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【至急】古文について教えてください!
三船の才で、『さて、かばかりの詩を作りたら ましかば、名のあがらむことも まさりなまし』の文のかばかりはどのようなことを指しているのかとテストで聞かれたらなんと答えればいいのですか?
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こんばんは、QNo.7969961でも同じ質問をなされていますが、まず当該の文章を読んでみましょう。『大鏡』より「太政大臣 頼忠」の一節です。 【原文】 ひととせ、入道殿の大堰川に逍遙せさせ給ひしに、作文(さくもん)の船・管弦の船・和歌の船と分かたせ給ひて、その道に堪へたる人々を乗せさせ給ひしに、この大納言殿のまゐり給へるを、入道殿、「かの大納言、ゐ連れの船にか乗らるべき」とのたまはすれば、「和歌の船に乗り侍らむ」とのたまひて、読み給へるぞかし、 小倉山嵐の風の寒ければもみぢの錦来ぬ人ぞなき 申しうけたまへる甲斐ありてあそばしたりな。御みづからものたまふなるは、「作文のにぞ乗るべかりける。さてかばかりの詩を作りたらましかば、名の挙がらむことも勝りなまし。口惜しかりけるわざかな。さても、殿の『何れにかと思ふ』と曰はせしになむ、我ながら心傲りせられし」と曰ふなる。一時の優るるだにあるに、かく何れの道も抜け出で給ひけむは、古も侍らぬことなり。 当該部分には前置きの部分があり、このエピソードの主人公である藤原公任の人物像が記されています。 (1)若かりし頃の入道殿(藤原道長)が弓の達人であり、四条大納言(藤原公任)と弓比べをした時の大納言の振る舞い(道長と公任の関係は、道長の娘である四条の宮遵子が公任の姉であることから、兄弟関係になります) (2)その藤原公任の才覚や人格が彼の出自によるものであるとの記述(「小野宮の御孫なればにや、和歌の道すぐれ藤原公任たまへり。世にはづかしく心にくき思へおはす」) (3)その大納言公任がある時、生涯に一度だけと思われる失言をしてまったこと、です。 【釈文(大意)】 (大納言公任のそうした人物行状があった)ある日、入道殿(道長)が大堰川で船遊びを催された時に、漢詩の船・音楽の船・そして和歌の船と三つにお分けになって、それぞれの道に優れている方々をお乗せになられましたが、その時、この大納言公任がお出でになられていたのをご覧になり、「あなたはどの船にお乗りになるおつもりか」と尋ねられたので、「それでは和歌の船に乗りましょう」と仰り、 小倉山嵐の風の寒ければもみぢの錦きぬ人ぞなき(小倉山から吹き下ろす風が寒いので、そこにいる人達に紅葉の葉が散りかかって誰も皆、恰も紅葉の衣を身に纏ってこの場に来ているようだ)との歌をお詠みになりました。 自らが望み立って和歌の船にお乗りになっただけのことはあって、それは見事な作でした(注-この台詞は『大鏡』の語り部の台詞です)。「漢詩の船に乗ればよかったよ。そして私には造作もないはなしだがこの歌くらいの詩文を作っていたならば、私の名声も今よりも一層上がっただろうに、まったく残念なことをしたものだ。それにしても入道殿が『どの船にお乗りますか?』とお尋ねになられたのには、我ながら得意にならずにはいられなかった」とご自身も仰ったとの話です。一つの事に優れた才能を発揮することですらめったにない話ですので、大納言様の様に多彩な分野に秀でた才能をお持ちの方の話を私は耳にした憶えがありません。 この訳文から分かることとして、大納言公任が多彩な方面の才能に秀でた人物であることが一目で分かりますが、質問されている「か・ばかりの」の文中にある「か」はその前にある「小倉山を模して和歌を詠じたこと」とそれに比肩する漢詩を作ることも簡単にできたよとの才能に裏付けられた彼の言葉を指します。 けれども当時の貴族社会での教養を示す分野で最高位に位置するのは「漢詩」でしたので、大納言公任が「この程度の和歌と同じレベルの漢詩を作ることなど、自分にとってはさほどの難事でもない」との内容を言いたかったとのエピソードです。
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- Nakay702
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> 三船の才で、『さて、かばかりの詩を作りたら ましかば、名のあがらむことも まさりなまし』の文のかばかりはどのようなことを指しているのかとテストで聞かれたらなんと答えればいいのですか? ⇒「このような程度の(詩)、こういうでき具合の(詩)」。
補足
和歌の船じゃなく漢詩の船に乗って詩を読んでいれば良かったってことですか?