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「真面目な恋愛観」は損?

「真剣な交際」は存在しますか? ここでいう「真剣な交際」とは、パートナーとのあいだの関係をつくるにあたり、パートナーが人格と自我をもつ存在であると認識し、敬意(リスペクト)をもってパートナーに接し、さらには、パートナーとの意思の疎通においては、パートナーの意思を十分に尊重をすることを前提とした人間関係と定義します。 恋愛にかんする言説やら、恋愛に関連するイメージについて、それらを調べれば調べるほど、恋愛というものは、まるで個人のステータス(社会的地位、個人にたいする評価、イメージ、など)に「箔」をつけるためのものであって、パートナーの存在については、あたかも二の次であるといった位置づけがされるようになったと思います。 パートナーを愛したい、パートナーを守りたい、パートナーとのあいだに素晴らしい人間関係をつくりたいといった「欲求」よりも、恋愛そのものが、まるで、ブランド品のバッグやら、装飾品、化粧品のような存在として、認識されていませんか? そういった恋愛事情においては、「真剣な交際」は時代遅れの価値観になったのでしょうか? それとも、ただ単に、ダサいのでしょうか、カッコ悪いのでしょうか? 悲観的な恋愛観であると批判されるかもしれませんが、真面目な交際(真剣な交際)よりも、「軽い交際」のほうが、色々と「便利」なのかもしれません。わたし自身、恋愛の経験がまったくないので、「真剣な交際」について向きあうことは、まるで「絵に描いた餅」を、どうやれば口にすることが出来るのか、クソ真面目に考えてしまうことのようです。

noname#222499
noname#222499

みんなの回答

noname#233306
noname#233306
回答No.4

> パートナーを愛したい、パートナーを守りたい、パートナーとのあいだに素晴らしい人間関係をつくりたいといった「欲求」よりも、恋愛そのものが、まるで、ブランド品のバッグやら、装飾品、化粧品のような存在として、認識されていませんか?   前者は欲求ではなく「関係性」ですね。そして、その関係性を知らないとか分からないとかできないとか、要するに自立と自律ができないから、好きな人ではなくただ彼氏・彼女がほしいという、人を人として見ない・見えないからそのような認識しか持っていない人が多くいるということでしょう。 > そういった恋愛事情においては、「真剣な交際」は時代遅れの価値観になったのでしょうか? それとも、ただ単に、ダサいのでしょうか、カッコ悪いのでしょうか?  同じく価値観ではなく恋愛観が構築されていないということ、時代遅れなのではなく時代が構成されてこなかったということですね。性に対して貧困であるがゆえに、俗説を信じ面白おかしくしか考えられないでいるから軽い交際しかできない未熟な大人擬きが多いのでしょう。  別に悲観的ではありませんよ。関係性を便利になんて人間を道具扱いする人には、「絵に描いた餅」をじっくりと眺めてその人格・存在・敬意・尊重という関係を作ることを学べ!と言いたい私です。  何時の日か口にすることができるのです。それまで糞真面目に考えて糞真面目な素敵なパートナーを見付けて下さい。

noname#222499
質問者

お礼

コメントありがとうございます。

noname#212854
noname#212854
回答No.3

あなたには、軽く見えても、真面目で真剣だから、離婚に至った人が、たくさん居ます. すくなくとも、僕の交友関係では、軽くないから離婚再婚を繰り返しています 真面目、真剣、どちらも恋愛以前に、人間として大事なことです. 真剣が 時代遅れなどに、なるはずが無いじゃありませんか。

noname#222499
質問者

補足

そのように受けとめたいところですが、世界のさまざまな地域における不寛容の問題や、日本社会における排外主義、ヘイト・スピーチの問題に向きあうようになってからは、現代社会においては、人間関係の重要性が下がりつつあるのではという危機感をもつようになりました。 自分自身のことで精一杯、といった「言い訳」を思いつく人々がいることと思いますが、人間関係の重要性が、過去と比較をしたときに、その重要性が下がっていることや、その優先順位が下がっていることは、否めないと思います。「不都合な事実」ではありますが。

noname#206137
noname#206137
回答No.2

  私は、素朴に「いつまでも好きな相方と一緒に そばにいたい」老後も見守りたいって言う思いが最終的 恋愛に繋がるのかな~って思っております。 真面目な恋愛観だと思っていて、損って事は無いと 感じております。 ただ、ただ単にそばに寄り添いたいと言う思いなので それが、ダサい、カッコ悪くても自分の恋愛観が満足して いたら良いのでは? 恋愛そのものが、バッグや装飾品、化粧品の様な存在で あっても、そうあった・・・としても、そのバッグや装飾品の 価値観や、素晴らしさを見極めるのは「人」ですから、 真剣な交際を周りがどう感じても「御自分」がどう感じるか ですから、理論的に考えるより「素朴な思い」を前に出して 考えていけたら、それがクソ真面目でも損にはならないし 結果、後から見えて参ります。^^ どんな恋愛でも皆さん真剣だと思います。 それを損と考えなくて良いかと。 貴方様自身がきっと、素敵な恋愛をしたいのだと思います。 それは素晴らしい思いですから、、、例え損だって事が 起きても気にされないように。 「損」と思う事がこれから沢山起きるかもしれないけれど、 それも人生ですし、どんな恋愛観でもその人の示し方 ですから、御気にされないように。

noname#222499
質問者

お礼

コメントありがとうございます。

  • pigunosuke
  • ベストアンサー率19% (1063/5528)
回答No.1

あまり難しい言葉で考えない方が良いですよ そもそも、戦争なんて事をやっていた時代の頃には お見合いによって結婚をしていた人が多く居たと聞きます 「この人は真面目だから良いね」って、 第三者から見て、良い縁だと言う人同士を引き合わせて 愛がどうこう、と 言った話ではありませんでしたし 戦国時代では、一夫多妻は普通に在った事です 簡単に人が死ぬ時代では 愛とか、そういう物は、二の次だったと思われます 一人の男性が、一人の女性を愛しましょう って考え方は それ程古くから在った訳ではありません さて 今より少し昔は、携帯電話が有りませんでした そうなると 家族が共有する固定電話で連絡を取り合っていた事でしょう 人と連絡を取り合う手段が少なかったから 一人の人と深い繋がりをするしかなかった  かもしれないですね 現代では、携帯どころか、スマートフォンの普及 LINEやSNS、Twitterなど、コミュニケーションツールの普及によって より広範囲な人との繋がりが出来てきました 時代時代によって、様々な恋愛観が産まれるのは 必然と言えると私は思いますが、いかがでしょう?

noname#222499
質問者

補足

人間関係そのものが、極めて薄っぺらいものになってしまったのでしょう。世界規模(とりわけ、先進国)の社会現象と受けとめることができると思いますが、一種の「日本人病」であるとも受けとめることができると思います。 恋愛観の変遷という「言い訳」が存在するそうですが、ただ単に、他者の存在を認めたがらない、他者を理解しようとしない、ある種の(純日本人的な)「排外的精神」の産物なのかもしれません。

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