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江戸時代の日本は世界七帝国の一つ。
大黒屋光太夫への聞き取りなどをまとめた『北槎聞略』には、光太夫がペテルブルクで聞いた情報として「日本は世界の七帝国の一つ」というくだりがあるそうです。 七帝国として、ロシア、中国、トルコ、神聖ローマ帝国、ムガール帝国等の名があげられています。 ロシアが当時の日本を「帝国」と認識していた根拠は何でしょうか。 発信元は、オランダでしょうか。 また、帝国と認識していたのであれば、当然、元首は誰ということになると思います。 誰を日本の元首だと思っていたのですか。 よろしくお願いします。
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下記など少しは参考になるかも知れません。 〇「国号に見る「日本」の自己意識 (日本像を探る)/前野みち子」 『言語文化研究叢書. v.5/名古屋大学大学院国際言語文化研究科/2006』(27-62頁) http://ir.nul.nagoya-u.ac.jp/jspui/handle/2237/8151 <17~21/36>(43-47頁) 西洋側の呼称としての「日本帝国」 <21~24/36>(47-50頁) 「王国」か「帝国」か 〇「歴史にみるロシアと日本の出会い:日本の漂流民とロシアの対応/平川新」 『東北アジア研究 2号/東北大学東北アジア研究センター/19980331』 http://ir.library.tohoku.ac.jp/re/handle/10097/41022 ほか関連URL ・「前近代の外交と国家:国家の役割を考える/平川新」 『近世史サマーフォーラムの記録/近世史サマーフォーラム2009実行委員会/2010-03-03』 http://ir.library.tohoku.ac.jp/re/handle/10097/48766 ・「スペインの対日戦略と家康・政宗の外交/平川新」 『国史談話会雑誌 巻50/東北大学文学研究科日本史研究室/2010-03-31』 http://ir.library.tohoku.ac.jp/re/handle/10097/48951 ・「慶長遣欧使節と徳川の外交/平川新」 『『仙台市史』特別編 巻8 慶長遣欧使節/仙台市史編さん委員会/2010-03-31』 http://ir.library.tohoku.ac.jp/re/handle/10097/48950 なお、一つの御質問に際し論文8本等を読破される探求心旺盛な kouki-koureisya 様のことですから、上記なども既読の場合は、 笑って許して下さい^^
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- TANUHACHI
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こんばんは、夜分に失礼します。 先日のご質問以来、気にはなっていたのですが、質問者様は政体と統治機構を混同されているのではないでしょうか。 これは極々平均的な意味になりますが、現在この地球上に存在する「国家」と呼ばれる政治形態が「何に立脚しているのか」を冷静に観ていく必要もあります。 国王がいるからそれは「王国」である、となれば、国王が全ての権力を掌握していることになり、それは現実からかけ離れてもしまいます。 デンマークを例に挙げましょう。デンマークには女王がいます。もし質問者様の理解に基づくならば、デンマークは王制国家となるはずです。 けれども実際にデンマークの行政を司っているのは「デンマーク政府」でありその首長は首相です。国王ではありません。そして行政と同時に立法府としての議会があります。そしてこれらを規定するのは全て「憲法」なり「国家基本法」であるとの話になります。 デンマークの首相は国王によって任命されますが、実質的に議会の支持を要件とし、こうした手順も全て憲法の規定に遵って行われ、国王の権限は憲法に規定されることとなります。こうした政治形態を立憲君主制と呼びます。 ここからが少しややこしい話になります。「憲法や議会があっても絶対君主制や専制君主制の政体をとるケース」の存在です。憲法があってもその君主に絶大な権限を与えているならば、それは絶対君主制であり、国家の統治権を君主あるいは少数の者が独占し、かつ恣意的に行使する政治体制は専制君主制となります。 こうした事象を歴史に適用していきますと、君主制の概念をどう扱うかとの問題に戻りもします。 『北槎聞略』に覧える「帝国の記載」ですが、ロシア・中国・神聖ローマ・ムガール・トルコにはそれぞれ皇帝がおりました。けれども日本には皇帝はおりません。足利義満は自らを「日本国王」とは外交文書に記載してもいますが、対内的にはこの称号を一度して自らで用いているとの史料は未だに発見されてもいません。 信長も「一つの国に二人の王は要らぬ」と遺しましたが、その一方の「王」が自らではあっても、もう一方が誰であるかを明確にしてもいません。もし「王=天皇」であるならば、実質的に武家の棟梁である「将軍」の存在を説明することも出来なくなります。実質的に将軍が公家と共に序列化されている意味も考えていく必要が生じます。 細かい問題になりますが、日米和親条約の英文にある“Empire of Japan”が日本文でどうなっているかを史料に求めてみるならば単に「日本」となっているだけであることも、『大日本古文書』の「幕末外国関係文書」で確かめれば確認することも容易です。どこにも「皇帝」との意識は示されてもいません。 そしてもし「皇帝」がいたならば、その勅使がアメリカ側との交渉の席に着くはずではありませんか?。けれども実際に対応したのは幕府の役人です。 こうした江戸中期から幕末に掛けての国家間の外交交渉の窓口がどこであったかを考えても、先ずは長崎を窓口にしていたことを忘れてはいませんか?。その長崎には長崎奉行がおり、朝廷側の人間が職務にあたっていたとの話があるでしょうか? ○○だから××と単語レベルの回答を求めても無意味であることは先日もお話ししたとおりです。そして素朴な疑問ほど恐ろしい質問も他にはありません。それほど簡単に答が出せるならば、歴史学に携わる者が苦労する必要もないことになってしまいます。 先ずは御自身で調べ、この史料に関して見解Aと見解Bがあるが両者の間で違いがあるのはなぜか等の様に論点を整理してから質問されることをお勧めします。 答だけを知りたいでは、受験生と同じ発想でしかありません。
お礼
ご回答ありがとうございます。 これは、「江戸時代は欧米諸国から見れば王政ですか」という前回の私の質問に対するご指摘のようですね。 前回の質問は、王がいるから王国で、それなら「王政」になるのだろう、徳川時代も天皇がいたから「王政」ですかという、レベルの低い質問でした。 国王がいるからといってそれを「王国」とは呼ばず、まして「王政」と呼ぶことはとんでもない間違いということは分かりました。 私の質問履歴は公開しています。 いつもいつも深く調べもせず思いつきで質問ばかりして申し訳なく思っていますが、ここは歴史好きの仲間の交流の場であると勝手に解釈しています。 多くの方々から回答を頂きますが、いつも「愚問賢答」に感謝しています。
- izuhara
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戦国時代から徳川初期にかけての情報が根拠ではないでしょうか? 諸大名の支配する「国家」を武力で従わせていた「皇帝」=徳川将軍の支配する帝国であると。 宣教師や商人から当時の日本の武力については、広くヨーロッパに伝わり、軍事国家として意識されていたものと。 ちなみに日米和親条約の原文も「empire of japan」と表記されています。
お礼
ご回答ありがとうございます。 諸大名の支配する「国家」を武力で従わせていた「皇帝」=徳川将軍の支配する国であるから帝国であると、いろんな情報から認識していたのですね。 その考えから日米和親条約でも「empire of japan」と表記されているのですね。 よく分かりました。
- あずき なな(@azuki-7)
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天皇が居るんだから帝国 それがロシアの認識でしょう しかし江戸時代の国家元首は将軍です 政府は幕府だったので幕府の長が国家元首
お礼
ご回答ありがとうございます。 「天皇が居るんだから帝国」「しかし国家元首は将軍」 なるほど!!明快です。 質問あってこそ、このカテは成り立っています。 azuki-7さんの“質問”に負けぬよう、良い質問をしたいと思っています。
お礼
いつもご親切な回答、真にありがとうございます。 また、ピタリの論文を紹介して下さったので、わくわくしながら読みました。 読んでいるうちに次から次へと興味が湧いてきて、自分が何を質問したのか忘れるような始末です。 ロシアが当時の日本を帝国と認識していたことに驚いて、その根拠は何かと、疑問に思って質問したのですが、 「戦国時代後期から江戸時代初頭の時期に、日本を帝国とみなし、秀吉や家康を皇帝と呼ぶ言説が西洋人の間に広く形成されていた」のですね。 オランダ商館からの情報もさることながら多くの商人や宣教師を通じて日本の情報は西洋にいっぱい伝わっていた、ということを再確認しました。 ロシアは、漂流民から日本に関する多くの情報を想像以上に得ていました。 さらにケンペルの著作で、「日本はヨーロッパ世界に帝国として知られることになったのではないかと思われる」ということですね。 もう一つの質問は、日本の元首を誰と思っていたのか、ということですが、多くの事例から将軍を元首と思っていた、ということが分かりました。 ご教示の論文「国号に見る「日本」の自己意識 (日本像を探る)/前野みち子」から、後日私自身が見やすいように一部コピーしておきます。 (以下論文から抜粋) つまり、ロドリーゲスの指摘するところによれば、日本はあくまでも「王国」であるが、何人かのヨーロッパ人は日本の本来の国王(天皇=内裏)の存在を知らずに、その将軍(最高司令官)を国の元首と見なして「皇帝」あるいは「王」と呼ぶ間違いを犯しているという。この誤解は例えば、彼と同じ時代に約 20年間長崎に在住したスペイン人アビラ・ヒロンの『日本王国記』にも見られるもので、この著者は将軍家康を「王」と記し、日本を彼の滞在記のタイトルどおりに「王国」と見なしている。 質問することが楽しみになっています。 今回もいろんなことをいっぱい知ることができました。 感謝申し上げます。