高度経済成長と貴方

このQ&Aのポイント
  • 高度経済成長の真実に迫るNHKの特番が放送される。1954年から1973年までの19年間を指す高度経済成長の時代は、経済の右肩上がりとともに日本人の精神的な充足感も満たされていた。
  • 高度経済成長は内需を押し上げる連鎖も生み出し、大型消費財などを促進した。アジア・モデルとして韓国や中国が後に利益を得たが、その創始国である日本の貢献は揺らぎない。
  • 高度な成長を遂げる余地があったが、その一方で多くの人々は貧しさに苦しんでいた。子供たちは金のかからない遊びをし、喧嘩も当たり前で親は干渉しなかった。バブルの終焉まで続いた成長神話の中で、貧しかった当時の思い出を語り合いたい。
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高度経済成長と貴方

今夜 「 高度成長の真実 」 という NHK の特番が放送されますが、小難しい理屈はさて置くとして、ググってみると高度経済成長の時期とは、1954年 ( 昭和29年 ) 12月から1973年 ( 昭和48年 ) 11月までの 19 年間を指すらしい。 昨今の快適な暮らしに及ぶはずもありませんが、まあ古き良き時代であったのでしょう、少なくとも精神的な充足感には溢れていたはず、TV に映し出された当時の日本人は総じていい顔をしておりますからねぇ。 何しろ右肩上がりの経済という確信があった、その種の信仰が大型消費財を始めとする内需を押し上げるといった良い連鎖もあったのでしょう。 その一方でどの国でも起こり得た歴史の必然と言われる方もおられるが、私はそうは思わない。 少なくともその後韓国や中国が享受したアジア・モデル、その創始国という勲章は聊かも揺らぐものでは無いと・・。 さて高度な成長を遂げる余地があった訳ですから当然貧しかった、つぎのあたった服を着た小汚いガキ共なんてその辺に溢れておりました ( 当然私もそうです ) 。 昨今とは違い金の掛からない遊びを常とし、血なんかしょっちゅう流しておりましたねぇ。 クラスが変われば新しいボスの座を巡って喧嘩が始まるなんて当たり前、今でしたら親が卒倒して早速学校に苦情を申し立てるのでしょうが、当時子供の喧嘩程度で出張る親なんかいなかった、そう記憶しております。 その遥か延長線上にあるバブルという最後の徒花を以って、その種の成長神話は完全なる終焉を迎えますが、高度経済成長に関わる思い出がありましたら、貧しかったあの頃を思い出し、何か語って下さい。

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回答No.9

高度成長期は私の青春と重なります。東京五輪の時、私は大学生でした。もっとも、普通ならもう卒業していた年齢でした。なぜ、私は遅れたか。…長文になりますが、以下、お読みいただければ嬉しいです。 新潟の片田舎に暮らしていた。小学校高学年のころまでは、どちらかと言えば豊かな方だったと思う。ところがそんなある日、父親が急死した。日銭の稼ぎ手がいなくなると、途端に貧しくなった。一家もろとも餓死の寸前に陥った。終戦後間もないころで、世間一般に貧しかったが、それに輪をかけて、「爪に火をともす」暮らしを強いられることになった。エンゲル係数百パーセントの暮らしだった。いや百パーセントでも足りなかった。浅ましさの極みだが、何でも貪り食った。桑の実や野苺は、最高級のご馳走だった。サツキの花を摘んで何枚も重ねて頬張ると、口の中がピンクに染まったものだ。「ケンポ」と呼ぶ甘い味のする木の枝があって、それはそれは「バカウマ」であった。バームクーヘンよりもクーヘン的だった! ただし、今考えると、それが何の木だったのか皆目見当もつかない。 植物だけではない。イナゴやタニシは一大珍味である。ドジョウやヘビはとびきりの滋養食である。ハチの子やイモムシの類だって、こんがり炙れば香ばしい味がする。燻製仕立てならもうほとんどグルメの世界だ。しかし、つねに動物性蛋白に恵まれるわけではない。ときにはあらぬものを「捕食」する。例えば、夏の風物詩のヌシだ。「静かさや岩にしみいる…」などと風流を決め込んでいられない。ヌシの死角(真下)から垂直にそっと手を伸ばして、パッと押さえる。串に刺して火にかざす。まず羽がチリチリ、続いて手足もチリチリ…。「ナンマンダブ、ナンマンダブ」、フーッと一吹きして、塩を振って、パクリとやる。あ、うっ! ま、まずい! 何とも名状しがたい味だった。 パールバックの『大地』を読んで感動したのはこの頃である。その大地(中国)が飢饉に襲われると、草一本生えなくなる。農民は、食べるものが何もなくなり、ついには泥を食べる。そのくだりを読んで、いかに勇気づけられたことか! 「オレはまだ泥は食ってない。泥を食うまでには間がある。当分の間餓死することはあるまい」と。おかげで、少々の空腹には動じなくなった。 その後も貧しさは尾を引いた。言うも恥ずかしいが、中卒後・高卒後にそれぞれ二年間ずつ資金を稼いでは進学するという経過をたどって、ようやく大学へ進んだ。しかし、大学以降は当時の好況のおかげもあって、いろんなアルバイトに恵まれ、特に卒業間際では、想像したこともない「金持ち」の気分さえ味わうことができた。何しろ、当時のアルバイトの貴族ぶりは、卒業して就職したら、在学中の稼ぎよりも給与のほうが少なかった、という例があったほどである。 そんなわけで、今度はようやく足踏みせずに大学院へ。週に二、三回、市ヶ谷にある外務省の外郭団体OTCA(海外技術協力事業団・現JICA)で、アルバイトをしていた。ある時、半年分ほどの講師料をもらってほくほく顔で外へ出ると、「日本育英会」の看板が目に入った。「高校時代世話になったなあ」などと感慨に浸っているうちに、足が勝手に建物の方へ向いた。すかさず窓口の人が小窓を開けて、「返済ですか?」ときた。「ええ、まあ…」。とっさのことで、考えてもいないことが口をついて出てしまった。 聞かれるままに名前を告げると(こういうときは何と素早い!)、書類が出てきて、返済金額まで記入されている。懐には上述の金子のほかに、二百ページ近いプラント輸出の契約書を翻訳した分の謝礼もあって、太っ腹になっていた。「何とか一括払いできそうな金額だし、ボクが返せば、これでまた恵まれない高校生が救われることになる。それはもう一人の自分なのだ」などと、自分に言い聞かせた。あげく、帰りは電車賃しか残っていなかった。先刻のほくほく顔はすっかり消え失せていた。… しかし、考えてみれば、いろんな人や方面に世話になったと思う。中卒時の進路決定の際は、担任が気の毒がって彼のいとこの経営する会社に事情を説明し、面倒を見てくれるよう依頼してくれたのであった。奨学金を一括返済したときも、そのひと月ほどあとに「報奨金」という名目で、返済額の一割が戻ってきた。利息も取らず、一部を返してくれるとは何ともありがたい。心の中で、あちらこちらに向かって三拝九拝の心境である。 そして、今、青春時代を振り返ると、高度成長期があったからこそ生きて来られたように思う。本当に、「いい時代を過ごさせてもらった」と思う。ああ、「過ぎ去りし日々はなべてよかりき!」

isoken
質問者

お礼

Nakay さん、おはようございます。 お礼が遅くなりまして、誠に申し訳ありません。 さて Nakay さんは私よりも20歳近く先輩であられるのでしょう、それにしても長文で誠に興味深い回答を賜わりました。 >新潟の片田舎に暮らしていた。小学校高学年のころまでは、どちらかと言えば豊かな方だったと思う。ところがそんなある日、父親が急死した。日銭の稼ぎ手がいなくなると、途端に貧しくなった。 昨今の貧しさは、一昔二昔前のそれとは明確に質が異なります。 社会保障費の削減だ何だと申しましても、現在は貧者を救済する最低限度のシステムが機能しておりますから、飢えへの恐怖は恐らく少ないでしょう、彼等の不満は文化的生活のレベルの上下にあると言って差し支えないものと思われます。 ところが終戦直後の貧しさは死に直結していたのでしょう、戦中派の我が父親が語る当時の思い出の過半も食への苦労ばかり。 それにしても私の乏しい想像力を遥かに凌駕した光景でして、例えが適当ではないのかも知れませんが、長らく北朝鮮ウオッチャーとして書物を読み漁った私が知る彼の地の状況もかくもあらんやと・・。 >その後も貧しさは尾を引いた。言うも恥ずかしいが、中卒後・高卒後にそれぞれ二年間ずつ資金を稼いでは進学するという経過をたどって、ようやく大学へ進んだ。しかし、大学以降は当時の好況のおかげもあって、いろんなアルバイトに恵まれ、特に卒業間際では、想像したこともない「金持ち」の気分さえ味わうことができた。何しろ、当時のアルバイトの貴族ぶりは、卒業して就職したら、在学中の稼ぎよりも給与のほうが少なかった、という例があったほどである。 困窮のさ中にあった先達の皆様の向学心は、我々の世代をも含め僅かな例外を除いて、決して貧しさが進学を諦める事の言い訳にならない好例であると思います。 いや、昨今は豊かさが却って視野を狭めているのかも知れない、捜せば何等かの道はある・・、そういう事でしょうねぇ。 >そんなわけで、今度はようやく足踏みせずに大学院へ。週に二、三回、市ヶ谷にある外務省の外郭団体OTCA(海外技術協力事業団・現JICA)で、アルバイトをしていた。 ほ~う、そういう場所でのアルバイトにありつけるのですから、さぞや名門大学の優秀な学生であられたのでしょうが、それにしても1960年代といえば、我が日本もまだ安かろう悪かろうというバイアスが掛けられていた時代、輸出一つ取りましても官民一体となり受注に苦労していたかと思います。 ただ奨学金の一括返済は痛かったでしょうねぇ、まあ私如きがこう申すのもなんですが、そりゃ良い事をされました。 >そして、今、青春時代を振り返ると、高度成長期があったからこそ生きて来られたように思う。本当に、「いい時代を過ごさせてもらった」と思う。 思えば日本人のマインドも随分と変化しました、豊かさと引き替えに謙虚さと感謝という言葉を喪失しつつあるのかも知れません。 ひょっとしたら私もそうかも知れない、自戒せねばなりませんねぇ。 >ああ、「過ぎ去りし日々はなべてよかりき!」 全く仰る通りです、貧しさもそして苦労も過ぎてみれば須らく甘美な思い出でして、昔は良かったと思っちゃう・・。 回答ありがとうございました。

isoken
質問者

補足

この度は御回答、誠にありがとうございます。 よんどころない用事が出来まして、お礼が一週間ほど先に延びる事、お許し願いたいと存じます。

その他の回答 (14)

noname#208768
noname#208768
回答No.15

あのころの遊びは、シンプルで想像力を育むものでした。 メンコ。遠州地方では「四角券」と呼んでいました。厚紙の表面に 月光仮面やむっつり右門なんて絵が描いてある。裏はまた別の図柄が 描いてあってそれでグーチョキパーの図や戦車だの軍艦だの絵が あったりもしました。 普通は畳や板敷きの床、たまには三和土で一体一の勝負 「返しっこ」でメンコを叩きつけた勢いで相手の券がまいあがって ひっくり返れば、価値。月光仮面は相手のものになります。 幼い私は、近所のガキ大将に、赤胴鈴之助や七色仮面のなけなしの 「大物メンコ」をやすやすと取られ泣いて帰ったものです。 当時の思い出が美しいのは、メンコでむしられたあとは、いまの パチ屋みたいに弱いものからさらにむしるのでなく、河岸をかえて ザリガニつりやカエルのケツに花火をつっこむ座興にきりかわって いる。 当時は、近所の笹藪や鉄くず置き場が、ぼくらの玩具箱でした。 戦争ごっこでも、ちゃんばらでも、道具は手作り。マサキの枝を つかって芯だけぬけば小さな刀ができる。 近所には浅い用水路やちょっとした池があって、竹を切って ボロ布を巻いた棒きれを先に穴をあけた竹に通すと水鉄砲が できる。ともかく近所の子供総勢あつめても10人にみたないから 就学前の子もまぜてやって5対5くらいの数で遊んでましたね。 大人がみんな何もないところか、工夫してものを創りだして生きている。 それが子供にも伝わってきたのでしょうか。母が出たという東京の 女子大も実は洋裁学校と料理学校に毛の生えた程度のものらしいのですが 母はしきりにミシンで僕の服を作ってくれた。 思えば、あの頃のおやつも飲み物もみな「作る」ものでした。 渡辺のジュースの素ですよ。とエノケンがいう。森永のココアは オオカミ少年ケンが飲めと勧めていた。 既成品売っていたジュースというのがビニール容器に封印された どぎつい色をした代物。それを凍らせたものも売っていました。 男の子が毎日外で違った遊びをやっている間に、女の子は家の中か 縁側でお人形のきせかえとか、ままごとをあきずにくりかえして いました。今思えばこれも社会の縮図みたいでおもしろいですね。 子供の頃は、女はなんでこんなつまらないことが楽しいのか 不思議でした。大人はなぜ、女と一緒にくらすんだろう。不思議でしたね。 おもしろくないだろうに。カエルを捕まえて爆死させて足の皮むいて 身をそいでアメリカザリガニ釣るのが一番楽しいのに、残酷だと大人に 言いつけにいく。こまったものだ。女とふたりで家の中で何を話せば いいのだ。 「ばあちゃん。俺は大人になったら女と住まねばいかんだか?」 「そんなことはねぇよ。ずっとひとりもんというのもおるだで」 「ばあちゃん。俺は女がきらいだ。」 「そうか。そりゃ女好きよりはなんぼかましだな。」 そういいいながら、思春期過ぎたら誰より女好きであった。妄想の高度成長期。 苦しいほどの切ない青春時代。 ものはいらない。高度成長というくらいだから、もう少し身長が欲しかったなぁ。

isoken
質問者

お礼

ex さん、こんばんは。 珍しく多忙であったのと体調の悪さにかまけた上、親しくして頂いている事に甘えてお礼が遅くなりました、誠に申し訳ありません。 >メンコ。遠州地方では「四角券」と呼んでいました。厚紙の表面に 月光仮面やむっつり右門なんて絵が描いてある。裏はまた別の図柄が 描いてあってそれでグーチョキパーの図や戦車だの軍艦だの絵が あったりもしました。 駿河・遠江と言えば、古来より我が日本列島で最も神の恩寵を受けた豊穣な土地柄の1つ、これは御世辞でも何でもなくて恐らく事実なんでしょう。 遠州灘・浜名湖そして数ある大河と温暖な気候に恵まれ、人々の心根も優しいと聞き及びます。 さてメンコ・ビー玉なんてのは、かつては男の子の遊びの代表選手でしたが、私の時代のメンコはずばりライダー・カード。 当時仮面ライダー人気に便乗して発売されたライダー・スナックというお菓子がありまして、一袋買うとカードが1枚ついて来るのですが、子供の分際で私はこれを箱買いしまして、カードだけ抜き取りお菓子は全部川に放り投げてました、今考えれば何と罰当たりな事か。 ・・というのも、通しナンバーのコレクションが当時は子供なりのステイタスでありまして、超が付く悪ガキであった私は、腕ずくで近所のガキ共から巻き上げておりましたが、それだけではとても足りなかった・・。 >当時の思い出が美しいのは、メンコでむしられたあとは、いまの パチ屋みたいに弱いものからさらにむしるのでなく、河岸をかえて ザリガニつりやカエルのケツに花火をつっこむ座興にきりかわって いる。 そういった子供時分の風景は、東京に生まれ育った者とてそう変わりはありません。 その辺りの小川に小魚もおりました、オタマジャクシも普通におりましたが、何しろ自然と戯れるのに金は要りません、昔はみんなそうでしたねぇ。 >大人がみんな何もないところか、工夫してものを創りだして生きている。 >それが子供にも伝わってきたのでしょうか。母が出たという東京の >女子大も実は洋裁学校と料理学校に毛の生えた程度のものらしいのですが 母はしきりにミシンで僕の服を作ってくれた。 ミシンが一般家庭から姿を消して久しいですよね、昔は各家庭に必ず1台はありました。 家庭科の授業で雑巾を縫った事もありますが、今は何でも買った方が安い、時代とは変わるものです。 >渡辺のジュースの素ですよ。とエノケンがいう。森永のココアは オオカミ少年ケンが飲めと勧めていた。 >既成品売っていたジュースというのがビニール容器に封印された どぎつい色をした代物。それを凍らせたものも売っていました。 渡辺のジュースの素も必需品でした、何とかという御汁粉もそうでしたが、ココアは恐らく上品な嗜好品だったのでしょう、幼い頃の我が家ではお目に掛かった事がありません。 当時のジュースもアイスクリームも、一体何が混入していたやら、昨今の衛生基準からすると恐らくその殆どが発売禁止になる代物じゃなかったかと、でも別段死にもしなかった、私としてはその程度でいいと思うのですがねぇ・・。 >「ばあちゃん。俺は大人になったら女と住まねばいかんだか?」 >「そんなことはねぇよ。ずっとひとりもんというのもおるだで」 >「ばあちゃん。俺は女がきらいだ。」 >「そうか。そりゃ女好きよりはなんぼかましだな。」 >そういいいながら、思春期過ぎたら誰より女好きであった。妄想の高度成長期。苦しいほどの切ない青春時代。 ex さんに本当の女嫌いになられたら、お婆様もさぞや困った事でしょうね。 でも男はみんな女性が好きなんです、ただ或る年齢に達するまで口に出せない人も少なくないんでしょう・きっと・・。 回答ありがとうございました。

回答No.14

#6 厚かましくも再びお邪魔します 一部補足と訂正 瀬戸内寂聴女史とは高等女学校の同窓生、現在の徳島県立城東高校です 昨年徳島での寂庵(通称、ナルト・サンガ=法話の集い)を閉鎖してしまいました 度重なる入院で体力が衰えてしまったようです 婆さまは亭主を不慮の事故で亡くし、母子家庭で団地生活 遺族年金でも貰っていたのかな?(不明) おとんの小学校のクラス写真を1度見たことがありますが、ハイカラな洋服姿でした 服も買わない、手作りの方が安いですからね 何でも手作りでした 幼少期はレトルト・インスタントも一切禁止、スーパーの惣菜も禁止 駄菓子屋さんも「色粉(=食紅)はあかん」 今ではすっかり見かけなくなりましたが、「ちり紙交換屋さん」が巡回していた頃、裏面無地の広告を捨てようもんならしばかれました メモ書きに使えるから(笑) その辺は私も受け継いでいます 亀山工場はシャープ・アクオスの爆発的ヒットで「世界の亀山」と言わしめた地 「びわ湖」を製造していた滋賀県大津市の工場は太陽電池の拠点になっています

isoken
質問者

お礼

michiyo さん、こんばんは。 >瀬戸内寂聴女史とは高等女学校の同窓生、現在の徳島県立城東高校です >昨年徳島での寂庵(通称、ナルト・サンガ=法話の集い)を閉鎖してしまいました >度重なる入院で体力が衰えてしまったようです 寂聴さんは以前、確か岩手県の浄法寺にあるお寺さんの住職をされてましたね、月に何度か行かれてたみたいでして、10年ぐらい前家内に付き合って態々出掛けた事があります。 でも徳島県には一度行ってみたい、はていつになる事やらですが・・。 >今ではすっかり見かけなくなりましたが、「ちり紙交換屋さん」が巡回していた頃、裏面無地の広告を捨てようもんならしばかれました >メモ書きに使えるから(笑) そうそう、どの家庭でもやってました、勿論我が家もそう。 それにしてもミッタンはまだやってましたか、でも今時のチラシに裏が使えるのってあるのかな? >何でも手作りでした >幼少期はレトルト・インスタントも一切禁止、スーパーの惣菜も禁止 >駄菓子屋さんも「色粉(=食紅)はあかん」 耳が痛い話ですが、今では手作りの方が恐らく金が掛かっちゃうでしょう、時代は変わり行くものです。 >亀山工場はシャープ・アクオスの爆発的ヒットで「世界の亀山」と言わしめた地 >「びわ湖」を製造していた滋賀県大津市の工場は太陽電池の拠点になっています おお、そうですか。 それにしても先端技術を誇ったシャープ、是非とも華麗なる V 字復活を遂げて欲しいものです。 回答ありがとうございました。

isoken
質問者

補足

この度は御回答、誠にありがとうございます。 よんどころない用事が出来まして、お礼が一週間ほど先に延びる事、お許し願いたいと存じます。

noname#216458
noname#216458
回答No.13

こんばんは。ご無沙汰をしております。(笑) 自身が今の会社で若干ながらも指導的な立場になったこととの関連性など有る訳も無いことは明らかなれど、どうにも我がパソコンの調子がイマイチ... すぐに「フリーズ」してしまい、加えて、ただでさえ視難くなった当サイト、ぼちぼち、ここも潮時かなぁ、と思いつつも、お気に入りの会員様のご質問とあれば、見過ごすわけにもいかず...(苦笑+汗;) たくさんのご回答、大変興味深く拝見しました。 きょうは日曜日なんで、“いつもの集合場所”はお休み、我が家の当ボロアパートの一室がささやかな宴会場と化しました。大河ドラマまでは一緒に視ていたんですがネ...(苦笑+汗;) 夕方5時過ぎぐらいからでしょうか、当方のささやかな手料理(鶏肉とキャベツの味噌炒め、調味料を使ったモヤシ炒めをはじめ、冷奴、他、出来合いのオカズ等)を肴に、“あの頃から続いている番組”を視ながら、あぁでもない、こうでもない...(笑) 「笑点」「サザエさん」は...それにしても長く続いていますね... メンバーチェンジも行われていますが、この番組は末永く続いて欲しいです。(笑) 1962年(昭和37年)生まれの当方とすれば、「高度経済成長」の申し子とされても致し方ないこと... 「戦後70年 ニッポンの肖像」 昨日の放送分は、きょうの午後の昼下がりに録画で視ました。 きょうのぶんを視ながらの投稿です。(もう終わったなぁ~) (バブル時期も含めて)あのころは... 「限りなく、そして輝かしく盲目的な高揚の上昇曲線をまっしぐらに駆け上ってゆく巨大なひとつの意思に組み込まれていった時期だった」、と、でも表すればよいのか... バブル期を終えた時期(リーマンショック期を含む)での、当方の舐めた辛酸ぶりは、以前ご報告したとおりです。それにしても、“失われた20年”とは、言いえて妙ですね。(苦笑+汗;) まぁ、酔いも廻ってきたし(?)、せっかく敬愛なる磯賢先輩のご質問に参加できたところですから、もう少し別なオハナシもしましょうか...(苦笑+汗;) 日曜日の休日に、わざわざこの部屋に来るヤカラ(だいたい当方と同年代デス。)のお目当ては、当方所持“ウルトラセブンのDVD”です。(爆!) 私にしても連中にしても、“日曜日の午後7時”ってなぁ、なにか特別の響きを持つのかも知れません... 当時の小学校の低学年のハナタレ小僧どもにとって、なんといっても“ウルトラ警備隊のアンヌ隊員”は、永遠のヒロインなのでアリマス。(笑) きょうは、第31話「悪魔の住む花」でした。(そう、あの、松坂慶子さんもご出演された物語デス...笑) まぁ、この頃の思い出を語り出したら、もう、止まりませんが、とりあえず、このへんで...(苦笑+汗;) それから...そうそう、敬愛なる磯賢先輩にいたっては、てっきり「つぎのあたった服を着た小汚いガキ」とは無縁の、当方などの貧乏人とは住む世界の違うおかたと認識しておりましが... そうですか...ついでに、そでは“ハナ”でテカテカだったのでしょうか?...(笑) そういえば、いま、いませんねぇ~、そんなコドモ... 仲間と一緒に、そして、独りになって、このご質問に接し、あの当時を振り返ることができました。 有り難うございました。(笑)

isoken
質問者

お礼

linimo さん、こんばんは。 お礼が遅くなりまして、誠に申し訳ありません。 >自身が今の会社で若干ながらも指導的な立場になったこととの関連性など有る訳も無いことは明らかなれど、どうにも我がパソコンの調子がイマイチ... >すぐに「フリーズ」してしまい、加えて、ただでさえ視難くなった当サイト、ぼちぼち、ここも潮時かなぁ、と思いつつも、お気に入りの会員様のご質問とあれば、見過ごすわけにもいかず...(苦笑+汗;) さて会社を含む縦社会とは妙なもので、肩書や報酬が必ずしも当人の実力に見合ったものとは限らない。 ただ他人様の指導を任されたとなれば別でして、能力が認められた証に他ならない、誇ってよいものだと思います。 ところでパソコンは買い替えましょうよ、それから当サイトの在り方などどうでもいいじゃないですか。 気の合う linimo さんに去られてはちと寂しい、そう感じるのは私だけではないと思いますよ。 >きょうは日曜日なんで、“いつもの集合場所”はお休み、我が家の当ボロアパートの一室がささやかな宴会場と化しました。大河ドラマまでは一緒に視ていたんですがネ...(苦笑+汗;) 当人が望んでも中々人など集まりません、皆さんよほど linimo さんを取り巻く空間の居心地がいいんでしょうねぇ。 >夕方5時過ぎぐらいからでしょうか、当方のささやかな手料理(鶏肉とキャベツの味噌炒め、調味料を使ったモヤシ炒めをはじめ、冷奴、他、出来合いのオカズ等)を肴に、“あの頃から続いている番組”を視ながら、あぁでもない、こうでもない...(笑) ほ~~、美味そう。 私もそんな感じの料理が一番好きです、冷奴は毎日でもいいぐらい、お上品過ぎる料理は喰った気がしませんから・・。 >「笑点」「サザエさん」は...それにしても長く続いていますね... >メンバーチェンジも行われていますが、この番組は末永く続いて欲しいです。(笑) 「 笑点 」 で一体何人の司会者を見て来た事だろうと・・、ところで私が一番強烈に覚えているのは、現司会者桂歌丸さんと故三遊亭小圓遊さんの掛け合い、あれは面白かった。 まあ仰る通りでして、 「 サザエさん 」 も含めこの両番組には視聴率というビジネスは無視して欲しいですね、今のところ打ち切りの心配はないようですが・・。 >(バブル時期も含めて)あのころは... >「限りなく、そして輝かしく盲目的な高揚の上昇曲線をまっしぐらに駆け上ってゆく巨大なひとつの意思に組み込まれていった時期だった」、と、でも表すればよいのか... 誰もが日本経済永遠の発展を信じて疑いませんでした、一人当たりの GDP と国民所得は無論世界一 、まあ円高マジックという部分はあったのでしょうが、それにしても 「 山高ければ 谷深し 」 、20年も続いたその後が何とも・・。 >日曜日の休日に、わざわざこの部屋に来るヤカラ(だいたい当方と同年代デス。)のお目当ては、当方所持“ウルトラセブンのDVD”です。(爆!) 私は明確にウルトラマン世代ですねぇ、勿論ウルトラセブンもキャプテン・ウルトラも観ましたが・・。 ウルトラマンに登場した怪獣は殆ど覚えてますし思い入れもある、それにしても僅か1年足らずの番組が齎したインパクトは大きい、50歳を越えた今でも強烈な思い出です。 ところで linimo さんの 「 ウルトラセブン 」 に対抗する訳じゃありませんが、先日「 トラック野郎 」 の全シリーズ DVD を大人買いしてしまいました、これからぼちぼちと観るつもりです。 >当時の小学校の低学年のハナタレ小僧どもにとって、なんといっても“ウルトラ警備隊のアンヌ隊員”は、永遠のヒロインなのでアリマス。(笑) linimo さんが大好きなひし美ゆり子さんですか、あの方はいいお年の召され方をされてます、今でもとっても上品。 >それから...そうそう、敬愛なる磯賢先輩にいたっては、てっきり「つぎのあたった服を着た小汚いガキ」とは無縁の、当方などの貧乏人とは住む世界の違うおかたと認識しておりましが... そうですか...ついでに、そでは“ハナ”でテカテカだったのでしょうか?...(笑) そういえば、いま、いませんねぇ~、そんなコドモ... その頃はうちだって金なんかありゃしません、いつもお袋が嘆いてましたっけ・・。 さすがに 「 “ハナ” でテカテカ 」 はありませんでしたが、そう言えば青洟垂らしたガキはいなくなりましたねぇ、それはもう見事に・・。 回答ありがとうございました。

isoken
質問者

補足

この度は御回答、誠にありがとうございます。 よんどころない用事が出来まして、お礼が一週間ほど先に延びる事、お許し願いたいと存じます。

回答No.12

バブルのときはまだ小学生だったので、まったく恩恵になかったですし、実際にバブルを体験したかったと思ってます。 まず、もう一度バブル景気になることはないでしょうから、本当に高度経済成長を経験した方がうらやましいです。

isoken
質問者

お礼

sometaro さん、おはようございます。 お礼が遅くなりまして、誠に申し訳ありません。 >バブルのときはまだ小学生だったので、まったく恩恵になかったですし、実際にバブルを体験したかったと思ってます。 バブルが弾けて以降、その余波が日本社会に多くの悲劇と不幸そして変化を齎せました、それは事実でしょう。 その一方でバブルを煽った一端の責任を負うはずのメディアが、一転した掌返しで極度のバブル叩きに走り、決して向かってはならない方向性として反面教師である事を過度に喧伝した為、日本社会全体がシュリンクした側面は否めないと思います。 ことに多くの若者がその影響を受けたようです、つまり彼等から野心・野望という名の山っ気や射幸心を抜き去った、去勢してしまったと言っても差し支えないでしょう。 その点は無論 sometaro さんを含めた若者のせいではないし、生まれてからこっちずっと不況という気の毒な面も確かにあります。 ただ若い者が余りに現実的で夢を追わない風潮、寂しくないといえば嘘になりますねぇ。 >まず、もう一度バブル景気になることはないでしょうから、本当に高度経済成長を経験した方がうらやましいです。 仰る通りバブルの再来はほぼ考えられない、 極端な資産インフレに振れたバブルと高度経済成長とは無論異なりますが、行け行けドンドンのマインドは似ているのかも知れませんねぇ。 sometaro さん、そりゃ楽しかったですよ、バブルの頃は・・。 第一今とは日本社会全体を覆う空気が違います、世界史上でも稀と言われる数年間を経験出来て本当に良かった、私としてはそう思いますねぇ。 回答ありがとうございます。

isoken
質問者

補足

この度は御回答、誠にありがとうございます。 よんどころない用事が出来まして、お礼が一週間ほど先に延びる事、お許し願いたいと存じます。

回答No.11

その19年間が高度成長期であれば、そのまっ只中を暮らしてきたことになりますが、実際の生活となると、小学校の頃は半数程度が生活保護世帯でしたし、暮らした街が今でいう賭博の街・風俗の街であったためか、ゆっくりとした時の経過だったように思えます やはり成長の裏には影の世界があるわけで、親に「あそこの道から向こうに行っちゃダメ」と言われつつも、賭博・風俗にまつわる話は子どもの目や耳には入っていたわけです 確かに冷蔵後が氷を入れる木製のものから、鉄でできた白い箱のものに変ったり、黒電話が来たり、街頭テレビ(力道山の試合リアルで見ました)でなく家のテレビで見られたり、車が我が家に来たときは驚きもしましたが、それで生活や街がどう変ったか?と問われると大して関係ないわけで、成長といっても家庭内の物量が増えただけだったように感じており、一体その頃に比べ、何が成長したのでしょうね

isoken
質問者

お礼

icerub さん、おはようございます。 >その19年間が高度成長期であれば、そのまっ只中を暮らしてきたことになりますが、実際の生活となると、小学校の頃は半数程度が生活保護世帯でしたし、暮らした街が今でいう賭博の街・風俗の街であったためか、ゆっくりとした時の経過だったように思えます やはり成長の裏には影の世界があるわけで、親に「あそこの道から向こうに行っちゃダメ」と言われつつも、賭博・風俗にまつわる話は子どもの目や耳には入っていたわけです 裏社会は表社会からの恩恵とおこぼれが全てですから、両者には若干のタイムラグがある、恐らくそういう事でしょう。 まあ賭博・性風俗という種類のものは俗に社会の必要悪と称され、いつの世にも無くなる事はありませんが、一般社会からほぼ隔離された昨今とは異なり、その昔はすぐそこにあったりしまして、まあさほど特別な事ではなかったんだろうと思います。 その他子供には決して触れられないアンタッチャブルな世界、何となく気になりつつも覗けないそんな場所が幾つかありました。 >確かに冷蔵後が氷を入れる木製のものから、鉄でできた白い箱のものに変ったり、黒電話が来たり、街頭テレビ(力道山の試合リアルで見ました)でなく家のテレビで見られたり、車が我が家に来たときは驚きもしましたが、それで生活や街がどう変ったか?と問われると大して関係ないわけで、成長といっても家庭内の物量が増えただけだったように感じており、一体その頃に比べ、何が成長したのでしょうね お書きになっておられその全てが、変化であり成長でしょう。 冷蔵庫・電話そしてテレビや自家用車が当たり前となった昨今、貧しく不便であった時代との比較に於いては、殆ど革命的ですらある訳ですから・・。 回答ありがとうございます。

isoken
質問者

補足

この度は御回答、誠にありがとうございます。 よんどころない用事が出来まして、お礼が一週間ほど先に延びる事、お許し願いたいと存じます。

noname#211715
noname#211715
回答No.10

isokenさん、こんにちは(*^-^*) 昭和48年でしたら私は7才です。その頃にはうちの家も少し豊かになってきたような気がします。ちょっと遅れてるかもですね(笑) 幼稚園は幼馴染のふたりともが私立を希望していたみたいで、当然そんな事情を知らなかった私はそこへ通いたいとお願いしました。両親ともすっごく苦い顔になったことだけ覚えています。 喧嘩は兄がよく負けて帰ってきて「勝つまで帰ってくるな」と父に叱られてました。男の子はそんな感じでしたね(笑) 遊んでいて転んで血がだら~はしょっちゅうでしたよ。当時は赤チンが傷薬の代表でしたのに体によくなかったんですか??ひざっ小僧はいっつも赤チンで真っ赤で、照明の加減で変にギラギラ光ってました。 今から思い返すと恥ずかしいネーミングです。”赤チン”なんて( *´艸`) 幼稚園に入る前は母がたま~に5円をくれました。兄と一緒に近所の駄菓子屋さんへ。 台風が来ると聞くと傘を持って表に飛び出しました。 そういえば!遊園地に行くのにおめかししてましたね。兄はブレザーみたいな上下の短パンで、私はワンピースでパンツの見えそうなスカートです。おめかし出来る場所は遊園地と動物園とデパートだけでした。

isoken
質問者

お礼

Wettissu さん、おはようございます。 お礼が遅くなりまして、誠に申し訳ありません。 >昭和48年でしたら私は7才です。その頃にはうちの家も少し豊かになってきたような気がします。ちょっと遅れてるかもですね(笑) 幼稚園は幼馴染のふたりともが私立を希望していたみたいで、当然そんな事情を知らなかった私はそこへ通いたいとお願いしました。両親ともすっごく苦い顔になったことだけ覚えています。 私もそうでしたが、昔の子供ってのは幼いながらも家庭の経済状態には何故か敏感でした。 我儘も米櫃の底を覗き込みながら言ってた気がしますが、まあそういう時代であったのだろうと・・。 >遊んでいて転んで血がだら~はしょっちゅうでしたよ。当時は赤チンが傷薬の代表でしたのに体によくなかったんですか??ひざっ小僧はいっつも赤チンで真っ赤で、照明の加減で変にギラギラ光ってました。 今から思い返すと恥ずかしいネーミングです。”赤チン”なんて( *´艸`) 年がら年中血だらけ・泥だらけそして喧嘩三昧、それが当たり前でした。 子供はやはり体を使って外で遊ぶのが望ましい、それでこそ様々な痛みや世の不条理を体感して行く訳で、 TV ゲームやパソコンに夢中になる昨今の風潮は何だかなぁ・・、そう思っちゃいます。 >幼稚園に入る前は母がたま~に5円をくれました。兄と一緒に近所の駄菓子屋さんへ。 御多分に漏れずこの私も小金があればしょっちゅう行ってましたが、駄菓子屋って、何故ああも楽しかったのでしょうか。 大人になってもあれだけ楽しい世界はそうはない、但し金が無ければ行けませんからねぇ、狡賢い私はそのうちに知恵を使うようになります。 家中のビール瓶をケースごと酒屋へ持ち込み、駄菓子屋で遊ぶ資金に・・。 当時ビールの空き瓶が 1本 5円、つまりケースで 120円ですから、 近所の薄汚いガキ共を伴って駄菓子屋へと乗り込み、お大尽遊びが出来たほどの大金です。 そんなこんなで上客の私は、そのうち駄菓子屋の因業ババアとはツーカーの仲となり、特別扱いされるようになりまして、紐で引っ張る飴の一等賞はいつも私が手にしてました。 資本主義の厳かで或る面不条理な原則を、幼心に初めて体感した瞬間でもあります。 >台風が来ると聞くと傘を持って表に飛び出しました。 ああそうでしょう、私にとっても台風何て別に特別じゃなかった、親だって特に心配していた感じではありませんでしたよ。 >そういえば!遊園地に行くのにおめかししてましたね。兄はブレザーみたいな上下の短パンで、私はワンピースでパンツの見えそうなスカートです。おめかし出来る場所は遊園地と動物園とデパートだけでした。 いや~、遊園地も楽しかった、特別な場所でしたねぇ、そりゃもう・・。 ところが大人になると興味が無くなっちゃう、さして遠くもないディズニーランドにいまだに行った事がありませんもの。 そこからほど近いホテルまで食事には行くんですがねぇ・・、まあ面白いものです。 回答ありがとうございました。

isoken
質問者

補足

この度は御回答、誠にありがとうございます。 よんどころない用事が出来まして、お礼が一週間ほど先に延びる事、お許し願いたいと存じます。

回答No.8

高度経済成長というと、経済規模の拡大ばかり目に付くが、 その背後で、幾多の目に見えない変化があった。 たとえば僕は高校の頃、全国の大学で起きた学生紛争に 刺激を受けて手作り謄写版を自作し、ビラや小冊子を配って、 当時田舎の学生の間に広まっていたS学会の青年部と論争を 重ねつつ、大学で活躍する日を夢見ていた。 ところが大学に入る前に安田講堂は陥落し、赤軍派は庶民と 遊離したテロリストになって浅間山荘に散った。 僕が入った憧れの大学は、三無主義でノンポリな学生に満ち ていた。 確かにある時期、学生運動は労働運動と連動し、社会を変え る希望に満ちていた。 そしてそれは体制側に押しつぶされ、その後は「親方日の丸」 で、個人の力では世の中は動かせないという諦めに支配され たのだ。 思えば、高度経済成長において、発展する資本主義、経済効率 優先の巨大な為政メカニズムに対して、『何だか俺たちの意志 が置き去りにされているぞ』という危機感が、政府への抵抗と して噴出したのだろう(そして玉砕した)。 個人の意志では動かせないほど、経済的・政治的体制は巨大化 &他律化したのだ。 それと平行した変化は、そうした高度経済成長を可能にした 日本的な集団主義(稲作農耕文化+島国文化)自体の劣化と しても表れている。 高度経済成長における、核家族化や共働きは、大家族による 家庭教育や地域コミュニティによる伝統文化の世代間伝承を 阻害し、一方で受験競争の点取り競争に堕した学校教育に、 人格形成まで依存した結果、社会性の乏しい、自己チューな 世代を量産したのだ。 政府も、「日本的な集団主義」の象徴であった企業の家族的 経営=終身雇用×年功序列を、アメリカの言いなりになって 廃し、格差是正の核であった累進税率の所得税や法人税を 下げる一方、均等税率の消費税ばかり造成して、かつて一億 総中流といわれた日本社会を、先進国中、中国、ロシア、ア メリカに次ぐジニ係数(貧富の格差)の国にしてしまったのだ。 その結果、金持ちが金を持って株価は上がるが、庶民に金が なくて個人消費は低迷して不景気という、最悪の国になった。 宮沢、小泉、安倍、分かるか?日本を滅ぼしたのはお前らだ!

isoken
質問者

お礼

psytex さん、こんばんは。 いや~もうショックです。 psytex さんから賜った真摯な回答に、長文のお礼をしたためて送信ボタンを押した瞬間に全てが消えてしまいました。 もうあれだけの大作は無理・・という事で随分と端折りますが、御容赦下さい。 さて結局我が国の学生運動が立ち消えとなった最大の理由は、高度経済成長が描く右上がりの放物線と重なったからでしょう、恐らく・・。 眼前の喰うというテーマの前には右も左もありゃしません、つまり暇人の頭でっかちな高論卓説でしかない、学内の自治レベルに限定しておればともかく、生活レベルと比較すれば安保問題だって優先順位はずっと後のはずでして、つまり世間の常識と学生達の意識が著しく乖離し、そこに浅間山荘というティピカルな事件が止めを刺した、そういう図式であったのだろうと思います。 稼ぐ術を知らない若造の世迷言など、戦後の地べたを這い回り、世の辛酸を舐め尽くした方々に対する説得力には全く欠けていたのでしょうねぇ。 学生の側だってそう、4年のモラトリアムの後は髪を切り・ネクタイを締めて普通の生活へと回帰を果たし、社会の歯車となってそこいらの親父と同じで、「 今時の若い者は 」 ・・なんて使い古されたセリフを吐いたのでしょう。 それでいいのだと思います、歴史とは絶え間なく続く連鎖でしょう、誰しも若い頃は体制に不満を持つし奔放な生き方に憧れたりもしますが、そこに生活という現実が立ちはだかればそうも言ってられない。 そもそも家族を養い子供を育てる事の意義は、革命なんかより遥かに重いもの、私なんかはそう思ってしまいますねぇ。 ただ一つ私にとって腹立たしいのは、学生運動に関与した事で当局から睨まれて官界をオミットされた優秀な学生の一部が、第4の権力であるメディアを志向して、我が身を安全圏に置きつつ旗振りを止めなかった点にあります。 そんな例は高名なキャスター他枚挙に暇がないが、いまだに綺麗事を仰る方すら少なくありません、御自身の誤りを謙虚に認めなさいと・・。 >政府も、「日本的な集団主義」の象徴であった企業の家族的 >経営=終身雇用×年功序列を、アメリカの言いなりになって >廃し、格差是正の核であった累進税率の所得税や法人税を >下げる一方、均等税率の消費税ばかり造成して、かつて一億 >総中流といわれた日本社会を、先進国中、中国、ロシア、ア >メリカに次ぐジニ係数(貧富の格差)の国にしてしまったのだ。 >その結果、金持ちが金を持って株価は上がるが、庶民に金が >なくて個人消費は低迷して不景気という、最悪の国になった。 この点は誠に仰る通りだと思いますが、ただジニ係数という単語が持つ或る種の胡散臭さばかりはどうしようもない、何しろ現状肯定派そして否定派すら自論の裏付けとして持ち出しますから。 さて世にいう小泉改革、ところが竹中某という発表した経済論文すらろくすっぽ無い、田舎の経済学者を起用して齎せたあの方向性は最悪でした。 新興宗教の念仏のような何が何でもグローバル・スタンダードの連呼、あの時諸悪の根源の如きに槍玉に挙がった、家族的経営・年功序列・終身雇用の何が一体悪いのか、それどころか家のローンそして教育費その他諸々、最もお金を必要とする世代にとっては非常に合理的なシステムですらあった、正直今でも私はそう思っております。 ところが理解不能なのが、従来の日本的経営を弊履の如く捨て去る事で、打撃を受けると予想された層が、最も熱烈に小泉さんを支持して一票を投じたという紛れもない事実。 メディアとは元来鵺のようなものでしょう、あの時代には視聴率が稼げると踏んだ小泉劇場を盛大にサポートしましたが、メディア・リテラシーが欠如した一団が引き摺られてしまった結果、少なからぬ中流層が貧困予備軍へと追いやられてしまいました。 民主主義が持つ或る種の不条理であると共に、俗に言う自己責任でもあった、私としてはその全てをそう理解しておりますが・・。 回答ありがとうございました。

  • sqqrcxvx
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回答No.7

isokenさんこんにちは。 >今夜 「 高度成長の真実 」 という NHK の特番が放送されますが 今夜でしたか、気付きませんでした、それは見ないといけません・・ >まあ古き良き時代であったのでしょう 超便利になった現在から振り返ると随分いろいろ遅れてましたがね。今の様な窮屈な閉塞感とはまた別なものがありました。 >当時子供の喧嘩程度で 中1の時、同じクラスの男子と口論となり、外でケリ付けようじゃないかと、学校近くの神社の境内(設定が旧い、昭和ですねぇぇ)で取っ組み合いとなりました。ところが相手は柔道の町道場へ通ってるとかで分が悪い。もう負けそうという感じでヘッドロック決められてると、ふと相手の力が緩んで外れる。あれっ?と振り返るといつの間にか背後に忍び寄っていた学校1~2のワルがその相手に蹴りを入れたらしい。続いて1・2・3発と下段中断の蹴りが入る。相手はそそくさと退散。ワル君は、私を一瞥もせず立ち去って行く。 そのワル君、旭か健さんのファンだったんですかねえ、所作が映画ソックリ、とまぁ勝手に思ったものでした。助けられた私も充分にかっこ悪い(笑)事は自覚しましたが・・ と同時に、一種の仁義を感じたのも事実でしたが考えすぎでしょうか?ちなみにその喧嘩相手もMrワルも私も小学校からの知り合いです。 今の少年たちの喧嘩・・詳しくはないんですが、随分殺伐としていますね。とはいえ昔が良かったなどとは申しませんが。 >高度経済成長に関わる思い出がありましたら、 いささか的外れかと思いますが・・・なぜ急にこの話になるのかとも思いますがご容赦いただくとして。 ムカシの女の子の方が美しかった、と密かに思っているのです。ノスタルジーに過ぎないのか・・・多分そうだとしても拘りたい。 同世代を懐かしみ肩を持つのは人間共通のさがかも知れません。コスメや化粧法も格段の進化を遂げています。ディファインを装着している眼は私の若い頃は考えも及ばなかった。確かにあの眼には引き込まれる・・ そうした諸々を差し引いても尚かつての女性の肩を持ちたい私です。 この件でかつて同意見の知人と話した事があります。やはりスピリットの問題じゃないかなと・・・ でもやはり素直に美貌も進化していると捉えた方が無難でしょうか(笑)桐谷美玲などは今をときめく存在だけあって確かに綺麗です。 さてさて exさんへの回答で述べておられた 目立たない様に手を振ってくれる女の子ですか・・・ よ~く分かります。男として光栄であり男に生まれた良かったと思える瞬間ですね。尤も中年真っ盛りになって来ないとこの気持ちにはなれませんが。 これも2種類ありましてね。3人位が同時に笑顔でオープンに手を振ってくれる場合・・・誰に見られても構わない構図です。いま一つが仰るように1人で密やかに合図してくれる場合。後者においてはその瞬間妄想で彼女とホテルへ入ってます。本当に実行できないのが辛い。私など妄想の中で何回ホテルへ行ったのやら。 最後にヘンな文章となりました、毎回ですが。 失礼します。

isoken
質問者

お礼

sq さん、こんにちは。 >超便利になった現在から振り返ると随分いろいろ遅れてましたがね。今の様な窮屈な閉塞感とはまた別なものがありました。 全く仰る通りで、貧乏も不便もみんなで味わえば決して悪い事ばかりじゃない、加えてあの時代明日への展望と夢だけは売るほどあった、そこのところが今の時代とは大きく異なる点でしょう。 >中1の時、同じクラスの男子と口論となり、外でケリ付けようじゃないかと、学校近くの神社の境内(設定が旧い、昭和ですねぇぇ)で取っ組み合いとなりました。 私の時代もそうですが、余りの理不尽や一方的な虐めに甘んじている子供は少なかった気がします。 分が悪くても立ち向かう、その結果ズタボロに負けても肉体的な痛み何て大した事じゃない、それよりも周囲が認めてくれる事の方が大事であったろうと・・。 暴力なんて確かに褒められた事じゃない、ただ喧嘩が出来ない、ファイティング・スピリットすら持ち合わせないとなればこれはもう論外。 私に言わせれば雄の本能を去勢された生き物でして、彼等の将来にとって大きなマイナスでしょう、困難に出会う度に逃げ回る羽目になりかねない、依って昨今の超過保護な風潮には懐疑的です。 構えられたらこっちも構えろ、殴られたら殴り返せ、喧嘩に負けても泣き言を言うな、私が男の子の親だったらそう躾けるのですが・・。 そもそも私はフィジカルだけが取柄で喧嘩が強かった、それ以上に好きで好きでしょうがなかった、周囲にしたらいい迷惑です。 時には暴力衝動が抑え切れずに、さしたる理由も無く不良グループを追い掛け回しておりましたが、それでも親や学校に言い付けるなんて事は一度も無かった、彼等とて男であったのだろうと・・。 >ムカシの女の子の方が美しかった、と密かに思っているのです。ノスタルジーに過ぎないのか・・・多分そうだとしても拘りたい。 まあ sq さんも自己分析しておられる通りノスタルジーでしょう、但し私もその御意見の信奉者ですが・・。 昨今は女の子も大人の女性も総じて綺麗になった、この点は認めねばならない、だからこそ余計に有象無象との差が大きかったかつての可愛い子が、その実態以上に美しかったと錯覚しちゃう、それに思い出というスパイスもありますよね。 さてディファインなんて誰でもかわゆく見せちゃう魔法のグッズ、ただ本当に綺麗な娘さんにはマイナスかも知れません、レベルが違う女の子と同じ土俵に上がるのは損でしょう。 >exさんへの回答で述べておられた >目立たない様に手を振ってくれる女の子ですか・・・ >よ~く分かります。男として光栄であり男に生まれた良かったと思える瞬間ですね。尤も中年真っ盛りになって来ないとこの気持ちにはなれませんが。 私の様なすれっからしでもときめいちゃう、「 駄目だ、駄目だ 」 ・・と必死で残像を打ち消すのですが、その娘の事が一日頭から離れない、なるほど中年になるとはこういう事かと・・。 >後者においてはその瞬間妄想で彼女とホテルへ入ってます。本当に実行できないのが辛い。私など妄想の中で何回ホテルへ行ったのやら。 そりゃもう、よ~~~く分かります、互いに神ならぬ身ですから・・。 ただ肉体的にはともかく、精神的な虜となったら辛いでしょうねぇ、実は危なかった事が一度だけありました。 回答ありがとうございます。

回答No.6

isokenセンセーお邪魔します 昭和48年11月、兄がお腹の中にいた頃です 当然ながら高度経済成長は体感しておりません もう40年前ですが、瀬戸内寂聴女史と同い年の婆さまは結婚するに当たり、土地と建物を購入 まだその頃は田舎だったから坪単価も安かったはず 逆算すると婆さま50代 あと10年したら私もその年齢になりますが、そんなお金ないです(笑) 強烈な印象は二槽式の洗濯機が三洋電機製の「びわ湖」 滋賀県で家電を製造していたんですね なんて安直なネーミングなんだ!? TVはナショナル製の観音扉付き 大正生まれですから、始末に始末を重ねていたんだと思います 昔の人は偉かったですね 今や何でも「普通に」ある時代 衣食住に困ることもなく... そろそろ仏壇の掃除に帰らないとバチ当たりそう(笑)

isoken
質問者

お礼

michiyo 姐さん、こんにちは。 >もう40年前ですが、瀬戸内寂聴女史と同い年の婆さまは結婚するに当たり、土地と建物を購入 >まだその頃は田舎だったから坪単価も安かったはず >逆算すると婆さま50代 >あと10年したら私もその年齢になりますが、そんなお金ないです(笑) そうそうお婆様は確か寂聴さんと何がしかの御縁があった・・、本当に逞しい女性です、私の家内は彼女に非常に傾倒しておりますよ。 さて金が無いのはそりゃもうしょうがない、そういう生き方を選んだ貴女御自身に降りかかる問題でしょうから。 ただ日頃吹いている自説と若干矛盾しますが、金の有る無しが大した事じゃないのもまた確か、日に3度のおまんまが食べられて、どうしても欲しい物買えればそれで十分です。 >強烈な印象は二槽式の洗濯機が三洋電機製の「びわ湖」 >滋賀県で家電を製造していたんですね 例の亀山工場でしょうか? >TVはナショナル製の観音扉付き >大正生まれですから、始末に始末を重ねていたんだと思います >昔の人は偉かったですね 戦後の復興を成し遂げたのも、その後の高度経済成長も全て我々の祖父母そして親のお蔭です。 我々はただそのレールの上に乗っかっているだけで、生まれながらにして豊かな生活を享受出来る、つまり無条件で尊敬しなければならないという事でしょう。 >そろそろ仏壇の掃除に帰らないとバチ当たりそう(笑) 姐さんのそんなところが、 kamejrou さんに気に入られる点でしょうねぇ。 罰当たりな私なんぞは、御先祖様を拝みに行くなんて年に数えるぐらいです。 お爺ちゃん・お祖母ちゃん、ごめんなさい。 回答ありがとうございます。

  • kamejrou
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回答No.5

こんにちはisokenさん。 何?この普通日に質問とは?私は驚いた!私は暇人だから目に留まるが・・・ でしょうね・・・私が小学一年の頃でしょうか? 当時の首相は池田さんなのかな?あまり記憶にありませんけどね・・・ ただ「貧乏人は麦を食え」、あの言葉だけが池田さんの言葉として一人歩きする 池田さんの真意はそこにはないと思うのですが、言葉とは難しい・・・ 言葉とは意志を伝える道具ではあるが、我々はやはり言葉には慎重であるべきでしょうね。 私も大抵乱暴な事を言っておりますから人の事は言えないアハハハ 私はあのバブルの時代のことはisokenさんには何度も言っておりますしね・・・ 今更と言う思いもありますが、まあ質問ですから・・・ 以前にも言いましたけどね、あの頃は海外旅行招待と言うのは普通でしたね。 私はあの頃それを差配しておりましたからね、バブルとは金に糸目をつけない時代、 今思えばそんな時代でしたね・・・ だから私は同伴して色々な国に行っている、isokenさんだから言う、他はhazarさんくらい 私の年代になるとある種の羞恥心がある・・・ 要は自慢気に受け止められないか?とかね、私の年代の人はおおむねそうだと思いますよ。 だから随分嬉しい思いもしたのです(笑) あとは、札幌では毎日がクラブが日課のようでしたね・・・ 会社に請求してくるクラブが4~5軒もあったのかな? 当時で一軒の請求が20~30万もあったのでしょうかね・・・・ 会社も何も言いませんでしたね、私のバブルの記憶はそれくらいかな? まあ、仰るとうり徒花の時代でもあったのでしょう・・・・ ただ、人は閉塞感の中では生きるのは辛い・・・ 私は綱吉の元禄とまでは言わないが、安倍さんが賑やかな風を吹かしてくれないか? 私は期待してますがねぇ・・・。

isoken
質問者

お礼

kamejrou さん、こんにちは。 >何?この普通日に質問とは?私は驚いた!私は暇人だから目に留まるが・・・ 昨日は土曜日でしたよ、私も暇人ですがさすがにそこまでは・・、つまりkamejrou さんの勘違いという事で・・。 さて待ってましたという人物が登場しまして、少々力がこもり以下長くなる事をお許し頂きたいと思います。 >でしょうね・・・私が小学一年の頃でしょうか? >当時の首相は池田さんなのかな?あまり記憶にありませんけどね・・・ >ただ「貧乏人は麦を食え」、あの言葉だけが池田さんの言葉として一人歩きする >池田さんの真意はそこにはないと思うのですが、言葉とは難しい・・・ >言葉とは意志を伝える道具ではあるが、我々はやはり言葉には慎重であるべきでしょうね。 戦後の復興そして高度経済成長の軌跡を語る際、誰を外しても池田さんの名前だけは外せないでしょう、何しろ吉田内閣の蔵相から総理大臣に至るまで、実に15年の長きに渡り日本経済の中枢に関与しておられる、その象徴のような人物ですから・・。 この方が戦後日本からの脱却に寄与した功績は本当に大きいですねぇ、こと戦後に限定すれば岸信介さんと池田勇人さんでしょうか、私が無条件で尊敬する数少ない政治家は。 とにかく昔の政治家は土性っ骨と魅力があった、且つ旧帝大出身者にも豪傑が多いんですねぇ、頭脳と器の大きさを併せ持つリーダー、近年これがほぼ皆無、それはもう見事なほどです。 昨今の政治家は須らく小粒そして人品骨柄が卑しい人物が少なくない、票の為直ぐに日和るし大衆に迎合し世論に阿ねっちゃう。 君達の目的は歳費とステイタスの保持なのか、いい加減にしてくれと・・、私なんかはそう思ってしまいます。 ところで sq さんじゃありませんが、私は若き小沢一郎に随分と期待していたんです、新生党・新進党そして自由党に至っても応援してました、それこそ手弁当で駆け付けたいほどに・・。 ところが彼も変わってしまった、竹下内閣の官房副長官そして若干47歳で就任した自民党幹事長時代は、本当に輝いていたんですが・・。 さて 「 貧乏人は麦を食え 」 そして 「 所得倍増計画 」 、貧しさからの脱却という時代背景にあった我が国のあの時代を象徴する、余りにもインパクトがあるキャッチ・コピーでしょう、そしてその2つが共に一人の政治家の口から出て来たところが誠に興味深い。 ただ kamejrou さんが仰る通りでして、池田さんが意図する真意が当時全く伝わらなかった訳で、コメントの前後を切っちゃうと事実がまるで違ったものになる、メディアの恣意的な情報操作の一手法でしょう。 ところで旧大蔵省出身の政治家で、経済面での積極策を取る方は圧倒的な少数派、この点は大蔵出身政治家個々の政治信条を比較すれば一目瞭然。 つまりリスクを取らずに税収だけを上げようとする、所詮役人なんですね、そして出身母体の省益に縛られている、総需要抑制なんて馬鹿な政策を唱えた昭和の黄門・福田赳夫さんなんかその典型、不況時のそんな舵取りは先細りと座して死を待つ事を意味します。 まああの方の場合、半分程度は日本列島改造論を唱えインフレ方向に誘導してしまった田中の角さんに対する当てこすりだった、そう理解しておりますが・・。 >以前にも言いましたけどね、あの頃は海外旅行招待と言うのは普通でしたね。 >私はあの頃それを差配しておりましたからね、バブルとは金に糸目をつけない時代、今思えばそんな時代でしたね・・・ >だから私は同伴して色々な国に行っている、isokenさんだから言う、他はhazarさんくらい >私の年代になるとある種の羞恥心がある・・・ >要は自慢気に受け止められないか?とかね、私の年代の人はおおむねそうだと思いますよ。 >だから随分嬉しい思いもしたのです(笑) この点は kamejrou さんと私の年代ですら相当な開きがある、ましてやそれ以降ともなれば尚の事そうでしょう。 教育と移り行く時代背景の変遷が、特に精神的な面での化学変化を齎した、そういう事と理解しております。 >あとは、札幌では毎日がクラブが日課のようでしたね・・・ >会社に請求してくるクラブが4~5軒もあったのかな? >当時で一軒の請求が20~30万もあったのでしょうかね・・・・ >会社も何も言いませんでしたね、私のバブルの記憶はそれくらいかな? >まあ、仰るとうり徒花の時代でもあったのでしょう・・・・ まさか歴史や古い映画の話ばかりではなかったでしょうねぇ、まあ任侠道の話なんか出来るはずもありゃしませんが・・、 kamejrou さんがクラブのお姉ちゃん達とどんな語らいをしていたのか非常に興味があります。 それこそまさに 「 ザ・バブル 」 、私とて毎日が銀座そしてタクシーで午前様の日々でした。 ところで随分以前の話ですが、 ex さんの 「 バブルの思い出 」 ・・というお題に回答した事があります。 恐らく行き過ぎたメディアの刷り込みのせいでしょう、あの時代をとかく何やかやと言われる方が少なくありませんが、個人的にはバブルを経験していて本当に良かったし楽しかった、今以てそう思います。 何せ僅か数年のピンポイント、近代以降の長い世界史上に於いても恐らく人類が数度しか経験していない事象でしょう。 我々は例えどんな時代でも生き延びねばならない宿命を持ちます。 敗戦直後の我が国だってそうだった、皆が皆辛酸を舐めつくし地べたを這いずり回って生きて来たんでしょう、その全てを時代のせいには出来ないんですね、潰れちゃうのは須らく当人の資質に属する事柄ではないでしょうか。 >ただ、人は閉塞感の中では生きるのは辛い・・・ >私は綱吉の元禄とまでは言わないが、安倍さんが賑やかな風を吹かしてくれないか? >私は期待してますがねぇ・・・。 私もそうです。 とかく批判される方が少なくないとの印象ですが、安倍さんはやっぱり日本の事を真剣に考えておられる、その点だけは恐らく間違い無いかと・・。 こと経済面に関して言えば、金融行政に頼り過ぎる心配な面が無いでもありませんが、特に悪夢の民主党政権に於いて喪失された国家的な自尊心、国家百年の為にもこの点はとっても重要です。 いや~、やっぱり長くなっちゃいました。 回答ありがとうございます。

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    国際外交、軍事的には大きな力を持つロシアですが、素直な疑問としてなんで経済成長できないのでしょう?BRICsがもてはやされた2000年当時は経済大国になっていくことは疑われていなかったし、他国と比較しても急激に成長して新しい富裕層が産まれた時期もありました。それが今では人口がロシアの三分の一強の韓国よりもGDPが低い状態。政治的にはプーチンが国際的にはお騒がせなものの国内では絶大な支持率があるので多少強引な政策も打てたはず。天然資源や農産物もある中で不思議です。

  • バブル期の20代の給料

    昭和の高度経済成長期の20代の給料っていくらくらいだったんですか? 給料は明記されていませんが、昭和の経済成長期を背景にした小説を読んでいると何か経済感覚が違うような気がしました。 当時は物価も高かっただろうし、物凄い給料が高いんだろうなぁと想像していますが。