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「利休にたずねよ」について教えてください。
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高麗の女 これがフィクションというか、裏付けはない。 あとは解釈の有り様でいろいろある中の一つ。
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- titelist1
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追加記述です。 映画も大河ドラマも利休は何故に切腹を命じられるのか分らないとの設定です。だったら申し開きをすれば良いのにそれをまったくしていません。利休には申し開きできない理由があることが判っていたのです。 千利休は茶道界では神様みたいなものですので、悪者に描くことは批判を受けるので出来ないのです。だから馬鹿になった秀吉と小ずるく陰湿な石田三成を悪者にせねばならない事情があるのです。 映画では石田三成に徳川家康を毒殺せよと頼まれ、それを実行しなかったシーンがある。このことを決定的理由にしていた。創作だとしても木像事件などだけでは切腹させられる理由にならないことを示しているのです。映画では暗殺指令を遂行できない者は死んでもらうしかないからです。
お礼
重ねてのお書き込みありがとうございます。厚く御礼申し上げます。
- titelist1
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私もテレビで数日前に見ました。折りしも黒田官兵衛の大河ドラマと重なっていたので比較しながら見ていました。「利休にたずねよ」の映画の方がかなり史実に近いと思いました。 昔が利休の切腹には諸説があり、(1)利休の茶器鑑定不正による蓄財説 (2)大徳寺山門木像事件 (3)利休の娘所望拒否説 (4)朝鮮征伐批判説 (5)権力抗争説 などがある。 鑑定で蓄えた冨で利休が大徳寺の山門建築の費用を出した。その感謝の気持ちで大徳寺が木像を作成したのを利休は辞退しなかったことは事実であり、石田三成に揚げ足を取られたのだろう。利休の娘と妻は利休切腹の後に石田三成によって拷問を受けて死んでいるので、娘所望拒否も関係しているだろう。朝鮮征伐を公然と批判していたことも事実である。しかし、このことだけで利休を切腹させる理由には説得力が無い。私は権力抗争説と思っている。 大友宗麟の日記に公儀のことは秀長、内々のことは宗易(利休)に存ずると書いている。秀長と利休は一連托生で秀長の病死は利休の存在価値を低下させた。堺衆はもはや不用で、石田三成や増田長盛らの五奉行派には邪魔な存在でもあった。五奉行が豊臣集権派とするならば、徳川・伊達・前田の大名分権派に利休が組したとされる。利休は豊臣政権にとって獅子身中の虫になっていたのである。ここで切腹させなければ、秀吉の死後に反豊臣側の仲介者になった可能性がある。
お礼
権力抗争説のご意見ありがとうございます。いい勉強になりました。
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