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奈良時代 大仏造立の詔
大仏造立の詔は紫香楽宮に盧舎那仏を造立するという詔で、 恭仁京の時に出された。 (当時の天皇は聖武天皇。政権担当者は橘諸兄。詔が出された場所は 紫香楽宮だが当時の都は恭仁京であることに注意) 上の説明文にある“詔が出された場所”とはどういう意味ですか? 聖武天皇はその頃恭仁京に居て、 大仏を造立する為の場所として紫香楽宮を指名したという事でしょうか。
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>>聖武天皇はその頃恭仁京に居て、大仏を造立する為の場所として紫香楽宮を指名したという事でしょうか。 おっしゃる通りだと思います。 740年以後、聖武天皇は恭仁京に移り、742年、紫香楽村に離宮を造営したのが紫香楽宮で、翌743年10月、天皇は紫香楽の地に盧舎那仏を造営することを発願した、とあります。 次がご質問の回答になるかと思いますが、恭仁京を唐の洛陽に見立て、その洛陽と関係の深い龍門石窟の盧舎那仏を紫香楽の地で表現しようとしたものとみられるそうです。
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- fumkum
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おはようございます。 天平12年12月に平城京から恭仁京への遷都が宣言され、天平16年2月に難波京を皇都と定めるまでの間、正式な都は恭仁京でした。この間の紫香楽宮は離宮の扱いでした。 大仏造立の詔の関係では、天平15年7月に聖武天皇は恭仁京から紫香楽宮に行幸します。そして、10月に詔が出されます。11月に天皇は恭仁京に還りますが、この時の続日本紀の記述に、「車駕留連紫香楽宮。凡四月」とありますので、詔を出した時に天皇が紫香楽宮にいたことは史料的に証明されます。ですから、詔は紫香楽宮(離宮)で出されますが、この時の正式な都は恭仁京であったということです。 なお、造立の場所については詔では明示されてはいません。その後の続日本紀の記述により、紫香楽宮に建立しようとしたこと、また工事を始めたことがわかります(途中で中止されます)。 以上、参考まで。
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- dohedohe
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「紫香楽宮」で検索すると詳しく載っていました。 紫香楽宮は今の滋賀県にあった当時の離宮で、聖武天皇がしばしば行幸したところだったそうです。 743年10月に大仏建立の詔が出されますが、紫香楽宮に都が移されたのは12月。10月の時点では恭仁京が都でした。 恭仁京に住んでいた天皇が紫香楽宮に行幸し、行幸先で大仏建立の詔を出した、そののち紫香楽宮(信楽宮、甲賀宮)に大仏が建立されることになったことになります。 ただ、天災が相次いだことなどにより、結果的に平城京に「奈良の大仏」として置かれることになったようです。 一応調べた上で回答しましたが、違っていたらすみません。
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