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他人は自分の鏡

宗教のカテゴリがないみたいなのでこちらに質問させていただきました。 よく、他人は自分の鏡だ、なんて言います。 仏教の教えや経典で、同じ様なことを説いている教えや経典はありますか? よろしくお願いします。

みんなの回答

noname#224207
noname#224207
回答No.4

出典や語源は寡聞にしてしりませんが、諺としては沢山あります 「人のふり見て我がふり直せ」 「人こそ人の鏡」 「人を以もって鑑かがみとなせ」 「下手は上手の手本」 「上手は下手の手本」 「他山の石」 「殷鑑(いんかん)遠からず」 仏教では他人を鏡とはせずに自分の心を鏡にたとえます。 鏡はなんでも写しますが、鏡自体は何を写しても変わらないことをたとえに使います。 汚い物をうつしても、鏡が汚れることがない、綺麗なものを写しても鏡が綺麗になるわけではない、ということをしきりに言います。 常に心を綺麗にしておけ、ということです。 有名な問答としては、慧能という人の逸話として伝えられています。 参考 慧能 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/慧能 抜粋 神秀の詩 身是菩提樹 心如明鏡臺 (身はこれ菩提樹 心は明鏡台の如し) 時時勤佛拭 莫使有塵埃 (時時に勤めて佛拭し 塵埃を有らしめること莫れ) 慧能の詩 菩提本無樹  明鏡亦無臺 (菩提に本から樹など無い 明鏡にもまた台など無い) 佛性常清淨  何處有塵埃 (仏性は常に清浄だ 何処に塵埃が有るのか) 心是菩提樹  身為明鏡臺 (心が菩提樹であり 身を明鏡台というのだ) 明鏡本清淨  何處染塵埃 (明鏡は本から清浄だ 何処が塵埃に染まるというのか) この仏教での考え方と同じような考え方を朱子学でも理と気という考え方で説明しています。 悪い気が清浄で道徳的である理を妨げるという考え方です。 悪い気を取り除け、と主張します。 儒教にせよ仏教にせよ他人の真似をしろ、とは主張しませんので、あくまでも自分が主体です。 とはいえ、実際にはなかなか難しいので、自分の欠点に気付くには他人を見ろという諺が沢山つくられました。 自分のことは棚に上げて他人の悪口を言うのは世の常人の常ですので、これを戒める言葉や教えは世界共通です。 聖書にもあります 参考 「汝らの中、罪なき者、まず石をなげうて」 ヨハネによる ... - 聖学院大学 www.seigakuin-univ.ac.jp/shukyo/ryokusin/PDF 20140110 大学全学礼拝...

noname#247876
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。

noname#210968
noname#210968
回答No.3

  眼不自見、刀不自割  目は自分自身を見ない。刀はその刀身を切ることができない。  禅の言葉だそうです。  日常的でわかりやすい例をあげると、 もしあなたが、あいつとはソリが合わない、とおもっていると、 相手もそう思っているということです。  刀のほうは、リストカットがどうこうではなくて、ええと、 どういえばいいのか、まあ、刀自身がみずからを壊すことは ありえない、ということになります。刀が投身自殺するなんて ことは、かんがえられませんから。  私は坊さんではないので、上の解釈を世間並みのアドバイス に直すと、自分以外の人にはできるだけやわらかい心で接しま しょう。そうすれば、相手の心も自然に和んでくるかもしれま せん。  また、武器は相手を傷つけるだけに使う道具で、しかも、 相手だけでなく、自分の憎しみや恨みも増長させるだけなので、 使わないにこしたことはありません。自分に心があるように、 相たいする相手にも心はありますよ。  大体、こんなところでしょうか。  出典については、「眼不自見、刀不自割」で ネット検索してください。ただ、 漢字だらけで意味わかりませんけど。

noname#247876
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。

noname#208724
noname#208724
回答No.2

私は仏教を知らないので、論語で調べてみましたところ、論語には、このようにあります。 子曰、可与言、而不与之言、失人。不可与言、而与之言、失言。知者不失人、亦不失言。 共に語り合うべき人物に出会いながらそうしないのは、友を失うことである。共に語るに足りぬ人物とばかり語り合うのは、言葉の浪費である。知者は友を失うこともなく、言葉の浪費もしない。 子曰、徳不孤、必有隣。 徳は決して孤立しない。必ず理解者が現れる。 総じて。自分の鏡と呼べる人は、語り合うべき友であり、また、よき理解者である。 ※私の回答は、基本パクりなので、意味を問われても答えられませんので、ご自分でお考えください。

noname#247876
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。

回答No.1

確かに、ケチな人間に限って、周りの人の事をケチだと 文句を言うものです。 そもそも“他人”という存在は、自我成立のための必要= 自我仮説(記憶=時間の流れ)と空間仮説(予測=空間の 広がり)の相補分化において、その「自我仮説」=プラ ンク定数hの収束(認識可能性の時系列化=物体収縮= 宇宙膨張)の、時系列化に漏れた他の認識可能性として、 「自我仮説の射影」だと言えるのです(他人=自分の影)。 つまり他人に好ましくない性質があったとしても、それ と同じ底流が、自分にも流れているのだ。

noname#247876
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。

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