- ベストアンサー
新唐書にある蝦夷人とは
- みんなの回答 (1)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
●文字どおり、現在の北海道と受け取っていいのでしょうか? ○ダメです。 現在の北海道地域を「蝦夷」と呼ぶようになったのは中世以降のことです。 古代の「蝦夷」とは現在の東北地方以北のことです。
関連するQ&A
- 蝦夷が未開の地だったのは何故か?
戦国時代 天下統一を進める上で何故蝦夷(北海道)の奥地まで行かなかったのでしょうか? 当時蝦夷の松前には蛎崎氏(松前氏)が徳山館を築いて支配しておりました 当然アイヌとも交流もあり 蝦夷地が広大な陸地であった事は秀吉や家康も知っていたと思われます (信長が既に蝦夷地の全容を把握していた様でした) 秀吉なんぞは琉球の果てや小笠原の端のほうまで探査して 制圧してるのに蝦夷の奥地にまで手を伸ばさなかったのはなぜでしょうか? 知ってのとおり蝦夷地は明治に屯田兵が入植するまで開拓らしい開拓が行われていません 戦国時代に蝦夷地が手出しされなかった最大の理由は何でしょうか?
- ベストアンサー
- 歴史
- 「唐」という文字
「唐」という文字のつく言葉はたくさんありますが、それが昔の中国(唐:とう)ではなく、朝鮮文化に由来する単語に「唐」とついているものが多くあります。例えば奈良県の遺跡「唐古」遺跡、岡山県牛窓の「唐子踊り」、三重県の「唐人行列」、そして「唐がらし」など。「とうきび」の「とう」も「唐」? そのわけをご存じの方、教えてください。
- 締切済み
- その他(学問・教育)
- 北海道(蝦夷)の先住民は縄文人では?
北海道の先住民としてアイヌが有名だけど、そのアイヌは縄文人、オホーツク人、擦文人を融合あるいは淘汰駆逐して出来上がったものです。 ならば、蝦夷の先住民はアイヌではなく縄文人とするのが正しいのではないですか? だって日本列島の先住民の話になると「日本人は先住民」なんて言わないで「縄文人が先住民族」って言うでしょ? なら北海道の先住民族も縄文人ですよ。 文化民族としては後発のアイヌを蝦夷の先住民とするなら、列島の先住民は日本人ってことになるけどそれは違和感ありますし。
- ベストアンサー
- 歴史
- 榎本武揚はなぜ蝦夷に政府をつくったのですか?
徳川家臣団の救済などを名目に蝦夷を占拠した榎本武揚たちでしたが、あくまでものちの開拓使のような北海道の防衛と失職する武士たちの仕事先とするために蝦夷地を目指したと聞きます。 なので天皇に対して反抗するつもりはなくむしろその目的を新政府に伝えて認めてもらうことが第一のはずであくまで日本人として戦っていて東北の戦争とは少し目的が違うと思います。 しかしそこで蝦夷共和国を建国して独立しています。 これだと明らかに新政府だけではなく天皇や日本に対する反抗になってしまいませんか? あの榎本武揚ともあろう方がなぜそんなことをしたのでしょうか?
- ベストアンサー
- 歴史
- えみしは日本民族か?アイヌ民族か?
古代の東北地方の住人をえみし(蝦夷)といい、アイヌのことはえぞ(蝦夷)というと思っているのですが、同じ漢字を使って居て、ややこしくなっています。 えみしがアイヌ人のことだとすると、東北人のルーツはアイヌと言うことになります。 えみしが日本民族の一部だったとすると、東北人のルーツは、本州全体と同一民族だった、と言えますので、えみしが日本人だったか、アイヌ人だったか?は、東北人のルーツを考える上で重要だと思われます。 この問題は、えみしが日本語を使って居たか?どうかで決められると思いますが、現在の研究ではどうなっているのでしょうか? 藤原三代の平泉文化をみると、私にはこれは日本民族の文化だと思われます。 藤原氏が日本語を使って居たか?ということを、残っている文書資料で判定できないのでしょうか? こういう考え方全体のどこかに間違いはあるでしょうか?
- ベストアンサー
- 歴史
- なぜ唐は国際的になれたのか
唐の時代は国際色豊かだったと、よく説明されていますが どうしてこのような環境になれたのでしょうか? その後の中国王朝で南宋の凝り固まりや、明の暗さ、 清朝の満洲族による圧政や、現在の反日デモ吹き荒れる中国からは とても想像できないような気風ですよね?
- ベストアンサー
- 歴史
- 西暦928年 中国の唐 王妃の着物
西暦928年 中国の唐 王妃の紋章という映画の中で、女性たちの衣装が、まるで中世(?)ヨーロッパのドレスの胸元のように谷間を力いっぱい強調するような感じなのですが、これは史実的にどうなのでしょう? https://www.youtube.com/watch?v=tdPpS2fC4-Y
- ベストアンサー
- 歴史
- 唐の律令政治は成功したのか?
日本は古代に、隋や唐などの律令制度を学んで取り入れたものの、日本の実情に合わなくて、施行まもなく崩壊していったことは周知のとおりです。特に租庸調の税制が過酷であったとか。 では、本家本元の中国では、現実と適合していたのでしょうか? 適正な税であれば問題はないはずであり、大帝国を築いたのは問題なかったからかもしれず、その辺が知りたいです。 安禄山の乱は建国100年後ぐらいのことなので、それまでは大過なく進んだのかな、というのが素人目の推測です。 どうなのでしょうか?
- ベストアンサー
- 歴史
お礼
そうですか、現在の東北地方以北のことですか。それで納得いきました。それにしても、古代に近畿地方から東北というと、はるかかなたの地域だったんでしょうね。ありがとうございました。参考になりました。