• ベストアンサー

江戸時代の現金輸送。

金座・銀座・銭座などで作られた大量の貨幣はどのようにして、幕府つまり江戸に運んだのですか。 寛永通寳は、各地で作られていますが、西日本で作った貨幣も一旦江戸に運んだのですか。 また、「お金道中」というのは、このお金を運ぶ幕府役人とその一行のことですか。 よろしくお願いします。

  • 歴史
  • 回答数5
  • ありがとう数14

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • dayone
  • ベストアンサー率79% (360/452)
回答No.5

再度、失礼致しますm(_"_)m 私、前投稿では「銀貨となりますと疑問も残ります。」とカキコミましたこともあり、 銀貨輸送につきアプローチを試みましたところ、 改鋳引替以外で江戸─京・大坂間以外の江戸前期の事例ではありますが、 「明暦の大火(明暦三<1657>年一月十八・十九日)」関連で下記に出会しました。 〇『静岡市史編纂資料.第3卷/静岡市市史編纂課編/静岡市/昭和3.1』 「第六章 德川家綱」 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1176940/70 <70・71/358>(106~108頁) 覺 當地之御金者燒候間、急速ニ御金請取度面々於(=)大坂(-)相渡スベク候、 但大坂ニハ黄金不足ニ候間、銀子ヲ以テ相渡スベク候千石己下ハ於(=)駿府(-) 銀子有次第スベク候、勿論遲候共苦シカラズ候面々ハ於(=)爰元(-)渡スベク候者也。  二月十九日以(=)宿繼(-)被(=)仰下(-)候趣 今度御旗本ニ下サレ候銀子一萬貫目、江戸ヘ取寄セラレ候間、 一度ニ三十貫目、日數五日間ニ置候、宰領ハ其御書院番ノ内貳人宛申渡サレ、 駄賃ニテ十度程ニ差越サルベク候、宰領二人ニテ一人ニ二疋分駄賃相渡サルベク候、 右一萬貫目銀子到着次第、度々江戸御金奉行ヨリ手形遣スベク候間、 彼手形ヲ以テ重テ勘定立ラルベク候、於(=)駿府(-)下サレ候分ハ、 其時之裏判之手形遣スベク候旨仰下サレ候。     駿府より江戸へ御銀差下候日限並馬數 一、三月十九日 四拾八駄 但一箱ニ付十貫目入一駄ニ三箱付 (以下省略) 一、同 廿四日 同斷 (以下省略) 一、同 廿九日 同斷 (以下省略) 一、四月 四日 同斷 (以下省略) 一、同  九日 同斷 (以下省略) 一、同 十四日 同斷 (以下省略) 一、同 十九日 同斷 内一駄四箱付箱有(L)之 (以下省略)     以上    銀奉行ニ參候衆晝休泊覺   晝休 由比。 泊 吉原。 晝休 三島。 泊 箱根。   同  大磯。 同 藤澤。 同 神奈川。 同 品川。 …(中省)…【駿城護衞系譜】  かくして壹萬貫の丁銀は江戸に取寄せられた。宰領十四人、駄馬三百三拾六頭、 箱根の險を越ゆることゝて、輸送の困難であつた事は察せられる。 どうやら銀貨でも「馬」を酷使^^していた様子が伺えます。 以上 少しでも疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^

kouki-koureisya
質問者

お礼

ウワッ!!これは素晴らしい! よくぞこのような資料を見つけられましたね。 改鋳時には金貨・銀貨を輸送したはずだ、明暦の大火では御金蔵の金貨・銀貨も焼けたはずという推測の下で、資料に当たられたのですか!! それにしてもいつものことですが、ずばりのご回答にまさに驚きです。 >かくして壹萬貫の丁銀は江戸に取寄せられた。 >宰領十四人、駄馬三百三拾六頭、箱根の險を越ゆることゝて、輸送の困難であつた事は察せられる。 馬1頭に30貫、実感が湧いてきます。 再度の親切なご回答、真にありがとうございました。

その他の回答 (4)

  • dayone
  • ベストアンサー率79% (360/452)
回答No.4

あまり情報が無く一つの事例に過ぎませんが、下記の改鋳貨幣の引替に際しましては、 京・江戸間の旧貨・新貨の輸送には「伝馬」の利用が伺えます。 また、金貨・銀貨等の新・旧引替に関しましては、 基本的には江戸・京・大坂の三都限定のようですから、 公用の大量輸送を要する場合でも原則的には江戸─京・大坂間のみとは言えそうです。 (ただ、江戸・京・大坂以外の天領・藩領等の個々の旧貨・新貨の輸送については、 単に為替両替屋等の取扱いか、代官・郡代や各藩も関与したかはよくわかりません。) なお、『近世交通史料集/児玉幸多編/吉川弘文館』によれば、 「壱駄あたりの荷物重量は、無賃の伝馬は慶長6年正月から30貫、慶長7年6月以後32貫、 元和2年11月以後40貫」だそうですから、 千両箱を含め金貨であれば馬一頭当たり六千両程度、 十頭で六万両程度と十分対応可能(襲撃のリスクはあったのでしょうが)と思われますが、 銀貨となりますと疑問も残ります。 次に、銭座に関しましては、 「其國は勿論他國へも御定之ごとく金壹兩に四貫文、 壹分に壹貫文づゝ拂(L)之様に可(=)申付(-)候」などとありますから、 各々の銭座で対応していた様子も伺えます。 あと、残念ながら「お金道中」は何を指すのか全く分かりません(><) 〇『東京市史.外編 第5/東京市編/東京市/昭和6.3』 「第十二章 新舊貨幣引替事務」 <116~119/199>(187~192頁) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1225142/116 金座の新舊貨幣引替事務は、元祿の改鑄以來生じた重要事務で、 江戸及び京都の金座に於て引替に從事した。 尤も此の以前にも、切れ金即ち損傷貨幣及び、輕目金即ち量目不足となった 貨幣の引替は行つてゐたのであるが、改鑄に際しては、悉く舊貨を引上げて、 之を改定の品位量目を以て、吹直すの必要から重要の事務となつたのである。 引替には、新舊貨幣の交換割合を定めて、一定の歩打を附し、交換に一定期限を設け、 此期間經過後は舊貨は單に潰し金として、目方を以て買入るゝ事とし、 改鑄の目的を貫徹するために、引替の完了に百方努力したのであるが、 元祿以降幕末に至る十餘回の改鑄は正徳、享保の復古的改鑄の如き一二の場合を除く外は、 殆どみな良貨を惡鑄して、その差益を幕府に収めて、財政の缺乏を補ふを以て目的としたので、 新貨即ち惡貨は、舊貨即ち良貨を驅逐するの現象を呈し、屢々引替を困難ならしめたので、 幕府は或は引替期間を延長し、或は交換割合を改めて打歩を增加し、 或は遠近に應じ引替の手當又は運賃を與へて引替を促し、 又は引替を怠る者を嚴科に處するの令を出す等、手段百端、苦心努力したのであつた。 而して直接この引替の事務に從つたのが金座であつた。 次ぎに掲ぐるのは、元文年中の改鑄に際し記された金座の文書で、 當時の引替事務を窺ふことが出來る。 引替金之儀、江戸・京共に來未正月(元文四年)より午前直引替被(=)仰付(-)、 京都引替金之徃來は御傳馬を以て致(=)上下(-)候様被(=)仰渡(-)候に付、右仕方左に申上候。 …(中略)… 一、京都引替之儀、一ヶ月古金三四萬兩程宛引替候得共、   代り文字金五六萬兩程之引替高罷成候間、右之通引替可(L)然奉(L)存候、   唯今迄引替所へ御渡被(L)成候文字金四萬兩私方へ御渡被(L)下、   引替元手金に仕度奉(L)存候、右古金江戸着之節者、翌日の御出役御方御見分にて封印切、   輕目改、古金請取、文字金差登候様可(L)仕候、京都引替文字金徃來一ヶ月兩度に上下仕、   引替候様に可(L)仕候。 一、御傳馬之儀、御用中御證文一通にて御金竝宰領共に上下仕候様に奉(L)願候、   尤も其度々馬數書付御届可(=)申上(-)候、勿論道中徃來之儀、   御證文寫私印形之先觸相添差出候様可(L)仕候 以上                      後 藤 庄三郎 「朱書」書面之通可(=)相心得(-)候 以上  …(中略)… 依つて以て、引替の模様を窺ひ得るであらう。 前掲文書中、引替所とあるは、元文の改鑄に際し舊貨取集めを爲替兩替屋十名、 …(中略)…へ命じ、是等の爲替兩替屋から金座へ取集金の引替を請はしめ、 彼等には引替費用として金一兩に付銀一分づゝ、又銀の場合には百目につき一分五厘づつを 持主から請取らしめた。これを引替所と稱し、一定期限後は、此引替所を徹して、 金座直接の引替となつたのである、右は元文以來の制度で其以前は兩替屋を通じ、 或は直接金座について引替を行はしめたのである。 〇『日本財政経済史料.第2/大蔵省編/財政経済学会/1924-1925』 「經濟之部一 第一、貨幣 一、鑄造發行の沿革」 <314/732>(560頁) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1902248/314 ◇寛永十四年丁丑八月 錢鑄所  水戸、仙臺、吉田、松本、高田、長門、備前、豐後中川内膳領内 一只今迄被(=)仰付(-)候分にては諸方弘かね候間、代物澤山鑄させ、其國は勿論他國へも  御定之ごとく金壹兩に四貫文、壹分に壹貫文づゝ拂(L)之様に可(=)申付(-)候 …(中略)…【憲教類典二】 <319・320/732>(571・572頁) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1902248/320 ◇元祿十一年戊寅二月 口上之覺 一遠國之古金銀を新金銀に引替之爲他國へ出し候儀、…(中略)… 一渡海有(L)之國々若破船等之ためも候間、金銀少づゝ段々引替申様に可(L)然候 一江戸近國は江戸にて引替京大阪近國は大阪にても引替候間、引替請負候町々様子聞合 埒明候様に可(L)然候、依(L)之引替所各別紙に書付申候 (別紙闕) 以上 寅二月 荻原近江守 【舊政府御達留一】 以上 少しでも疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^ ほか関連URL 〇日本銀行金融研究所>金融研究> 『金融研究 第18巻第4号(1999年9月発行)』 ・「江戸時代における改鋳の歴史とその評価/大塚英樹」 http://www.imes.boj.or.jp/research/abstracts/japanese/kk18-4-2.html ・「江戸時代の貨幣鋳造機関(金座、銀座、銭座)の組織と役割─金座を中心として/大貫摩里」 http://www.imes.boj.or.jp/research/abstracts/japanese/kk18-4-1.html

kouki-koureisya
質問者

お礼

丁寧なご回答、真にありがとうございます。 小判の輸送については、おおよその様子が分かりました。 改鋳時、新旧貨幣の引替えの際、馬で運んだという記録があるのですね。 輸送手段としては、「馬」か「船」しかないと思っていましたから、馬の事例があると分かって一安心です。 船の場合「一渡海有(L)之國々若破船等之ためも候間、金銀少づゝ段々引替申様に可(L)然候」というきめ細かい指示には実感が出ています。 問題は、銭貨(寛永通宝)の輸送ですね。 ものすごい嵩になりますから。 錢鑄所(水戸、仙臺、吉田、松本、高田、長門、備前、豐後中川内膳領内など)へ民間業者が「買い付け」に行ったのか、どうしたのでしょうか。 いつか、何かの機会にひょこっと見つかるかも知れませんので、今回はこれで締め切りたいと思います。 「茶壷道中」はよく出てきますが「お金道中」は出てきません。 こんな用語はないのかも知れませんが、下記URL(個人のサイト)によれば『史話 日本の歴史17』大石慎三郎「参勤交代は日本経済を活性化させた」には出ているそうです。 http://www.h6.dion.ne.jp/~tanaka42/zeitaku-2.html  『日本財政経済史料.第2/大蔵省編/財政経済学会/1924-1925』は、大変参考になりました。 読みたい箇所がいっぱいあります。 いつも綿密に調べて下さって真にありがとうございました。

noname#196837
noname#196837
回答No.3

お礼ありがとうございます。 >大量の新造貨幣の場合はどうでしょうか。 金飛脚は、商取引が主でしょうからね。 他のかたからの回答をご期待下さい。 お役に立てず申し訳ないです。

  • mm058114
  • ベストアンサー率30% (102/337)
回答No.2

御用金の荷車一行じゃなにですか?! 時代劇で見た気がします。 ドラマかもしれないけど・・・

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 そうですね。府内で作った貨幣は荷車で運んだと思います。

noname#196837
noname#196837
回答No.1

金飛脚(かねびきゃく)という職に従事する人たちが、配送していたのだと思います。 また、後に公金為替という制度がつくられたため、両替商により現金を為替にかえ、輸送がスムーズになったと言われています。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 大量の新造貨幣の場合はどうでしょうか。

関連するQ&A

  • 江戸時代の経済は活発だったのか?

    江戸時代の経済は活発だったのか? 江戸時代の経済は活発だったのでしょうか? 私の江戸時代のイメージは生活は質素倹約、物は何回でも再利用する、年貢は米だし、武士の給料も凄く少なかったと聞きますし、技術の新しい開発も確か幕府によって規制されていました。 質素倹約ならば安いものしか売れずにデフレになるはずだし、もったいない精神があれば全然物は売れないし、新技術の開発が規制されていたのならば一体何が売れていたのでしょうか?そこがわかりません あと、江戸時代の人間にとってお金ってどのような存在だったのでしょうか? 現代日本人みたいに拝金主義だったのでしょうか? それとも食べ物の次みたいに別に重要視されていなかったのでしょうか? よろしくお願いします。

  • 江戸時代の文明レベルで南極海での捕鯨は本当に可能か

    江戸時代は鎖国で幕府が、各藩が大きな船を持つことを禁止していたと聞いたことがあります。 もし、大型船製造禁止条例が江戸時代になかったら、あの当時の技術力で日本から何キロぐらい離れた場所まで行って帰ってこれてたんでしょうか。 また、現実の当時は幕府は大型船を使ったほかの国との行き来をほかの国のサービスをお金を払って利用していたのですか。 江戸時代、日本から遠く離れた海域での伝統捕鯨は具体的にどのように行われていたのか、詳しい方がいたらお願いします。

  • 江戸時代、どうして銀も、悪用され易いか…?

    再放送だが、テレビの時代劇、「暴れん坊将軍」や、「桃太郎侍」に、「長七郎天下ご免」で、それぞれ何回か見てるシーンに、なります。 これらの時代劇では、「小判に、加工し易い金で、一番新潟県の佐渡金山か、山梨県の甲府の金山、正確には甲府の隠し金山を、佐渡奉行か甲府勤番等、江戸幕府側で、管理を担当する役職に就いてる、悪のボスが、現金として使える様にする、商人である準ボス等と、 手を組んで悪用する悪の一味が登場するが、結局お決まり的に、クライマックスとして、正義の味方に乗り込まれて、最後は成敗される…」シーンが、入った回 を、私は良く見ます。 しかし逆に、「島根県にある、石見銀山を悪用して、例えば、江戸幕府で銀山の管理を担当する、役職に就いてる悪のボスが、その江戸幕府に対して、「銀が、掘り出せなくなったので、廃鉱にする」旨、届け出るが、その裏では準ボス等、手下達と手を組んで、廃鉱にした弾みの銀山から、掘り出した銀を、抜け荷(密貿易)で仕入れた、物品の代金代わりとして、南蛮等の外国に対して、支払う。 仕入れた物品は、基本的には商人である準ボスが、裏ルートで売って、その利益は、ボスが幕府内での出世の為のワイロとして、ボスに納めるのが結構あるが、珊瑚等の宝飾品等、物品によっては、「江戸城中にある、大奥で、何かの役職に就いてる知合いへ、貢ぎ物として、準ボスがボス経由か直接、プレゼントする事で、ボスの幕府内での出世の為のワイロか、江戸幕府か大奥で、何かの物品の販売の委託先になる事で、利権を得る為にする、直接のワイロ」として、悪用する。 これにより、銀も悪用してる…」シーンが、入った回も、結構良く見ます。 実際、長七郎天下ご免と、暴れん坊将軍シリーズについては、お決まりのクライマックスシーンの後で、時々流れるナレーションで、「(江戸)幕府は、後に銀を、日本国外に持ち出すのを、禁止する御定法(法律)を、制定した…」的な内容で、視聴者に対して説明した回も、それぞれ何回かは、見た記憶あります。 言う前も無いが、「見たのが、連続テレビドラマとしての時代劇番組なので、ほぼと言って良いが、架空な話である」と、思います。 そこで、質問したいのは、 「江戸時代、金だけで無く、銀も悪用する人間が居たのは、主にどう言う理由からなのか? 又、江戸幕府が管理する銀山は、一番には先に出した通り、現在の島根県の石見銀山と言うのは、良く聞くが、どうして石見銀山が、代表的な銀山だったのか…?」に、なります。

  • 江戸時代、なぜ大坂は銀本位制だった?

     つい先ほどまでは何も考えずに江戸時代、江戸の経済は金本位制 大坂の経済は銀本位制と頭に入れていました。  でも疑問が湧きました。  当時、大坂は日本一の経済都市です。世界に先駆けて信用取引や 先物取引を始めた所。とすると江戸よりも商取引の規模も大きく自然、 銀よりも価値の高い金を貨幣の中心にしようと動きがなかったのでしょう? 先ほどテレビ番組の「銀二貫」で主人公たちが二貫の銀を重そうに持って いる。もし金貨(大判・小判)なら少ない量で同じ価値を表したはずですよね (すみません計算が苦手で)。  経済規模が大きくなるほど価値の高い金属を貨幣としついに 金属を離れた信用で紙幣が、さらにPCなどの電子信号で取引 されるのが流れのはず。  と書きながらふと仮説が浮かびました。  江戸は将軍と大名中心の都市、ですからお金のやりとりは 今で言う政府の公的な財源なので動く高も大きくまた立派な 金貨(大判・小判)を必要とした。もちろん庶民にとっては滅多に 拝めないお金に違いないけれど。対して大坂は公的な存在はほぼ 皆無でお金のやりとりは日常の商取引でお金のやりとりは銀貨の 方が使いやすかった。のではないか?  長くなってすみません。この件についてどなたかご教示くだされば 感謝です。もちろん僕のような勝手な私見をのべていただくのも 大歓迎です。宜しくお願いします。

  • アバディと安倍は江戸時代の発想

    AFP通信が報じた。過激派組織「イスラム国」(IS)が犯行声明を出しており、アバディ首相は「テロリストに報復する」と宣言した。 ご存知の通り、日本の江戸時代、親の仇を討つのが子のツトメで、その結果親の仇討ち合戦が際限なく続き、幕府は仇討ち禁止令を出し、漸くおさまりました。狭い日本での経験ですが、現代のバカなリーダーたちは、このくらいのことが分からないのでしょうか? ご存知の通り、安倍は有志連合に参加してイスラム国を攻撃しているせいで、後藤さん、湯川さんが殺された。今回また有志連合の人間を殺すと宣言したイスラム国シンパがその通り実行し、日本人7人も犠牲になった。 江戸時代の発想しか出来ない現代の指導者に、小学生でも分かる「報復思想」の間違いを分からせるにはどうしたらいいのでしょうか?

  • 正しい原因はどちらですか? 日本史 江戸時代

    江戸時代 開国の影響の1つに物価上昇がありますが、 一方の参考書では 品不足のため、 もう一方の参考書では 外国と日本の金銀の交換比率の違いにより大量の金が流出したため、 と説明していました。 正しいのはどちらなのか気になるのでご存知の方は回答していただけると幸いです。

  • 時代区分での平安時代

    日本建国の背景・経緯を知りたい、をきっかけに歴史に興味を持ち勉強し始め約1年になります。 色んな人物、色んな出来事等膨大な情報を勉強するのは大変でもあり、発見も大いにありました。 そんな中で、疑問がひとつあります。 時代区分です。 飛鳥時代=飛鳥に宮があった。 奈良時代=文字どおり奈良に宮があった。 平安時代= ? 鎌倉時代=鎌倉に幕府。 室町時代=京都室町に幕府。 安土桃山時代=安土城・伏見城(桃山) 江戸時代=江戸幕府 どの時代区分も宮(都)または幕府があった地名などを時代名称にしていますが、「平安時代」はどういった経緯でこの時代名称にしたのでしょうか。 同じく、奈良時代は「平城時代」でもいいようですが。 よろしくお願いします。

  • 江戸時代に廃藩置県が起こるまで、藩によって金持ちの

    江戸時代に廃藩置県が起こるまで、藩によって金持ちの財がある藩と同じ石高の藩でも貧富の差があった。 要するに藩主は国を欺き脱税していた藩には財力があった。 10万石の領地を持つ藩で金持ちの藩主がいたが、国に所有地で取れる米の量は10万石とお上の国に申告し、江戸幕府の視察団が来ても田んぼは確かに10万石しか取れない土地であったので視察団はそのまま帰っていった。 では、10万石の大名はどのように国の目を欺き脱税していたかと言うと、山の表面に米田畑を作り、裏面に売れる木を植えていたのである。 要するに副業で林業をやって木を国を通さずに直接売買して副収入を得ていたのである。 という話を聞いて、昔の藩主も脱税してたのか。 それで金持ちの藩が存在していた理由が分かった気がした。 高い銃を大量に買える財力がなぜか領土が小さい藩に存在していた。 大きい広い土地を持つ藩主は土地も広いが国に納める税金も高かったので不作のときに大きく蓄えを減らし、領土の大きさが逆に財政を悪化させていたのだ。 で、江戸幕府も小さい藩主なのに羽振りが良いので、直接藩主になぜお前の藩は不作が続いているのに人々は餓死もせずにピンピンしているのだと聞いた。 実は米が不作でも林業で現金収入があったので米を買って村人に配っていたので栄養失調にならないのでピンピンしていたのだが、さすがに脱税してるお金があって財力に余力があるからとは言えないので、江戸幕府は結局、どういうカラクリでその藩だけ疫病に掛からないのか知りたくても真実は聞けなかったというお話。 これ以外の脱税話を知ってたら教えてください。 多分、他の藩も脱税していたと思う。

  • 江戸幕府の改鋳によるインフレと金の流出対策について

    当時 江戸時代の日本の金は安く、大量に海外に金が出て行ったらしく それを食い止めるための『海外に出て行く金を減らす』 というのが目的で、幕府は金貨の質を大幅に下げた(改鋳)とテキストに書いてあるのですが、今ひとつ腑に落ちません。 ・『金貨に含まれる金の量を半分にすると、その金で買えるものも、元の半値分になる』とも書いてあります。 これは『額面』ではなく『金貨』自体に価値がある構造になっていて、現代の貨幣制度とは異なっているということでしょうか。 金貨の価値が下がると物価が高騰するということは分かっていますが、海外に出て行く金の量を減らすことと直接に繋がるのはよく分かりません。 金貨に含まれる金の量を減らす→金貨の価値が金を減らした分だけ相応に下がる→海外に出て行く金貨1枚あたりの金の量は減っているが、それに応じて積む枚数も増えるので 結局は同じ金の分だけ出て行く 外国人が日本の商品を買いまくる→日本では品不足で物の供給が減るので物の値段が高くなる→改鋳して更に物の値が高くなる(だけ) こういうことではないのでしょうか。 すでに海外の貿易商人に日本の改鋳する前の金貨が大量に回った後に改鋳をし、外国商人から日本の商品と引き換えに、改鋳前の金貨を大量(枚数的に)に通貨としてもらうということも考えてみましたが 良質な金貨の回収はできますが結局は無意味ですし・・ これはそもそも改鋳前の金貨・改鋳後の金貨を区別して使っていたかによりますかね? もし区別せずに、「金貨一枚の価値は~円分です」。ということにすれば、海外商人に回った良質な金貨を大量に回収して、それに含まれる金を 抽出・再利用..などで金不足を図れそうですが。。 金貨に含まれる金の量を減らし、かつその金貨の価値を減らさない限りに、金が流出する絶対数は減らないと思うのです。 腑に落ちないので、詳しい方はぜひ回答をお願いします。

  • 「参勤交代」の実態

    江戸幕府へ上がる事を「参勤交代」といってた(気がする)けど、一切の家財道具を「引っ提げて」ある種の宿泊研修みたいなことをしてたんでしょうか? 伝えることだけなら家臣に任せれば良いと思うし、実際にはどういう「勤務」をしてたんでしょうか? また、参勤交代ができるのは江戸幕府由来の(特に徳川家やその縁者のみ)かとも思われるからお金がない地方藩主はあまりできなかったとも聞きます。 社会科や歴史の時間に「ふんわり」聞いただけなのでどういう事をするのか、(その道中に土産や宿泊をしお金を落とすのもあるけどそれが理由ではないはず) 教えてほしいです