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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:音楽の美的把捉と病的把捉とは?(ハンスリック))

音楽の美的把捉と病的把捉とは?(ハンスリック)

このQ&Aのポイント
  • 音楽美をめぐる次の見解についてみなさんは どうお考えになりますか?次の議論についての解説と評価になっています。
  • ハンスリックは音楽が他の芸術よりも速く感情に作用し、感傷や感動、陶酔などを引き起こすことを指摘しています。
  • 音楽の美的把捉には純粋聴と音楽聴という二つの局面があり、純粋聴よりも音楽聴が重視されています。

質問者が選んだベストアンサー

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noname#208724
noname#208724
回答No.1

>美の享受は 初めに美的把捉が前提として・構えとしてあって 得るものではない。 すばらしいご見解デス。真理を物語っているとしか思えません。 音楽とは、人の記憶が経験を呼び覚ますための、テクノロジーである。そして過去をこの場に連れ戻すと言ったほうが良いのかもしれない。過去に悲しんでいた経験があるならば、その悲しみを。喜びがあったならば、その喜びを、再び手にしたかのような二重の喜びに変えてしまうような、まさに狂気の沙汰である。そしてそこに乞食がいたならば、みずからが彼を誘い肩を組み、共に歌うことを願わざるを得ないような、その願いが叶ったならば、かつて我は乞食であったのだと、世の中に向かって宣言せずにはおれないのだ。それは決して過去を思い出す惨めさではなく、むしろ誇り高く、そしてより高く高貴なる魂へと昇華させるための、過去から未来へと先駆する決意性の表れではないだろうか。人は誰しもが産まれ落ちれば乞食である。歴史の中にかつて乞食でなかったものが、ただの一人もいなかったことを我は宣言するのだ。 いかにしても生きようとする、生命力を発揮させる音楽とは、それほどまでに人を高貴へと導くものではないだろうか。と思ったのデス。高貴すなわち高低、速遅のキワマリを知るのデス。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ハンスリックが重視する《音楽聴》をめぐってですが そこで:  ▲(趣旨説明欄) (し) 《精神的活動なくしていかなる美的享受も存在しない》  ☆ というように《精神》が強調されていると言います。ではその場合の《精神》とは 何ぞや? 國安洋によれば次のようです。:  ▲ (國安:ハンスリックの《音楽聴》においてはたらく《精神》) ~~~~~  (す) ここでの精神とは作品の《特殊音楽的なもの》(ほかにも《自立的な芸術作品の資格を与えるもの》《芸術的に個性的なもの》《理念的内包》と説明されている)を認識する能力であると同時に ファンタジーの追跡によってみずからフォルムを生みだしていく創造的精神でもある。  (せ) つまり 作品の認識能力として作品に対して受動的であると同時に 作品に対して創造的にかかわる能動的な力でもある。  (そ) そしてこのことは 音楽聴が音楽と聴者との間の交替する流通関係 不断の《受けること》と《与えること》とが意識されず電光のごとく行なわれる精神活動であることを意味している。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 質問者は 何を隠そう 音楽には・つまりその作り手の側における素養としての音楽には 疎いものですから かえって大胆にものを言っています。  それで賛同いただきましたところとしても:  ▲(け) いかなる関心ももたずに耳を澄まして音楽に聴き入ること[・・・]そのような聴き方に対する定まった呼称はないが 《純粋聴》とよぶことができるであろう。  ☆ というときの《純粋聴》であっても いま引用した《精神の受動的かつ能動的なはたらき》は 追ってついて来るのではないかと思ったのでした。  この純粋聴の定義も ややこしいと感じます。  ▲ いかなる関心ももたずに耳を澄まして音楽に聴き入ること  △ 音楽は何となく好きだという理由をもってそのほかには特別の関心を持つことなく流れて来る音楽に耳をかたむけて音楽にしたしむこと  ☆ でよいと思うのです。そのとき 《音楽とのあいだに精神活動をともなった流通関係が起きる》と言ってよいと考えます。つまり 純粋聴はそのまま音楽聴である。と。  すなわち・取りも直さず おっしゃるところに通じていると言ってよいでしょうか。:  ★ いかにしても生きようとする、生命力を発揮させる音楽とは、それほどまでに人を高貴へと導くものではないだろうか。と思ったのデス。高貴すなわち高低、速遅のキワマリを知るのデス。  ☆ 精神のはたらきについては 《高貴なる魂》として触れておられるようです。  過去との対話のごとき精神活動をうながし そこから未来へとも歩を進めるのだとおっしゃっていましょうか。  乞食とは 能書きやカザリが要らないといった意味に受け留めました。  みなが乞食だというのは けっきょく間接的にせよ社会生活は共同生産であり共同建設であるから 互いに共食であるという現実のことでしょうか。  その現実を音楽はつねに音のしらべで伴奏しているといったことなのでしょうか。  ハンスリックの側に立つご見解があるかも知れません。

その他の回答 (1)

noname#208724
noname#208724
回答No.2

Bragelonne 様 まったく仰せのとおりで、《純粋聴》こそが精神活動の入り口であり、高貴なる魂の扉へと通じるのだと考えておりマス。そしてそれは、能書きやカザリが要らないといった意味で乞食であり、私たちは共同存在であるがゆえに、分かち合い共に食事をするのであり、世界・内・存在であることの真理を、音のしらべとして伴奏できるのだと思いマス。伴奏する者と、純粋に耳から受け入れ、みずからの先入である経験から、未来への存在可能性へと至る者、両者が合わさってはじめて音楽は完成すると思ったのデス。私の結論としては、それは決してあやまつことのない天上人による押しつけではない、あくまで純粋なる高貴、という純粋聴でなければ音楽の完成ではないということデス。 しかしこのように言っておきながら、実は私も ハンスリックの側に立つご見解が、どなたかから発せられるのではないかと、少しの期待をしているところデス。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ しかしこのように言っておきながら、実は私も ハンスリックの側に立つご見解が、どなたかから発せられるのではないかと、少しの期待をしているところデス。  ☆ だいたい ひととおりのことを 《純粋聴》の側からは言えたと思いますので このあたりがわたしも気になるところです。  あまり小心でもないのですが――図々しいくらいですが―― こと音楽にかけてはズブの素人ですから いくらデカイ口をたたいていても やはり気がかりに成ります。  世界‐内‐存在として大地に足をつけてあゆみつつ 純粋なる高貴の花をも咲かせて行くといったことでしょうか おっしゃるところは。  反対意見の方々は それでもわれわれとも互いにみなが共同存在であるのですから 異なった意見を述べたとしても まづはそれとして受け留めてもらって そのあとじゅうぶんご見解をしっかりと明らかにしてくれるものと思っています。  果てさて どうなりましょうか。

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