戦国時代の合戦シーン:兵士の配属と食料輸送の現実は?

このQ&Aのポイント
  • 戦国時代の合戦シーンを見ていると、兵士の配属や食料輸送について考えさせられます。兵士は臨時徴収されることで真田様の配下となりますが、恩義や義務感は薄いかもしれません。戦況が悪化すると逃げたり敵に寝返ったりする可能性もあるでしょう。
  • また、兵士の食料の問題も大きな課題でした。兵隊を食べさせるには、大量の食料や水が必要でした。戦地までの輸送や調理は兵士の主な仕事だったかもしれません。例えば関が原の合戦では、どれくらいの量の食料を運び込んだのでしょうか?兵士たちは一生懸命に運搬したのかもしれません。
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戦国時代の不思議、合戦のシーンを見ていて?なこと

たとえばこんなシーン。 「真田殿には兵3000を与える。右翼から攻めよ」 その兵3000ですが、きっと誰かが点呼を取って、「君たちは今から真田様の配下になれ」などとやるのでしょうね。きっと。 そうすると今まで、義理も何にもなかった真田様の配下に臨時徴収された兵士が家来になるわけです。当然、そんなに恩義も義務感も感じないでしょうね。負けそうになるとすぐ逃げちゃったり敵に寝返ったりするのではないでしょうか? どうなんでしょうか。 あともう一つは食料です。その3000人の兵隊を食べさせるには大変な食べ物や水が必要ですね。食料を戦地まで運んで料理する。兵隊にとってこれが一番の仕事だったんじゃないかと思うのです。たとえば関が原の合戦では、どれくらいの量の食料を運んで行ったのでしょうね。やっぱり兵隊が一生懸命運んでいったのでしょうかね?

noname#175616
noname#175616
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  • izuhara
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回答No.4

まず大前提として、真田を指揮官として兵士が付けられたわけですので、兵士は真田の指揮に従う義務があるだけで、家来(主従関係)となるわけではありません。あくまで指揮下にはいるだけです。 次に兵士の意識の問題ですが、これはいくつかのケースによって異なります。 質問の例は大坂の陣と推測すると、真田に付けられたのは豊臣方が寄せ集めた牢人衆ですので、真田とはもちろん豊臣家とも主従関係にありません。したがって恩義も義務感もないわけですが、牢人衆にとっては自身の進退を決める最後の機会と思って豊臣方に参陣していますから、それなりの戦意があったと考えられます。 大坂の陣ではなくて、それ以前の合戦となると、軍勢動員体制が整備された北条家などの大名の場合ですと、 大名が武将に知行に応じた軍役にあわせて軍勢動員をかけます。武将は軍役に応じた軍勢を準備します(北条氏の場合は装備まで規定)。集まった軍勢を大名は解体し、再編成して有力武将に率いさせます。軍勢を解体された武将は、身軽になって供回りとともに個人の武功に励みます。 武将が率いた軍勢ももともとは臨時に雇い入れた者が多かったようですから、踏みとどまって戦うほどの忠誠心は期待できません。有力武将(指揮官)のもとに再編成された臨時の軍勢がどんぱちやっている側で、敵の軍勢を崩す機会を狙う歴戦の武将たちといった図となります。 軍勢動員体制が整備されていない大名の場合は、他の方も応えているような与力となります。 たとえば、武田氏が真田氏に配下の東信濃国衆を与力として付けます。東信濃国衆は、それぞれが小部隊の指揮官となりながら、真田氏の指揮下に入ります。この場合、信濃国衆は武田氏の従属化ですから、武将自体の戦意はもちろんあると思われますが、動員してきた兵士については前の事例の場合と同じくあまり踏みとどまって戦うほどではないでしょう。 詳しくは、西股 総生『戦国の軍隊: 現代軍事学から見た戦国大名の軍勢』(学研、2012年)をご一読ください。兵粮についてもしっかり書かれています。

noname#175616
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  • izuhara
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回答No.5

補足・訂正です。 与力について「他の方が答えているように」と書きましたが、No.2の方の言われる与力と同じ意味です。No.3の方の与力の概念とは異なります(与力に限らず足軽もですが。)。誤解を招く表現で失礼しました。

noname#175616
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noname#175616
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補足

あ~なるほど~。いろいろとよくわかりました。たいへんありがとうございました。 そこでもう一つ教えていただけませんか。まあ映画ではあまりないことですが、トイレはどうなっていたのでしょうか。 野戦では、死屍累々、糞尿も累々、なんてことになっていたのでは? 籠城戦では、これはもう困ったことに。 NHKの武田信玄のドラマで、信玄の愛妾が野戦に加わるということがありましたが、あんなことが本当にあったら、トイレだってまわりは男だらけで困っちゃうだろうし、お風呂もないだろうから汚いまま。愛妾の魅力も薄れてしまうのでは? 第二次大戦のロシア戦線では、手りゅう弾で凍った地面に穴を空けてトイレを作ったとか、深くトイレを掘らないと伝染病が蔓延したとか、そういうことを読んだことがありましたが、日本の戦国時代はどうだったんでしょうかね。

回答No.3

雑兵と足軽が居ますが… 例えば 真田家が元々抱えている兵士 これは足軽です そして大阪の陣の時に 幸村が秀頼から借り受けた兵3000は豊臣家の雑兵です 物資の運搬は与力という担当の兵士が行います 彼らは物資の運搬 炊事などを担当 合戦になれば兵士として戦いました ちなみに秀吉は 食料は現地調達でしたね こうすれば与力をつれず 戦い専門の足軽だけで人数を増やせましたから

noname#175616
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noname#188107
noname#188107
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そういうのを与力といいます。 「戦国大名たちは、在地の土豪である寄騎・寄子を寄親の家臣団に組み込ませると、寄親の力が大きくなりすぎるため、謀反の防止の観点から腐心した。そこで寄親を統率する戦国大名は、寄子たる在地土豪たちを陪臣(家臣の家臣)とはせずに直接的に臣従させる一方で、重臣や有力武将(寄親)に附属させ、在地土豪の軍事力を効率的に利用したのである。特に後北条氏、今川氏、上杉氏、武田氏などにしばしば見られる。 また、より大きな大名に加勢として附属させられた武将を与力大名と言うものもあった。その代表例としては織田政権において、織田信忠に河尻秀隆や森長可ら、柴田勝家に前田利家や佐々成政ら、明智光秀に細川藤孝や筒井順慶らが、それぞれ方面軍団を結成していた事などが挙げられる。」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8E%E5%8A%9B 当然ながら、その例であれば真田様に勝たせるために配属されている わけですから、「攻めよ」と言った大元のお殿様への忠義で戦います。 もっとも、死ぬまでの忠義がないから、負けそうになったらそそくさと 逃げるという例はけっこうあります。 また直属の寄り親をもたない浪人が陣借りといって、 戦で武功を立てて、取り立ててもらうとか、恩賞をもらう というような例もあります。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%A3%E5%80%9F%E3%82%8A 兵糧についてはこちらを参考に。関ヶ原規模になると専用の 荷駄隊がついていたはずです。 http://blogs.yahoo.co.jp/rowmoment_boy/15168382.html

noname#175616
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  • tar5500
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回答No.1

兵士についてはこちらを参照 http://okwave.jp/qa/q2461063.html 食糧についてはこちらを参照 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1370768303

noname#175616
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