• 締切済み

広く世界を見つつの哲学を

 1. 日本という社会を基礎として誰もが自由に日本語で語り合う場を《井戸端会議》と言うとすれば――まづは これを目指しているのですが―― でもそこから 日本の歴史と文化に根差した《土俵》という場を持つだけではなく よその人びとの場である《リングやスタヂアム》をも われわれ自分たちの場とせねばならないのではないか?    2. 日本人の哲学の徒は 生活日本語をもちいてそれを基礎としてほかの国のリングにも上らねばなるまい。そのとき アヱーであってはならない。  3. これが 問いです。  4. さらにここで説明をおぎないますが 問うべきことは 《土俵としての井戸端会議だけに終わるようなウンドウ――《土俵》だけに終わってよいとするウンドウ――は 麦のあいだに生えてくる毒麦ではないか?》 これです。哲学カテは 《仲良しクラブ》であればよいといった風潮をつくりあげるウゴキ これについて疑問を挟み その是非を問います。  5. 言いかえると 真面目に哲学をまなび問い求めるのは ワールドカップのピッチに立つためである。また すでに立っているということでなくてはならない。もし 仲間内のあいだにちぢこまるようなウゴキがあるとすれば これは もってのほかではないか?  6. われわれは 世界の味を自由に受け容れしかもこれらを日本の味にして来ている。けれども 哲学・思想そして宗教については 勉強はするものの・いえいえ きわめて精力的に余すところなくというほど研究を伸ばして来てはいるものの 世界の料理を取り扱っているほどには 消化して来ていない。のではないか。訳語ひとつを取っても おぼつかない状態にさえある。  7. 聖書やその神ひとつを取っても 成っていない。ではないか?  ここでは それでもよいという風潮を取り上げ これを批判し切っておきたいというねらいです。

みんなの回答

  • ks5518
  • ベストアンサー率27% (469/1677)
回答No.1

今回の質問において、先ず『哲学・思想そして宗教』をごちゃ混ぜに考える方が良いのか、それとも個別に検討する方が良いのか、、、と考える次第です。 というのも、、、哲学などでは世界には様々な学会が在り議論されています。また、各国の大学などでも講義や議論があると思います。さらに、それらの人々のバックボーンとして宗教・思想が存在し考え方やとらえ方に多少なり影響を及ぼしているのではないかと思います。 次に宗教に関してですが、これは根本教義は同じ形態を取ると思います。言葉が違ったとしても儀式、形式などは同一のものと考えます。例えば、国により本尊もしくは崇拝する対象物が変わることはありません。これが変わってしまえば、別の宗教・宗派になってしまうからです。 さらに肝心の訳しがたい言葉については、そのままの言語を使用しているでしょう。宗教教義上の肝心なる言葉は、無理にその国に対応した言葉に変えなくても良いのです。その説明の中で効果などについては、もちろん分かりやすいようにその国の言葉として説明いたしますが。 ですから、今回の質問においては、質問者様が言いたいことは分かるのですが、もう既に国際的に様々な取り組みがなされ、現在進行しているものを把握したうえでないと、回答は出せないと思います。また、先にも述べましたが、『哲学・思想そして宗教』が全て別組織として機能している以上、分けて考える必要性が生じると思います。 ※今回の回答としては、当会(創価学会)の世界的布教状況も一つのベースとして回答をいたしました。現在、192ヶ国地域に会員を見ますが、例えば、御本尊、題目、唱題、折伏など多くのオリジナル(日本語)の言葉を使用しています。南アメリカでもアフリカでもです。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。まづは ご回答をありがとうございます。  この質問は どうもあまりにも一般的なものごとだけを取り上げて議論を始めて欲しいというような・あやふやな内容であったかも知れません。  やり取りの中で具体的な事柄に触れることは出来ると言えば出来るわけですから そのぶんでは 救われるかも知れないとも思ってはいます。  たとえばですね。《土俵もリングもスタヂアム》もみんな普遍的なかたち(および内容)とするというのは 次のような見方のことです。たたき台としてかかげます。  ○ (神とわれなる関係としての信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えられる) ~~~   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このような交通整理が 哲学の仕事のひとつです。  思想は それぞれの信仰をみなもととして 思考の緑野での理論や議論をおこなうものです。基礎として哲学の地道な作業に支えられているはずです。  宗教は これらの信仰から派生したオシへです。オシへを具体的に社会のことがらに応用した場合が ひとつに思想です。  そして オシへを信じよというのは ナンセンスです。それは考えるものだからです。  こういった問い求めが 《広く世界を見つつの哲学を》になるのではないかと考えていますが どうでしょうか。

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