から、演繹的に個物・個々のもの・実存が導き出せると言ったわけでもありません。 だから、プラトンの「イデア論」を演繹法に結びつけることはできません。 それはアリストテレスにも言えます。 アリストテレスはプラトンを批判して、個物の方が真の実在と言いましたが、それはあくまで主語・述語論理学から述べたもので、帰納法によって批判したものでもないのと同じです。 そもそも演繹法とか帰納法というのは、理性的なものと感性的なものがあって、理性的なものから感性的なものを推論することが演繹とすれば、逆に、感性的なものから理性的なものに推論することが帰納と言われるものですが、古代・中世を通じて、理性という言葉と理性的なものはありましたが、感性とか感性的なものという考えがありませんでした。 哲学史上、感性的なものが重視され、それを中心に物事を考えようとしたのは、16世紀のフランシス・ベーコンの実験科学の提唱からです。 そのベーコンが発案したのが帰納法です。 演繹法を発案したのが誰だか、ちょっと私は知りませんが、たぶん同じ時期ではないかと思います。 プラトンの「イデア論」がピタゴラス教団の数学思想によるものだと前述しましたが、そのプラトンの数学思想が、ルネサンスのイタリアのフィッチーノの「プラトン学園」に伝えられ、後に数学者ガリレオによって数学的自然科学が創始されましたが、その頃ではないかと考えています。 そうしたことを考えますと、演繹法も帰納法も、まっすぐプラトンやアリストテレスに結びつけるのは、どうかと思います。 ちょっと気が付いたことがありましたので参考までに申し上げました。 間違っているかもしれませんが、あしからず。

Psychic_student
質問者

お礼

実在論=イデア論(形而上学) 唯名論=第一哲学=存在論 演繹法、帰納法と結び付けるのは間違い。 ありがとうございました。

Psychic_student
質問者

補足

ご回答ありがとうございます。くわしく分かりやすいご説明で助かります。私は哲学史初心者と言ってもよく、いくつか疑問があるので、出来ましたらご対応願います。 オルフェウス=ピタゴラス教の輪廻転生説は、ウパニシャッド哲学の輪廻転生説とは酷似していますが、ゾロアスター教とは相容れないような気がします。というのも、ゾロアスター教は最後の審判説のはずだからです。死者が最後の審判で蘇るのであれば、死者の魂は常に死体と結び付いていなければなりません。もし、輪廻転生説だったら、蘇るべき肉体が複数あり、どれに生まれ変わるのか分からないということになります。だとするなら、ゾロアスター教は輪廻転生説ではないと考えるのが妥当ではないでしょうか。ユダヤ教が最後の審判説を採用しているのは、バビロン捕囚の際にゾロアスター教を取り込んだからです。 そこで、ピタゴラスがゾロアスター教から輪廻転生説を取り込んだという説に疑問符がつきます。では、一体ピタゴラスはどこから輪廻転生説を取り込んだのか?それはやはりウパニシャッド哲学からではないのか?という気がします。 観念=感覚から受け取られる意識の体系 概念=イデア カント アプリオリ=演繹法=推論から真理を導く アポステリオリ=帰納法=実験を重ねて真理を洗い出す ロック・ヒュームはイギリス経験論ではなかったでしょうか。 「感覚を重視する」>「観念論」 ではドイツ観念論とはなんでしょうか?

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