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輪廻転生はあり得ない

 輪廻転生は あり得ない。ですよね?  同じ遺伝子を持った人間が 過去にいるわけがないから。

みんなの回答

回答No.28

例によりまして、 情報提供!! いじゅく・異熟:vipAka ─────────  過去の善悪によって得た果報の総名。果が因の性質とは異なって成熟することを言う。  善業によって楽果を感じ、悪業によって苦果を感じるように、楽果は善性ではなく無記性である。これによって、善性と無記性とは類を異にしているので、善性の業に対して異類と言うべきである。苦果を悪業に対する場合も、苦果は悪性ではなく無記性であるから、因と果との性質を異にしている。これによって異熟果と言う。  また、因と果とが必ず時間を隔て、異時に於いて熟するから、異熟と言う。 http://www.wikidharma.org/jp/index.php/%E3%81%84%E3%81%98%E3%82%85%E3%81%8F ───────── vipAka http://spokensanskrit.de/index.php?script=HK&beginning=0+&tinput=+vipaka&trans=Translate&direction=AU 《異熟》の特徴は、  1 因と果が異時であること  2 無記性(善悪、苦楽のいずれでもない)こと の二点で~す。

bragelonne
質問者

お礼

 ねむりねこさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  楽果・苦果のことは知っていましたが それらを善悪から離れた無記としていることは知りませんでした。  また 善悪のほかに無記因無記果という一筋を立てましたが 善因や悪因からこの無記果が 楽果と苦果とに分かれてもたらされるというのも 分かりませんでした。  ですが それらを加味した上でも 結論は変わりないと考えます。  苦楽をいづれも 善悪から自由な概念として捉えるということですが そうは言っても苦なら 自分の思うようにならないということですから やはり自己にとっては良く無いことに違いありません。あるいはつまり 楽なら 或る程度は自己の意志するとおりにことが運ぶという内容でしょうから これは悪くは無いわけです。《楽果》は 《善果》ではないと言っても 大きくは――主観にとって――善いことを意味すると言わざるを得ないのではないでしょうか。  でしたら やはり善因善果と悪因悪果か もしくは無記因無記果かのいづれかに いちおう分けられると思われます。  しかも問題は そのときどきのワタシの心の状態が 善一色であるか悪一色であるかといった片寄ったあり方は よほどめづらしいはずです。  一般には 無記の状態にあって そこにいくらか善を思ったりあるいは悪に片向いたりするというのが 実際のことでしょう。  大悪人とあとで呼ばれるような悪行をおこなったとしても その人に善の状態が――仏界が――ないとは誰も考えない。  だとしたら 善因楽果か悪因苦果かのいづれかの一本の筋に分けて その人の行為(カルマ)の歴史を分析するのは いただけません。基本的に ダメでしょう。  ですから 次のような説明でそのことを示しました。  ☆☆(No.26お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~   ○ 業異熟 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  1. けっきょく理論からすれば すべての要素要因をふくんでいる。      過去・・・・・・・・・・・・現在・・・・・・・・・・未来   _______________________   或るカルマ    (善因・悪因)・・・・・・善果・悪果               =そのカルマ               (善因・悪因)・・・・・・善果・悪果  2. このように原因として善悪両様の要素をふくんでいる。そしてそのことは あらゆる時点での状態ないし行為についても言える。  3. ということは 因果関係について当たり前のことを言っているに過ぎない。すべての可能性について言っていることは 何も言っていないにひとしい。  4. ただし 理論そのままではなく そうではなく実際にはそれなのに 善因善果か悪因悪果かのどちらかひとつの関係を取り出して その一筋だけの応報を言いかつ見ようとする。これは ナンセンスである。  5. いかに主観は自由だと言っても 自分勝手な見方であるに過ぎない。多少 善に片寄ったかそれともその逆かであるに過ぎないものを 善なら善 悪なら悪 つまり善からは善が 悪からは悪が出るのだという二種類の一本線を引こうとする。これが ナンセンスである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち すべてのワタシの現在時は 楽果や苦果と言うかどうかをもはや別として 因果は善悪いづれの内容をも含むとなるはずです。      善果・悪果      =そのカルマ      (善因・悪因)  この現在時は けっきょくあらゆる現在です。その意味でも 永遠の現在であり その現在が そのまま或る種の枠組みとして過程するかたちだとなります。中身は 意志行為として・また意志行為の結果として いろいろです。つねに一時点において いろんな内容を含み得ます。  すなわち 因果関係と言うのは 一般には 広く社会行為として(または 自然現象として)或る程度特定したモノゴトを時系列として分析・検証することでしょう。そこにもし因果応報の説をつけ加える場合には けっきょく善・悪・無記のいづれの因果をも つねに含むという意味では 善なら善の一本の筋だけを取り出して捉えてみるのは むしろ いけないと考えられます。  (勤勉だから成功した。怠惰ゆえに何も実らなかった。というような因果関係が 一般であるとは見られますが 怠惰でも成功する場合はあれば 勤勉でも失敗するということはいくらでもあります)。  言いかえると 因果応報の意味を含む《業異熟》なる説は 何も言っていないことになります。《世界はある。そこに行為がありその因果関係がいろいろにある》と言ったに過ぎないことになります。  なんでこんな《理論》が永くつづいているのでしょう。

  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.27

世話焼かれとったんか、初めて知ったわ(笑)。 まぁそれはそうと、我の我たる根拠を、主はDNAに求め、輪廻を考える人々は行為に求めた、という違いなんやろうと思うよ。行為を主体として考えた時に、業異熟という考えが生まれたんちゃうかな。大事なんは業異熟という考えであって、善因善果、悪因悪果ということじゃないからな、輪廻するという事象のみに関しては。 でもまぁ実際、想像できんわな、死んだ後とか、生まれる前とか。そら同じDNAを持つ人なんか、未来にも多分おらへんよ。せやけどだからといって輪廻はないと言い切るとこまで論を飛躍することはできへんな。でも同じ様に、業異熟というものが確かにあると証明もできへんな。だが、考えとしては成立する。 水掛け論になりがちなモチーフやったけれど、今回はこんなところで。ええよな?

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 我の我たる根拠を、主はDNAに求め  ☆ ちゃうよ。論理を別のほうに持って行っている。  つまり 《 DNA が同じ人間は 過去にいない。ゆえにその観点からは 輪廻転生はないとまでは言える》。こうです。  ★ 輪廻を考える人々は行為に求めた  ☆ についても言えることは 《行為の因果関係が 前世から現世にまで及んでいるとしたら そうだとしても その前世の人間と現世の人間とでは DNA が違う。とまでは言える》。  だから仮りに  ★ 大事なんは業異熟という考えであって、善因善果、悪因悪果ということじゃないからな、輪廻するという事象のみに関しては。  ☆ が事実だったとしても そのとき 《同じ DNA である人間が生まれ変わったとは決して言えない》ということです。  ★ せやけどだからといって輪廻はないと言い切るとこまで論を飛躍することはできへんな。  ☆ DNA 以外の観点は 何ら触れていません。  ★ でも同じ様に、業異熟というものが確かにあると証明もできへんな。だが、考えとしては成立する。  ☆ 《考えとしては成立する》んかいな。  前回の説明は 効かんかったか。ああ。  ☆☆(No.26お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~   ○ 業異熟 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  1. けっきょく理論からすれば すべての要素要因をふくんでいる。      過去・・・・・・・・・・・・現在・・・・・・・・・・未来   ____________________________   或るカルマ   (善因・悪因)・・・・・・善果・悪果                =そのカルマ               (善因・悪因)・・・・・・善果・悪果  2. このように原因として善悪両様の要素をふくんでいる。そしてそのことは あらゆる時点での状態ないし行為についても言える。  3. ということは 因果関係について当たり前のことを言っているに過ぎない。すべての可能性について言っていることは 何も言っていないにひとしい。  4. ただし 理論そのままではなく そうではなく実際にはそれなのに 善因善果か悪因悪果かのどちらかひとつの関係を取り出して その一筋だけの応報を言いかつ見ようとする。これは ナンセンスである。  5. いかに主観は自由だと言っても 自分勝手な見方であるに過ぎない。多少 善に片寄ったかそれともその逆かであるに過ぎないものを 善なら善 悪なら悪 つまり善からは善が 悪からは悪が出るのだという二種類の一本線を引こうとする。これが ナンセンスである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  

  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.26

俺はあまり燃えないね。当たり障りなくというのが基調かな。 まぁ確かに短すぎる回答やったかもしれん。しかし、俺の知識も底が浅いからな。ただ言えることは、業異熟という概念はあらゆる可能性を捨ててしまうのではなくて、逆に、あらゆる可能性を包含してしまうと俺ならば捉える。網の目のように複雑な、カルマの通り道が存在していて、どんな結果がいつ出るかわからない。あざなえるなわのごとし、と。まぁ、ここらへんは推測、想像で話してるだけやから説得力はないけどな。輪廻転生がないと言い切るだけのものがないというだけで、転生の主体として、業異熟というものがあるらしいということを言いたかっただけよ。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 業異熟という概念はあらゆる可能性を捨ててしまうのではなくて、逆に、あらゆる可能性を包含してしまう  ☆ そう言っていますよ。舌足らずだったかも知れないので もう一度言います。  ○ 業異熟 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  1. けっきょく理論からすれば すべての要素要因をふくんでいる。      過去・・・・・・・・・・・・現在・・・・・・・・・・未来   ____________________________   或るカルマ   (善因・悪因)・・・・・・善果・悪果                =そのカルマ               (善因・悪因)・・・・・・善果・悪果  2. このように原因として善悪両様の要素をふくんでいる。そしてそのことは あらゆる時点での状態ないし行為についても言える。  3. ということは 因果関係について当たり前のことを言っているに過ぎない。すべての可能性について言っていることは 何も言っていないにひとしい。  4. ただし 理論そのままではなく そうではなく実際にはそれなのに 善因善果か悪因悪果かのどちらかひとつの関係を取り出して その一筋だけの応報を言いかつ見ようとする。これは ナンセンスである。  5. いかに主観は自由だと言っても 自分勝手な見方であるに過ぎない。多少 善に片寄ったかそれともその逆かであるに過ぎないものを 善なら善 悪なら悪 つまり善からは善が 悪からは悪が出るのだという二種類の一本線を引こうとする。これが ナンセンスである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ つまり わたしの言ったことを誤解していると思うよ。  ★ 輪廻転生がないと言い切るだけのものがないというだけで、転生の主体として、業異熟というものがあるらしいということを言いたかっただけよ。  ☆ 生まれて来ている人間という主体は そのままその一生のあいだ 因果関係の中に生きる。だから因果関係がある。と言っているに過ぎません。  そして 或る一生を超えて そのいわゆる前世なり来世なりのことを そのまま言おうとしたなら それは昔からそう言って来ているので たぶん生まれ変わりがあるのだろうと 勝手に言ったに過ぎない。    一生を超えての主体が 同じひとりの存在として 生まれかわって来ているとは だれも言えない。  《 DNA が同じ人間としては 誰一人として 輪廻転生した主体はいない》とまでは言える。こうです。  世話やけるなぁ。

  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.25

輪廻転生自体は仏教独自の思想やないと思う。俺の思想はともかく、そう聞いたというだけの話やからなあ。別に俺はブッダやないし、断定もしてないやろ?善因と悪因の集合的結果として業異熟が発生するとも考えられるな。 まあ今はあくまで知識を提供してるだけやから、あんま噛みつかんといてや。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  まぁ いいけど。それは分かってるけど。  その上で いまひとつ・・・ちゃうかなぁ。  つまり 過去は別として考えるなら 今回でも  ★ 善因と悪因の集合的結果として業異熟が発生するとも考えられるな。  ☆ というコメントで終わるのは 解せない。  ○ 業異熟 ないし けっきょく輪廻転生  ☆ については 後者があり得ないし 前者は 《あらゆる可能性を捨象してしまう危険がある。そしてその理論をその可能性いっぱいに広げてとらえるなら けっきょく何も言ったことにはならない》と結論づけていなくては 話が短かすぎることになりますまいか。   すべての可能性の中から ひとすじの善因善果を取り出して来て これが因果応報だなどといきがっても何にもならない。ほかの悪の側面を見ないようにしているだけなのだから。  因果応報説は 根本的に欠陥理論です。そこまで探究しなければウソです。  ★ あんま噛みつかんといてや。  ☆ このええ加減さが ブディストたちが先の戦争時に腑抜けだった原因です。その後も何の役にも立たない。ただの寄生虫である。この現状が 日本をダメにしている。    あ_ほなさん あなたは 萌えないのか。

回答No.24

輪廻転生はありますね。私が死んで燃やされた場合、そのおおくの部分は気体 になります。気体の主成分である水素は水蒸気、酸素や炭素は二酸化炭素にな ります。 それは地球をとりまく大気の一部となり、そよ風となって残される人たちの頬 をなでるでしょうし、地上の草木の栄養やそれを啄む小鳥たちの体となります。 また次代の子ども達の体をつくることもあるでしょう。「千の風になって」の 歌詞のとおりです。 ですから、この地球上にあるものは原子レベルでみれば姿かたちをかえこそす れ、輪廻しているんです。 ただ、生命でいえば輪廻というのはありえないですね。だって生命というのは 自己の維持、増殖、自己と外界との隔離など、さまざまな現象の連続性を示す ことだけです。人間のような高度な知性だって、所詮、遺伝子+生まれてから の経験・学習から生まれたものです。極論すれば人間の意識の同一性は、記憶 と「今現在生きている」ということだけだと思っています。ですので死んでし まえば終わりです。う。 自分の意識は昔はなかった、少なくとも100年後には私の意識はなくなって いる、それを率直に認めなければなりません。だからこそ一日一日を大事に生 きなければならないと思います。

bragelonne
質問者

お礼

 さとうまさるさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ ですから、この地球上にあるものは原子レベルでみれば姿かたちをかえこそすれ、輪廻しているんです。  ☆ 質料(モノ)が輪廻しても始まりません。ひとが の問題です。よ。  とは言うものの  ★ ですので死んでしまえば終わりです。う。  ☆ 確認できました。それゆえの心がまえも書いてありました。  

  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.23

輪廻するのは業異熟と言われる。 業異熟とは、ようするに行為の結果のことと考えられる。悪いことをすれば地獄に、善いことをすれば天界に生まれると言われてる。 だから魂や身体、自己が輪廻するのではない。新しく自己が作られるのでもなく、古くからある自己が連綿と続くのでもない。 ちょっと難しいやろか。 そういう話を俺は聞いたことがあるな。参考まで。

bragelonne
質問者

お礼

 ええっとですね。まづは なにはともあれ ご回答をありがとうございます。  あ_ほなさん ひさしぶりにこんにちは。  余計なことかもと いや 余計なことではないと思うのですが 大御所だとか真打ちだとかのごとく振る舞うと見られてしまうのは 得策ではないですよ。  こころつもりと別に そういう世間体は 哲学の問題としても あんがい重要な要因となるのではありませんか? まさにそれこそ 《業異熟》にあたりませんか?  業異熟と言ったのは 冗談です。  それにちなんで そもそも論としてけっきょく因果応報の説を取り上げましょう。これは いただけませんとあらかじめお伝えしておきます。  善因善果・悪因悪果(・また無記因無記果?)というのは――つまりただしこれを ブディズムでは 善因楽果・悪因苦果と言うそうですが このような因果関係の捉え方は―― けっきょくすべての思惟や行動にあてはまるという論理的な結果になると知らなければなりません。  どういうことか?  絶対的な善でもなく絶対的な悪でもない存在としての人間は そのやること為すことが やはり百パーセント善であったり悪であったりすることは まづ無理です。あり得ません。  ということは 或るひとつの思いや振る舞いが――それを主観としては いちおう善いか悪いかに分類しているかと考えられますが―― けっきょくのところでは その善因も悪因もそれぞれか共にかは別としてその結果をみちびく。このように 因果応報説においては 考えられます。  言いかえると いまここでのわたしの状態は そのような過去の振る舞い(カルマ=おこない=業)を原因としてみちびかれた結果としてある。こうですよね?  つまりは 善因善果・悪因悪果(・また無記因無記果?)というときの善果も悪果も(・無記果も)すべて結果として現われている。(または 結果として熟す過程にある)。――こうなります。  ということは同時に このいま・ここの状態から繰り出すわたしの思想や行為が 善・悪・無記の原因となって 未来へと結果を作って行く。ことになります。  そうですよね?  つまりは こうです。  たとえば善因善果という実際の因果関係を歴史的にたどって捉え得たとしましょう。しかもそれは ほかの悪因悪果などを 見ないでまた捉えないで それまでの遍歴の一面を取り出したということなのです。いえ 一面というよりは ただ単なる一本の線を 善因善果として――ここで残酷な言い方をしますが―― 主観が勝手に自分の都合にいいようなところだけを見て捉えて導き出した見解であるとなります。  そうではありませんか?  (主観における善と悪との因果関係としての捉え方は その捉え方じたいが 一面的だとも考えられます。なぜなら 自分の側の悪因が 相手にとっては善果をもたらすことだってあると考えられるからです。むろんその逆もあり得ます。あざなえる縄のごとしとも言います。ブディズムは 主観だけを取り上げて論じているのでしょうか。この議論は熟しませんが ここまでとします)。  ★ 業異熟とは、ようするに行為の結果のことと考えられる。悪いことをすれば地獄に、善いことをすれば天界に生まれると言われてる。  ☆ この因果関係の一筋を人格全体の歴史の中から取り上げたということは そのほかにも同時に 初めの原因となる行為に天界もあったのだし 結果の状態にも地獄のほかに仏界も 堂々と依然として何ら傷つくことなく 控えている。――こう見なくちゃ その理論が泣きます。おまえらいったい何を考えてるんだとなります。どこまで・またいつまで寝ぼけてるんだとなります。どこまでゴータマ・マジックに引っかかってるんだとなります。  目を覚ますことが 目的なのではなかったのですか? 寝ぼけてるぢゃないですか? ブッダと名乗ったのではないのですか?   しかし ええ加減な人間ばかりぢゃん? ブディストというのは。ちゃうか?  ★☆ ちょっと難しいやろか。参考まで。  輪廻転生は あり得ません。

回答No.22

NO21の付け足し。 薬師寺(唯識・法相宗のお寺)のお坊さんなどは、  十界は心の中にある、 と言い、  輪廻を心の中の遍歴 のごとく言う人もいたような・・・。

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてです。  ◇ 輪廻〔とは〕心の中の遍歴  ☆ これは でも こんどは別の理由から おかしくありませんか。  つまり   ◇◇(回答No.18) ~~~~~~~~~~~~~~  ここは勇気を出し、顕教的視点を捨てさり、  《密教眼・密眼》をもって、《saMsAra》を読む!!  《ともに、お手々をつないで、到彼岸》ことこそ《saMsAra》の本当の意味に違いない!!  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち 《六道を経巡るような 心の中の遍歴》は 何もそれを経験したからダメだということではなく そうではなく そのことを《輪廻》と呼ぶのなら その輪廻からの解脱が目指されているということになります。    でも 《彼岸に到ること》を輪廻と呼ぶのなら 六道遍歴は輪廻と呼ばないことになります。よね。  以上は 余論になりますが。

回答No.21

こんばんはです。 ☆もうひとつは サラティ( √sR )には 流れる( flow )の意味があり サンサーラには 《この世 secular life 》の意味があります。 ◇√sRは√gam(英語go)の意味に、 仏教者はとらえていたと思います。 六道、六趣の《道・趣》は《gati》なので。 http://palidictionary.appspot.com/browse/g/gati 六道 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E9%81%93 ───────── 仏教では、輪廻を空間的事象、あるいは死後に趣(おもむ)く世界ではなく、心の状態として捉える。たとえば、天道界に趣けば、心の状態が天道のような状態にあり、地獄界に趣けば、心の状態が地獄のような状態である、と解釈される。 ───────── なんて書いてありますが、 これは、唯識的な解釈です。 《一水四見》 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%B0%B4%E5%9B%9B%E8%A6%8B

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ◇ 六道、六趣の《道・趣》は《gati》なので。  ☆ 六道を行ったり来たりというのが 《サーラ・流れる》ということかとばかり思っていました。  ○ 六道輪廻  ☆ と言ったばあい けっきょく一生のあいだのこととしても当てはめ得ると思われるけれども 死んでまた生まれ変わっても六道のそれぞれを移り渡っているという意味で言うのだと思っていました。  でも一生のあいだでのことは 《輪廻》というのは 生と死を繰り返す転生輪廻からのタトエであると思っていたわけです。  分かりました。  《輪廻・サンサーラ》は もともと 一生のあいだでの六道輪廻のことをも言っていると。  その上で 《生きて死に また生きて死にする輪廻転生は あり得ない》ですよね。

  • 0fool0
  • ベストアンサー率18% (134/738)
回答No.20

No.16です。 >《身と心〔および プラス・アルファ〕》なる人間の存在が 同じひとりの人である《わたし》として 一生だけではなく 二生も三生もと何度も生まれ生きることがあるのか? これは在り得ないですよね。 ちなみに私は輪廻転生を信じています。 が、証明出来ませんし、私自身覚えてもいませんので議論にならないから、語りませんが。 ただ輪廻転生の思想があった方が面白いので、私の心にはそれでいいのです。

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ ただ輪廻転生の思想があった方が面白いので、私の心にはそれでいいのです。  ☆ これは 定義をあいまいにしたかたちで表現の妙やアヤをねらった文学的表現の問題だと考えます。  それは ここでは扱っていません。つまり別としたということは それはそれであり得るとみとめています。  ★ これは在り得ないですよね。  ☆ とおっしゃった《輪廻転生は あり得ない》ことの確認で この質問は満足です。

回答No.19

輪廻転生は論理でなく夢物語である事は確かだよ。 それは神話性のある話で、まともに夢物語を取りあって、科学的にあーだこーだという姿勢は感心しないな。 私は生きるために人を助け、私の死すらも人を助ける。 そのようにして脈々と命は受け継がれていく。 以上は私に自作だが、おおむねそのような感じで信仰や友愛と関わる事だ。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  《まぼろし》という言葉は もともとは《ま(目)-ほろ〔ぼ〕し(滅ぼし)》のことです。何も見えなくさせるようなまばゆい光であったり 精神の眼を引きつける想像上のしばしばわるい光であったりするのだと思います。  けれども このまぼろしも 神のお告げであったり あるいは  ★ 神話性のある話で、夢物語  ☆ であったりすることもあります。  ですから 《輪廻》も――特には《転生》を切り離して―― いろんなふうに(つまり一般には定義をあいまいにしたかたちの文学風に)受け取られ用いられることはあり得ます。  そのことをここでは 扱ってはいません。むしろ それはそれとして認められると言っています。  けれども 一度死んだひとが ふたたび生まれて来るということは――その意味での輪廻は――あり得ない。こう問うています。

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