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墨田区の気候、雨水利用、歴史、文化、地形街並みと

墨田区の 地形、気候、街並みの特徴とは? 墨田区と三郷市とは下町なのか、 それとも田舎なのか? 地図で見ると三郷市に近いから 埼玉とも捉えることが出来るの様な 気がするのは 気の 所為なのか? 江戸っ子とは どの地域に 住む日本人を指した言葉なのか? 江戸っ子は、 なぜ 宵越しのお金を持たないのか、 お金を持つと、 精神が退廃 腐るからなのか? それとも お金がなくても 自分の技術に 磨き抜いた腕に確信的な信頼を 寄せているから お金を吐き捨る様にすぐに消費したのだろうか? 江戸時代は 江戸っ子の消費力によって 経済が好調だったのだろうか? なぜ 江戸時代の墨田区に周辺には 貨幣小判造幣所がたくさんあったのか? 土地が沢山あったのが所以か? 江戸時代の貨幣、小判の特徴とは? 梅乃説 幕府放火説、 阿部忠秋説と諸説囁かれる 振り袖大火で、 (回向院(えこういん)、 振り袖大火の 犠牲者供養で有名な浄土宗の寺院) 江戸の大半が焼けたのが切っ掛けで、 江戸の乱雑、無秩序な街並みが ナポレオン3世構想、 ジョルジュ オスマニウム計画の 1875年の パリ区画整理の様な 幕府主導の復興事業として 都市計画を進め、 そのおかげで 綺麗に秩序立てられた街並みに 墨田区周辺はなったのだろうか? 墨田区の区画整理の 欠点は何なのだろうか? (パリ改造 (オスマニザシオン)の欠点は、 衛生的に綺麗な街並みには 変貌させられたが パリの 古くからのコミニティーを崩壊し 画一化された街並みでは 防御の面では軟弱であり、 それが所以で普仏戦争で フランスは敗北してしまい、 ドイツ帝国の再興に 派生 繋がってしまったが) 慶安の変 (由比正雪の乱、由井正雪の乱) 承応の変、 大塩平八郎の乱と 末期養子 江戸時代の暦、 貨幣小判制度、 江戸幕府の体制と 以前の室町、鎌倉幕府体制の違いについて教えて頂ければ幸いです! 墨田区は 世界のなかで、 ドイツに次いで雨水利用の 先進(区)なのは、 本当なのか? なぜ、 墨田区では、 雨水利用が盛んな のか? 気候、、行政体質、ngo、 区民の意識が違うのだろうか? 雨水とは、 歴史カテゴリーの人間に とっては、 どの様な存在なのか? 雨水とは、天然の蒸留水なのか? 雑用水としての雨水の価値はあるのか? 歴史カテゴリー皆さんの ご回答のほど、 お待ちしております!

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みんなの回答

noname#224207
noname#224207
回答No.1

>墨田区と三郷市とは下町なのか、それとも田舎なのか? 相当に乱暴なご質問です。 墨田区は24万人を超える人口を擁する区です。 佐賀市、寝屋川市を越えます。 三郷市は13万を越える人が暮らしています。 田舎とは何をもって田舎とされますでしょうか。 下町という言葉も江戸時代以前の軍事用語から来ている言葉です。 どのようなイメージでお使いでしょうか。 >地図で見ると三郷市に近いから埼玉とも捉えることが出来るの様な気がするのは 気の 所為なのか? どちらにお住いでしょうか。 墨田区と三郷市との間に葛飾区があります。 葛飾区は人口44万人を超える区です。 富山市、高松市、岐阜市を越える人口を擁しています。 墨田区と葛飾区の間には荒川が流れています。 三郷市に近いという感覚がよく理解できません。 >江戸っ子とは どの地域に 住む日本人を指した言葉なのか? 江戸市中に住む町人を主体とした人々を指しました。 明和年間(1764年~1771年)頃に生まれた言葉です。 赤穂浪士で有名な元禄時代にはありませんでした。 江戸の範囲は朱引と呼ばれる線で囲まれた地域でした。 現在の墨田区の南部が含まれています。 とは言え日本橋界隈の住人は本郷もかねやすまでは江戸の内とかなんとか言っていました。 位置的には、現在の東京大学の先です。 現在もかねやすビルというのが建っています。 現在の渋谷、新宿、池袋などは郊外でした。 この江戸の範囲内の約六割が武家地、約一割が寺社地で、人口の半分約50万人の町人は残りの約三割の地域に住んでいました。 現在江戸っ子という言葉が使われる場合には東京っ子とは区別して使われています。 今や絶滅危惧種です。 >江戸っ子は、なぜ 宵越しのお金を持たないのか。 持たない訳ではありません。 江戸っ子は宵越しの金をもたね~というのは心意気の啖呵です。 金に執着しないという意味です。 江戸っ子の生まれそこない銭をため、という川柳も残されています。 一つには江戸は火災が多く当時は破壊消防でしたので一瞬にして壊されて燃えてしまいます。 この住宅も借家が主体でした。 自分の財産は家財道具ですが、これも執着して蓄えても何時燃えてしまうのか分かりません。 一大消費地ですので、蓄えがなくてもその日暮らしが可能でした。 吐き捨てるほどの収入はありませんでした。 三井越後屋のような表通りに面した大店は火災に強い土蔵を持っていました。 このような土蔵が持てるほどの町人であれば当然金は蓄えていました。 >江戸時代の墨田区に周辺には貨幣小判造幣所がたくさんあったのか? ???? 一文銭などの銭を作っていた銭座のことでしょうか。 銭は必要に応じて目標額を決めて町人に請け負わせていました。 亀戸に記念碑が残っていますね。江東区ですね。 これも期間が限られています。 金座つまり小判の鋳造所は現在の日銀の辺りです。 銀貨を鋳造していた場所は転々と移転しています。 現在の繁華街の銀座はその名残りです。 >綺麗に秩序立てられた街並みに墨田区周辺はなったのだろうか? 江戸は振袖火事のみならず度々大火に見舞われています。 延焼防止に主要道路の道幅は極めて広くとられていました。 現在の銀座通りは、片側二車線往復四車線で両サイド歩道つきですが、この巾が主要道路の一例です。 墨田区の一帯が縦横に比較的整理されていますのは、江戸の街の拡大にともない下級幕臣の居住地として計画的に区割りした名残りです。 >江戸幕府の体制と以前の室町、鎌倉幕府体制の違いについて教えて頂ければ幸いです! 紙面が足りませんので別にスレをたててご質問願います。 >ドイツに次いで雨水利用の先進(区)なのは、 本当なのか? 自称そういっています。 むしろ他の地区の雨水利用が遅れているとお考えになられたほうがよろしいでしょう。 江戸の街は元々水の確保に苦労した街です。 遠く玉川から人工的に水を引いてきていました。 その水路が神田川を越える橋を水道橋と呼んで現在も駅名などに残っています。 江戸っ子の啖呵ににも水道の水で産湯を使い、というのがあります。 江戸の市街地はそのほぼすべてが埋め立て地です。 高台は武家屋敷が占めていました。 このために井戸を掘っても海水が混ざり飲用になりません。 水道網が極めて発達していたのが江戸の街の特徴です。 この水道が行き渡らない地域では水売りという商いがありました。 江戸城のお堀は元々平川と呼ばれる川の下流部分でした。 現在は水流が途絶えていますが江戸時代はお城のお堀は重要な水源でした。 現在霞が関ビルのある辺りは溜池と呼ばれる巨大なダム湖でした。 新橋周辺の旧名を汐留というのも海水の逆流を防ぐ関があったことに由来します。 雨水を個別に溜めるよりは、水道や水売りに頼って暮らしていました。 尚現在の東京から江戸の街を推定するのは至難の業です。 明治維新による武家地の市街地化、その後で関東大震災、東京空襲と二度灰塵にきしています。 浅草の浅草寺も再建されたものです。 更に前の東京オリンピックの際に掘割が埋め立てられ現在の首都高となっています。 日本橋の上に高速道路があるのはこのためです。

hayyuji9401010
質問者

お礼

ご回答のほど、 ありがとうございます。

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