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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:アキレスと亀がなぜ不思議でないのか?)

なぜアキレスと亀は不思議でないのか?

このQ&Aのポイント
  • アキレスと亀のパラドックスについて独自の視点から質問します。
  • 多くの人がアキレスと亀の問題を不思議とは思わず、それを説明するために無限級数を用いることにも抵抗感を持ちません。
  • この問題は数学の問題だけでなく、社会学など他の分野でも考えられる可能性があります。皆さんの意見をお聞かせください。

質問者が選んだベストアンサー

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  • tmpname
  • ベストアンサー率67% (195/287)
回答No.45

まあ我々は普段、日常言語を使って論理を組み立てるのですが、日常言語は曖昧な点が多いのでどうしても混乱が起きる場合が出てくる。 数学はそれを何とかするために一つ一つ約束事を決めて議論を進めていこうとする。この辺は多分数学者の人びとがさんざん苦労したことで、われわれは現状の結果をみているのですが、それでもその約束事がわれわれの通常の感覚からは乖離している、という事が出てくることがあるのは避けられないのだと思います。 まあ一応補足ですが、一般に「AならばB」の否定は「Aであって、かつBでない」です(AならばBでない、ではない)。ゼノンの論理の場合はAの部分が「亀がさっきまでいた地点にアキレスが付いた時には、亀はその先をいっている」という部分で、Bの部分が「アキレスはカメにおいつけない」になる。 ゼノンの主張は「Aが成り立つ、よってBである」という主張でした。これは質問者さんが書いてある通り3段論法と呼ばれるもので、つまり * Aが成り立つ * AならばB * (A、かつ(AならばB))なのでBが成り立つ という論法でした。よってこの論法を否定するには「Aならば B」の部分を否定すればよく、それはつまり「Aであって、かつBでない」世界があることを言えば良い(それが数学では証明になる)、という事です。

kireinahanabi
質問者

お礼

【ありがとうございます。問題が解決しました!!!(みなさんにむけて)】 ありがとうございました。おかげでどこに問題があったのかはっきりしました。 まさにtmpnameさんのおっしゃることが数学では証明になる、しかし日常言語とは乖離している。その差が問題だったのでした!!!! (tmpnameさんは、ときおり(それが数学では証明になる)とカッコ書きを挿入することを忘れませんでした。私がこうしてここに議論を整理できるようになったのも、その数学を客体化した視線からのご指摘をいただいたことによるところも大きいです。改めて、その知的姿勢に敬意を表しつつ、感謝したいと思います) 数学は混乱を避けるためにそういう約束事をした、だからそれはそれとして尊重しよう。しかし、日常言語には曖昧なところもあり混乱もしがちであるが、であるがゆえに、数学より幅広いことを指し示しえる。このため、日常言語の論理はきっちり数学の論理には翻訳されえない、互いの論理が一部乖離しているということが、厳然たる事実としてある、そのことを失念してはいけない。 そしてもちろん、我々は、日常言語は、先ずもって日常言語の論理をもとに使われているとして理解することから始める。 この「アキレスと亀のパラドックス」の「驚き」の源泉は、その日常言語の論法によるところがきわめて大きい。それが日常言語で、その論理をもって、説明されているからこそ、アキレスと亀は「驚き」のパラドックスなのであったということです。日常言語の論理が現実を写し取れていない、(それはある意味当然ですが、それにしても、)そのことを直接に我々に突きつけてくるからこそ、それは「驚き」なのでした。 ところが、それを別の論理構造を持つ数学に「翻訳」してしまうと、それは比較的容易な証明問題として定式化される。ただし、その定式化は、「驚き」の所在をまさに回避した形でおこなわれてしまっている。 だとすれば、別の理由を持って始められた作業ならそれでもいいが、「驚き」の源泉を探求しようとするのであれば、それは問題を解決したことにはならない。「禁じ手」を「禁じ手」と思わない考え方は、数学とは整合していても、日本語の論理を理解しているとはいえない。であるがゆえに、そうした数学的理解は、「アキレスと亀のパラドックス」をある「解釈」で理解しているとはいえても、「アキレスと亀のパラドックス」の「驚き」を解明したとは到底いえない。 具体的にはどういうことか? それはすなわち、ごく簡単に言うと、ゼノンの議論は、三段論法と似たようなものではありますが、数学上の三段論法そのものではないということなのです。ゼノンは「AならばB」といったのではなく、「AゆえにB」といったのですから。 そうです! ゼノンは「AならばB」ではなく、「AゆえにB」といったのでした!!!! 日常用語としての「ゆえに」には、数学的「ならば」には含まれていない、しかしきわめて重要な、「論証関係」ともいうべき関係性が含意されています。「ならば」と「ゆえに」が(互いに意味の重なりがあるとはいえ、)完全互換可能でないことは、自分の言葉で試してみるだけでも簡単にわかるでしょう。 このため、「Aであって、かつBでない」世界が存在することを証明しただけでは、ゼノンのパラドックスを論駁したことにはならない。論証があり得るとすれば、それは、すくなくとも、「Aであって、かつBでない」世界があることを、「Bでないことと整合的であることが保証される仮定・概念・論理構造を追加していないこと」とともに論証したものでなくてはならないのです。 考えてもみてください、数学が存在することを証明した、「Aであって、かつBでない」世界とはなんでしょうか?それはつまり、「アキレスが亀の元の位置までたどり着いたときには、亀は必ずさらに前に進んでいる」ことと「アキレスが亀に追いつく」こととを同時に成立させる世界です。それはつまり、そう、この我々の世界です!つまりわれわれは、数学に論証してもらうまでもなく、両者が同時に成立する世界があることを了承しています。逆に言えば、数学がしたことは、この現実世界を数学的に記述したにすぎない。 そうした「現実」がここにはある。それはゼノンだって知っています。それをゼノンは、「ゆえに」という論理で、前者と後者を(後者を否定形にして)結びつけてしまった。その論理と現実の矛盾こそがパラドックスなのです。だから、現実を数学的に表現しただけでは証明にならないのは明らかなのです。 数学の言葉に直せば、「Aであって、かつBでない」世界の存在証明は、「AならばB」を否定するための正当な論証ではあっても、「AゆえにB」を否定する論証にはならないということです。 たとえば、「無限」を導入して、「アキレスは亀に本当は追いつくのだ」などといってみても、そこでの「無限」なる概念は、実際にアキレスが亀に追いつく世界像(モデル)と整合的であることがあらかじめ保証されているので、その概念に依拠した「証明」は、壮大なる循環論法、もしくはトートロジーに過ぎない。それは本当の意味での「驚き」の解明では決してないということなのでした。 ちなみに、少し調べていて、私のいいたいことをぴったり言ってくださっていらっしゃる方を見つけました!!もし、上に説明がわかりにくければ、「ゼノンの逆説について質問です。 「足の速いアキレスも、のろい亀には追いつけ...」というnaoe35frontさんの質問に対する、sarurusa2012000さんの回答をみてください。とてもわかりやすく、私のいいたいことを説明してくださっています。 もともとの私の質問(の一部)は、「なぜ、多くの人が、自信を持って、ああそれはね、無限級数で云々と説明し始めることに抵抗を感じないのか、」そこがまったくわかりません。ということでした。そして、そういう質問のしかたをしたにもかかわらず、たくさんの人が、その文章そのままの様子で、ああそれはね、と話をされたということ自体、私にはおどろくべき発見でした。 しかし、その質問にたいする答えもどうやらみえてきたようです。それは、おそらくは、この数学と日常言語の差に対する「感受性の欠如」と、(tmpnameさんのように(それが数学では証明になる)と留保をつけることのできる方はとてもまれで、)数学的に正しければ普遍的に正しいはずという「先入観」がひどく強固なものである、ということなのだとおもいます。 問題は一応解決しました。すごくすっきりしました。 長いことお付き合いくださいまして、ありがとうございました。 みなさま、「アキレスと亀」、本当に不思議ですね! いや、びっくり!!!

kireinahanabi
質問者

補足

ありがとうございます。 頭がおかげでだいぶすっきりしました。 しばらく様子を見てから、お礼に書かせていただきます。(なお、そこでのお礼は、tmpnameさんのみならず、ここで書き込まれた多くの方々に向けて書く面がありますので、一部、tmpnameさんに対するお礼としては必ずしも適切でない表現もあるかもしれませんが、tmpnameさんには素直に感謝しておりますので、その点、誤解なきようお願いします。)

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その他の回答 (55)

  • 178-tall
  • ベストアンサー率43% (762/1732)
回答No.5

>誰でもいいから数学の専門家でない近くの人を捕まえて、この話をしてみてください。きっとほとんどの場合、何馬鹿いってるんだ、追いつくに決まってるだろ、みたいな顔されることの方がほとんどだと思いますよ!それがすごく不思議なんです。こんな完璧なパラドックスなのに! 「アキレスと亀」のハナシは、追いつけるかか否かが焦点じゃなく、追いつく以前に無限点列のあることを論証する狙いがあるらしい。 追いつけるのは自明だから…というつもりなのか、追いつく瞬間および以後の時間を巧みに話題から外してます。 聴く側は、囲みこまれた時間域内での思索にふければよさそう…。   

kireinahanabi
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。

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noname#212313
noname#212313
回答No.4

 こういう話はよく「無限論の教室」(野矢茂樹著)を読んで、「そうか、その通り!」と思ってしまった人からよく聞かされます。同書はその本自体の限界をよく考えて読めば悪い本じゃないんですけれども、本が己が限界を隠すようにして、かつ読者を煽るような書き方であるため、ちょっと問題を起こしがちな気がします。  例えば、ゼノンの「アキレスと亀」のパラドクスで、アキレスが亀のもといた位置にたどり着くたびに自然数を数えさせてみるという設定を加えています。野矢氏は(そしてゼノンの時代にゼノンにこのパラドクスを問われた哲学者も、さらにはゼノンも)アキレスが亀を有限時間で追い越すことは、当たり前だとしています。  すると、と野矢氏は言います。アキレスは亀を追い越したとき、アキレスは自然数を数え終わったことになる、と。その後、アキレスに自然数最後の数は奇数か偶数かを尋ねてみると言い出し、そしてそんなことは自然数最後の数が奇数か偶数かなんて馬鹿げていると言う。  実はその辺りで「無限論の教室」を読むのをやめたくなったんですが(でも、一応は最後まで読んだ)。それ以前にも、質問者様も仰る無限級数の和という数学的な解法について、「愚か」のひところで退けた点もちょっとうんざりだったりしました。自然数を数え終わるということについては、野矢氏は同書の後半で自然数を順に無限個羅列したものでは、自然数の集合にならないという数学では当たり前の話をしており、どうもそれで無限級数の和などを「愚か」と断じた説明になっていると思っているらしい。それなら、さらにうんざりです。  何がうんざりかと言えば、数学でいい加減に扱っていないことを、いかにもいい加減に扱っているかのごとき言い方をしているからなんですね。数学では無限級数の和は極限値だとしています(いわゆる「その値に限りなく近づいていく」)。実際に存在する値だとは言っていない。  極限だけでないし、無限大だけではないです。数学はいい加減なことをしません。数学でこんな例を挙げておきましょう。  (1-x^2)/(1-x)という関数を考えてみましょう(これは物理でときどき出るもの、「^2」は2乗を表し、エクセルでも使える記法)。これはx=1では0/0となるから関数として値を持ちません。しかし変形すれば、  (1-x^2)/(1-x)=(1-x)(1+x)/(1-x)=1+x とできますから、x=1で2という値を持ちそうに思えます。でも、それは駄目です。途中の変形で1-xで分母・分子を割っているわけですが、x=1では0なんですから割れないわけです。変形はx≠1でのみ成り立つとしなければなりません。  もっと単純にはx/xでもいいです。x≠0で1になりますが、x=0では値を持たないということを忘れてはいけないとします。それが数学です。  数学の微積分学では、関数の極限値ということをきちんと学びます。そのとき関数が、∞-∞、∞/∞、0×∞、0/0になってしまうような場合について、どう扱うかを慎重に学びます。いずれも直接の値が計算できないことは明らかで、極限値と関数の実際の値についても充分注意しなければならないことも学びます。  そうした場合を含め数学は、例えば昔は「無限小」なる概念で曖昧にやっていたことを、それでは間違う場合もあることを発見して、δ-ε(デルタ-イプシロン)論法という証明法を発明もしています。  アキレスと亀に戻ります。アキレスが亀を有限時間で追い越すとしているのは、アキレスが亀より速いなら必ず追い越すという、もっと単純な計算があるからです。アキレスの速度をV、亀の速度をv、最初に両者の距離がLだとすれば、L/(V-v)で計算される時間でアキレスは亀に追いつき、追い越します。  そのことについて、ゼノンの論法通りに従って無限級数の和でも同じ答が出る、ただし極限値で、と数学は言っているわけです。無限級数の和という極限値が実在しているとは一言も言っていない。確実な別解(速度差を使った単純計算)も同じ答なのだから矛盾は出ないよ、その極限値は別解によって存在が保証されているよ、と言っているのです。  数学はそういう話をしているのです。野矢氏はそのことを無視して(あるいは理解できずに)、愚かと斬り捨てたつもりになっています。野矢氏の論法をよく考えずに信じてしまった人も同じです。無限大や0(ある意味、無限大の逆数のような実在の値である種の鬼門の数)を含む数学を学んだ人なら、野矢氏が無限論の教室で述べる論は、とても受け入れられません。  それでもゼノンのパラドクスが現代数学に対しても有効であると主張されるのであれば、きちんと論じてもらいたいわけです。大学初年度~2年生くらいの数学を修めた者が聞いてみて、「いや、そこは数学を誤解していて、数学では…」と説明せねばならないような論法を延々を聞かせないで欲しいわけです。なんとなく違うと思うなら、はっきり違うというところまで、昇華したものを聞かせて欲しいわけです。  それでも、おそらくは未知の問題は出て来ません(※未証明の定理などのことを言っているのではないです、ゼノンのパラドクスの現代版です)。ゲーデルの不完全性定理があるんだから、数学は不完全だ、だから叩けば埃が出るだろう、なんて思うと大間違いです。現在の数学は現在の数学の範囲内では、自らが完全でも無矛盾な理論でもないことを証明してしまうほど、凄いものなのだと受け取るべきです。数学のここが不完全だ、矛盾がある、などと具体的に示せた例はありません(予想ですが、おそらくそれもできない)。  アキレスと亀については、もっと単純なバージョンがあります(ゼノン自身が考案したとされている)。100メートルの距離を行くのには、まず半分の50メートル地点を通過せねばならない。次には残り50メートルの半分の25メートル。そうして半分、また半分と考えれば、無限の回数が発生します。だから100メートル先にはたどり着けない。  もちろん、たどり着けますね。やって見れば一目瞭然です。物理で似たような頻出問題があり(テストなどで出たりする)、ある高さから床に落としたらその高さの半分まで跳ね上がるようなボール(反発係数1/2、と表される)が、何秒で床に静止するか、というものです。もちろんですが、ボールがいつまでも細かく跳ね上がっては落ち続けるなんてことは起こりません。  いずれも有限なものを無限個に分割しただけの話です。そしてゼノンやゼノンに与する人は、無限回の操作だから終わらないと論じているだけです。現在の数学は、もうそんなことを解けない問題などとはしていません。それでも、無限回だから終わらない、と反駁されるなら、「そんなややこしいことを説明したら、聞かないから、分からないと言いだすから割愛しただけじゃないか」と言うしかありません。  ゼノンのパラドクスは他のものもあります。例えば「動いている矢は止まっている」ですが、物理学を多少学んだ人なら「何を当たり前のことを不思議がるのか?」と言われてしまうようなものでしかありません。長くなったので、これの詳細は割愛します。  それでもゼノンに学ぶことがあるとすれば、問題を解こうとしたとき、見方次第では解けなくなってしまうこともある、あるいは、どうして解けない問題があったら解くための方法を開発すべき、といったことでしょうか。ゼノンの時代では、まだ彼の論法に沿って解く方法がなく、その後数学が進歩して、ゼノンの論法通りでも解けるようになったわけです。  ゼノンのパラドクスを「いや、現在の数学でも解けていないんだ」と言われれば、「そんな馬鹿げたことはない」と応じるしかありませんが、その他の点で学ぶべきものがあるということなら「確かにそうですね」と応じることにやぶさかではありません。

kireinahanabi
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 数学にとても愛着がおありのようですね。 しかし私には、これは半分数学、半分哲学の問題のような印象です。だって、アキレスが追いつくことぐらい誰だって知っていて、そんなの証明するまでも本当はないことですからね。ほとんど公理の世界ですね。だからこそ、この問題では、ゼノンに議論に忠実に乗っ取って、その議論のおかしさを指摘することが求められていて、純粋に追いつけること自体を、無限論を用いて数学的に厳格に証明しようとするのは、ちょっと違うんじゃないの、っていう印象を持ってしまいます。(すみませんが数学を馬鹿にするつもりは全然ありません) 下の方の回答にも書かせていただきましたが、ゼノンは非常にシンプルな論理学を用いているような印象があります。 それに元々私が質問させていただいたことからの延長で考えれば、(私も一応勉強しましたが)δ-ε論法なんて知らない大多数の人たちも、そんなの詭弁だ、追いつくに決まってるじゃん、とこのパラドックスを何らパラドックスとして受け取ることがないという事実は、やはりそこに、何か別の問題が隠れている気がしています。

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  • CC_T
  • ベストアンサー率47% (1038/2201)
回答No.3

アキレスが亀に近づく話を移動した道のりだけで考えているからです。時間を引き延ばしたかのような表現で表しているから、永遠に追いつけないように錯覚してしまうのですね。 時間を軸にして考えると、決して永遠(時間経過=無限大)に追いつけないのではなく、一瞬をどんどん細かく分けて見ているに過ぎない事が理解できるはずです。 秒針つきのアナログ時計を見てください。 12時の位置からスタートして、秒針が360度回ってゼロ秒の位置にもどる間に分針は6度回って1分の位置(=1秒の位置)まで進んでいます。そして秒針がその1秒分を追いかける間に分針はまた1/60秒分を先行する。秒針がさらに1/60秒分を追いかける間に分針は1/360秒分先行し・・・と、針の回転角度を見ながら、1秒をどんどん細かく分けて考えて「秒針は決して分針に永遠に追いつけない」なんて考えますか? しませんよね。時計を見るとき、人は針の回転角度でなく時間経過をベースに考えますから。 普通の人は時間の経過は一定速であり、時間を引き延ばすなんてことは出来ないことを承知しているから、刹那の現象を追求することに意義を感じないはずです。秒針や分針の回転角度ではなく、「次に1秒経つ間に、秒針は長針を追い越してしまう」と、時間軸で考え、「永遠」の錯覚の陥ることが無いでしょう。

kireinahanabi
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 でも、残念ながらそういう説明はこれまでもたくさんみてきましたが、私には全然すんなり入ってこないんですよね。 やはり、全然不思議でない、という方が圧倒的ですね。そこが不思議だっていうのが、質問なんですけど。。。

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  • kohichiro
  • ベストアンサー率21% (306/1447)
回答No.2

私もこの質問は数学カテではないように思います。私が貴方の真意をしっかり捉えきっていないのかもしれませんが、ゼノンの詭弁にはまってしまって抜けられないだけなんじゃないのかと(単純に)思ってしまいます。 私の理解を簡単に言うと、ゼノンは有限の時間(量)を無限の数に切り刻んで「どうだ、無限だから無限(の量)大じゃないか!?」ととぼけて見せた。それにまわりのひとがだまされたということではないのでしょうか。 その有限の量がしっかり確定できるにはちょっと高級な数学が必要なだけで、そのりくつは感覚的には理解できるのではないでしょうか。私が間違っていたらすみません。 >逆に言うと、これまでに解決されてきた、数学の多くの証明において、こうした問題が潜んでいないということすら、私は納得してしまっていいのだろうか このあたりは私も貴方の感覚に納得できます。感覚的についていけない(たとえば非ユークリッド幾何学やアインシュタインの相対性理論など)もので、光速に近づいたら空間が縮むとかいうのはまだ理解できていません。おそらく現実の中での不思議を理論で説明すれば付帯的にそうなってしまうということなのだろうとは思っているのですが。

kireinahanabi
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 やはり、基本的にそんなの矛盾でも何でもない、無限論を理解していないだけだ、というスタンスの方が多いようですね。 ちなみに私にはこの問題は、無限論だというのは頭の片隅の方でわからない訳でもないんですが、どうしても簡単な論理学に見えるんですよ。AならばB。BならばC。がともに真で、いまAという前提から出発するとする。ならば必然、Cである。っていう。そこに穴があるように見えない。 まあ私が結局無限論がわかってないだけ、っていうので終わっちゃうんですかね。でもやっぱり、わたしに全然同調する人がいらっしゃらないのは、ほんとに不思議だなあ。

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  • bgm38489
  • ベストアンサー率29% (633/2168)
回答No.1

これは哲学の無限論の分野なのですが、これには、決着がついていません。ゼノンは間違っているかどうかよりも、このパラドックスについて、一部の隙もなく反論できた人はいないのです。 講談社現代新書の「無限論の教室」(野矢茂樹)をおススメします。アキレスと亀の話から始まり、自然数と偶数はどちらが多いかなどという奇妙な問い、更には実無限と可能無限というテーマがありますが、見方によって変わるものだ、ということがわかるでしょう。 簡単に言うと、実無限とは、無限に大きい数がある、と考えること。可能無限とは、ある数には、それより一つ大きい数が必ずある。これを延々と続けていけば、大きい数を作ることは無限に可能、というもの。今の数学界では、実無限の方が優勢なのですが、可能無限も負けてはいない。この本を何回も読めば、決着のついていない問題に対し、両方の考え方ができるようになり、パラドックスは否定できないからこそ、今の世にも残っている、ということがわかるでしょう。 http://bookclub.kodansha.co.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=1494201 アキレスと亀の話では、アキレスが亀に追いつくたびに数を数えていたとすれば、追い抜くときには、無限大の数を数えたことになる、という不思議なことが紹介されています。

kireinahanabi
質問者

補足

ありがとうございます。私もこの問題にも関連して、無限論には興味があったので、ご指摘の本も読んだことがあります。無限に関しては、ほんとの表面だけですが、対角線論法とか、アレフとかなんとかいう理屈も少しは理解したつもりです。 で、そういう議論もとても興味があるのですが、ここでお話しさせていただきたかったのは、このパラドックスがなぜ不思議なのか、どう考えればいいのかということではなく、なぜこのパラドックスを不思議だと思わない人の方が圧倒的に多いのか、簡単に説明できると思う人が多いのか、ということなんです。 じっさい、誰でもいいから数学の専門家でない近くの人を捕まえて、この話をしてみてください。きっとほとんどの場合、何馬鹿いってるんだ、追いつくに決まってるだろ、みたいな顔されることの方がほとんどだと思いますよ!それがすごく不思議なんです。こんな完璧なパラドックスなのに!

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