カントールの対角線論法とは?

このQ&Aのポイント
  • カントールの対角線論法は無限集合における大きさの比較に関する定理であり、無理数の集合が自然数の集合よりも多くの要素を持つことを示しています。
  • 具体的な例を用いて説明すると、無理数の集合と自然数の集合を1対1に対応させることを考えます。しかし、対応させた無理数に対して小数点以下の数字を変更する操作を行うと、新たな無理数が得られます。この新たな無理数は、元の無理数とは異なる要素であり、自然数との対応関係も失われます。
  • したがって、無理数の集合は自然数の集合よりも要素が多いことが示されます。これにより、カントールの対角線論法は無限集合には大小が存在することを示す重要な定理となっています。
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カントールの対角線論法についておしえてください。

  《無限集合にはその大きさの大小があるということ》  というカントールの定理をめぐる次の証明の仕方はマチガイではないでしょうか?  なるべく数式を使わずにおしえてくださるとありがたいです。 ▲ (哲学するサラリーマン:平行線が交わる点) ~~~~   http://blogs.dion.ne.jp/le_fou/archives/10216164.html  2.神の証明  (その後半部分)  ( a ) 次に、2つめの定理〔*--《無限集合にはその大きさの大小があるということ》--〕を見てみましょう。  ( b ) これもわかりやすい例を挙げて説明します。無理数全部の集合と自然数全部の集合とはどちらが大きいでしょうか。  ( c ) ここに(0と1の間の)すべての無理数がただ1つの列にリストアップされていると仮定します。例えば、   0.17643567……   0.23482435……   0.62346286……  ( d ) 次に、この無限列の各行に対応する各々の無理数と、1から始まる自然数とが次のような1対1対応を作ると仮定します。   1⇔0.17643567……   2⇔0.23482435……   3⇔0.62346286……  ( e ) ここで自然数1に対応する無理数から小数点以下1番目の位を取ります。次に自然数2に対応する無理数から2番目の位を取ります。これを続けていけば0.133……という無理数が得られます。  ( f ) この無理数の小数点以下の数字を各々勝手に変えます。このような操作によって例えば0.245……という無理数ができます。  ( g ) この数は、自然数1に対応する無理数とは小数以下1番目の位で違い、自然数2に対応する無理数とは2番目の位で違い……となり、自然数と1対1対応させたどの無理数とも異なっていることが明らかです。  ( h ) すなわち、無理数全部の集合は自然数全部の集合よりも濃度において大であることが示される訳です。  ~~~~~~~~  【Q‐1】 ( c )の《(0と1の間の)すべての無理数》というとき そのすべてがリストアップされうるのでしょうか? それは 無限――つまりこの場合 可能無限――であると見てよいか?  【Q‐2】 もし前項の無理数の集合が 無限であるならば ( d )の 1,2,3,・・・とやはり対応させられる自然数の数も無限になる。と捉えてよいか?  【Q‐3】 もしよければ ( f )に言うあらたに勝手に作った無理数(例えば0.245……)は もともとその無理数の集合の中にふくまれているものではないか?  【Q‐4】 言いかえると その無理数((例えば0.245……)も とうぜん自然数の無限の列挙と初めに対応していたはずではないか? なぜ( g )のような結論にみちびかれるのか?

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noname#221368
noname#221368
回答No.49

 #46です。たった一夜で、こんなに番号が増えたんですね(^^)。こういう話題に興味を持つ人は、やっぱり沢山いるんなぁ~(・・・違った、数人か)。でも皆さん熱心ですね。やっぱり皆、現在の集合論はどこか異様だと、感じてるのでは?と、勝手に邪推してしまいます・・・(^^)。 >(1)  ★ 今の結論は、「現在の無限集合論は嘘かも知れないが、嘘にしても良く出来た話だ」・・・です。  ☆ 役に立つということのようですね。  それでも わたしの見方からすれば その起源について知っておきたいとは思います。  私の見方からしても、その起源について知っておきたいです。現在の集合論は直観主義の数学などと比較すると、圧倒的に役に立ち、技術として非常に強力です。その「強さ」は、何を受け入れる事によって手に入れたのか?、代償として何を諦めたのか?。役には立たなくても、そのような事をちゃんと知っておきたいと思っています。 >☆ これは 人間の眼から見て《無茶な仮定》なのでしょうが α さんにとっては お茶の子さいさいのわざではないでしょうか? と言うより そういう能力を持った α さんを想定しているのですから。 >実数無限を 実無限と呼ぶ一定のアタイを取るあたかも有限の数として扱うことが出来ると仮定したわけですから。  そういう想定(仮定)はしてないんですよ。 > 実数無限を 実無限と呼ぶ一定のアタイを取るあたかも有限の数として扱うことが出来ると仮定したわけですから。  α さんは可算無限人(我々は有限人)なので、α さんにとって可算無限は有限に見えても、実数無限はやはり彼にとっても我々にとっても無限です。ただしαさんにとって、実数無限は可算無限になります。ポイントはここかな?、と思いました。  自分は、彼の有限(我々の可算無限)とかわかりにくい表現をしましたので誤解が生じたのかな?、とも思いましたが、そうではない気がしました。  実無限を想定したとしても、それは一定の値を取りません。それはあくまで一定の値を取らない無限です。αが有限とみなす可算無限は、我々の有限とは正反対のもので別物です。それは有限の対立概念である、無限に属するものです。  α さんは可算無限の終端が見えるので、そこではα さんも、可算無限と連続無限の比較において、我々が行う有限と可算無限の比較と、同じ「論理」を使うだろうと想定する。その一点に関してしか、数学は言わない。α さんの有限と、我々の有限が同じだなんて、誰が言った?。俺は言ってないぞ、と現在の数学は強弁します(するんですよ)。  以上が、「言葉(概念)の意味において矛盾ではないのか?」と問われれば、そうだと思います。それが現行数学の失ったものだと思います。数え尽くせたと仮定した存在として実無限を指定したのに、一定値を取らないとか・・・。  今回は、論点整理のために、これくらいにします(整理になったのかな・・・(^^;))。 >☆ 経験世界における無限は 無理数のたぐいなのでしょうか。  この経験世界を超えた《非経験の場》という想定 つまりそれとしての無限は むろん想定ですよね。  現実に観測できる無理数は、(それがあったとして)無理数の有限桁数までで、常に有理数です。それでも一つの無理数が「ある」と、論理的に首尾一貫して言うためには(経験的にありそうだから)、全ての議論に先行させて実無限の存在を認める必要がありました。それが無限公理の要請です。  なのでコーシー式の実数論は、(近似規則は与えますが)ある無理数を近似する全ての有理数の集まり(集合)を、その無理数そのものだとみなします。それらの集合達と、無限公理の要請によってあるはずの無理数達の一個一個が、全単射の関係を結ぶからです。この状況を、同一視するという一言で片付けますが、存在論的には、極悪非道かも知れません(^^;)。

bragelonne
質問者

お礼

 いくつかマチガイをただしていただきました。ありがとうございます。  そして ご回答をありがとうございます。  そうですね。  今回は うけたまわりました。というかっこうになると思います。  あるいはそれとも たとえば  ★ ~~~~   α さんは可算無限の終端が見えるので、そこではα さんも、可算無限と連続無限の比較において、我々が行う有限と可算無限の比較と、同じ「論理」を使うだろうと想定する。その一点に関してしか、数学は言わない。α さんの有限と、我々の有限が同じだなんて、誰が言った?。俺は言ってないぞ、と現在の数学は強弁します(するんですよ)。  以上が、「言葉(概念)の意味において矛盾ではないのか?」と問われれば、そうだと思います。それが現行数学の失ったものだと思います。数え尽くせたと仮定した存在として実無限を指定したのに、一定値を取らないとか・・・。  ~~~~~~  ☆ ここらあたりのことが 結論になるとおっしゃっていましょうか?  もうそのほかにはないのだと。  無限公理のおかれる座標に 対角線論法がそのまま用いられるとするのならば・そして直線論法は同時に用いられなくてよいということでしたら もう問い求めは済んでいると受け取らねばならないと思います。  あらかじめながら――どうなるか分かりませんが―― 感謝を申し上げます。ここまでおしえていただきありがとうございました。

その他の回答 (62)

回答No.54

アルキメデスに学ぶ http://www.koshigaya.bunkyo.ac.jp/shiraish/sansuu00/15/shiryou15.htm http://www.koshigaya.bunkyo.ac.jp/shiraish/sansuu00/ 【資料】 1、アルキメデスの生涯  アルキメデスは、B.C.287年にイタリア半島の先にあるシチリア島の都市国家シラクサで生まれた。アルキメデスの父親プェイディアスは天文学者であった。アルキメデスは幼少の頃より父親から初等教育を受けた。また、数学、天文学、力学を習うとともに、さまざまな機械の製作を行った。若き日に、機械学に関する書「機械学」を書いたと言われているが、今日残存していない。  その後、アルキメデスは学問の中心地であったアレクサンドリアに留学し、ユークリッドの弟子たちと共に「原論」の研究に従事し、幾何学者としての資質を身につけたのである。アルキメデスはアレクサンドリア留学後、生地シラクサに帰り、その後はシラクサで一生を過ごした。そして、シラクサでの研究の成果をアレクサンドリアで親交を結んだドシテオス(B.C.3世紀後半に活躍)やエラトステネス(B.C.276年頃―B.C.195年頃)に書き送ったのである。  アルキメデスは、自分の研究がアレクサンドリアの数学者たちの研究をはるかに凌ぐものであるという強い自信を持っており、次のような皮肉を込めた手紙さえも書き送っている。  「さて、以前にお送りしました定理の一つ一つを振り返っておこうと思います。といいますのは、それらの中にまちがった二つの定理を加えておいたからです。そのことは、それらの証明を何一つ自分でしないで、あらゆる定理を発見したと称するやからを、不可能なことを発見したとして論破するためなのです。」  この手紙からは、たいした能力もないのに、アレクサンドリアの学界に居座っている学者たちに対するアルキメデスの痛烈な皮肉が読みとれる。しかも、アルキメデスは自分の著作を当時広く使用されていたコイネー(共通語)ではなく、わざと故郷の方言であるドリア方言で書いて、それをそのまま送っているのである。 アルキメデスにまつわる最も有名なエピソードといえば、「黄金の冠」の話であろう。 シラクサのヒエロン王は、神殿に黄金の冠を奉納するために、ある工匠に必要な量の黄金を渡したという。出来上がった冠は見事なものであったが、この冠には、黄金が抜き取られ、その代わりに同重量の銀が混入されているとの噂が入ってきた。そこで、ヒエロン王はその真偽を確かめるとともに、冠を構成する金と銀との割合を見いだすよう、アルキメデスに依頼したのである(アルキメデスはヒエロン王やその子ゲロンとかなり親密であったといわれている)。 アルキメデスはこの問題に思いをめぐらしているとき、たまたま浴場に行き、そこで浴槽つかったとき、その中に沈んだ自分の身体の体積だけ水が浴槽から溢れ出ることに気づき、問題解決のヒントを得たという。彼は喜びのあまり「ヘウレーカ!ヘウレーカ!(「わかった!わかった!」)」と叫びながら、裸のままで街を走って帰ったと言われている。(この方法の定式化については後に詳しく述べることとする。)  その他にもアルキメデスは、静力学、水力学、数学、天文学、光学の研究をした。彼はエジプト滞在中に、畑の灌漑用に泉から水を汲み上げるための「アルキメデスの水車」を発明した。アルキメデスは、太陽と月の出入と食、惑星の運行を観察することができるプラネタリウムを作った。また、平面、凸面、凹面の鏡における像の特性について考え、入射角が反射角に一致するという法則を定式化した。そしてまた、彼は、重心の概念を導入し、多くの図形や物体の重心の位置を決定し、「てこ」の理論を作った。水圧の法則の発見と浮力の法則の定式化の名誉は、彼のものである。 アルキメデスの活動期はアレクサンドリアを学術的中心とするヘレニズム時代の初期にあたっていると同時に、当時の世界戦争ともいえるローマ・カルタゴ間の戦争(ポエニ戦争)の時期と重なっている。B.C.212年、ローマの将軍マルケルスがシチリア島のシラクサの港を包囲したとき、この都市国家のヒエロン王は、60隻の敵の船を駆逐するように、親戚であるアルキメデスに要請した。少し前にアルキメデスはてこを発見しており(彼の有名な言葉「われに支点を与えよ、しからば地球を動かして見せよう」が生まれたのはこのときだ)、てこと滑車を組み合わせた巨大なクレーンを造って、侵入した船を持ち上げて港の外へ排除した。この戦いでクレーンを助けたのが石弓と凸面鏡の装置であった。前者は、鉛や矢や重さ10タラントン(250kg以上)以内のさまざまな大きさの石を、かなりの距離投げ飛ばす発射装置だった。管の中に鉛の玉や石をもっている「くちばし」を、城壁の外へ前進させ、敵の大部隊の上でひっくり返すことができた。「鶴のくちばし」は、ロープでつるされ、船首をひっかけ、舟を横転させた。後者は、太陽光を船に集めて、それらに火をつけた。ローマ軍は破滅的な打撃を受けた。マルケルスは、「われわれの船を海から水をすくうコップ代わりに使ったこの幾何学の天才と戦うのはやめにしよう。」そして、「われわれは何故、この幾何学のブリアーレと闘わなければならないのか?それは、海からわれらの舟を持ち上げて、舟の舳先をこなごなに打ち砕き、われわれの頭上に多くの弾丸を飛ばしてきた。百本の手を持つ巨人の力にはかなわなかった。(ブリアーレとは、ギリシア神話の百本の手を持つ巨人のことである。)」また、あるローマ人は、「…ときには、一人の人間の才能が、膨大な数の人間よりも大きなことができるなどとは考えずに、アルキメデスの技術を計算に入れていなかった。今や、彼らはそのことがわかった…。アルキメデスは都市の内部で、海からの攻撃に対する防御の手段を準備していた。それは、予期せぬ攻撃に対する防御上の任務から、防衛軍を解放した。」  三年間、アルキメデスは敵軍を寄せつけなかった。ところがシラクサの市民たちが宗教儀式に心を奪われていたある夜、ローマの兵士たちは街の城壁をよじの上って城門を開けた。マルケルスの軍勢が一斉に城門になだれ込むなかで、将軍は兵士たちに命じた。「アルキメデスに乱暴を働いてはならんぞ。この男は賓客として扱え。」  マルケルスの兵の一人が、砂の上に幾何学の図形を描いていたアルキメデスを中庭で見つけたとき、彼は命令に従わずに剣を抜いた。「わしを殺す前に、おまえさん」とアルキメデスは嘆願した。「どうかこの円を描き終わらせてくれ。」兵士は待たなかった。アルキメデスは死ぬ間際にこう言った。「わしの体はくれてやる。だがわしの魂はわしのもんじゃ。」  こうしてアルキメデスは、B.C.212年にローマ兵士によって殺された。75歳の時であった。  このアルキメデスの死を悼んだマルケルスは、彼のために墓を建てたのではないかと言われている。実際、B.C.75年にキケロがシチリアの財務官として同地に赴いたとき、アクラディナの入り口で、イバラや雑木の茂みに覆われたアルキメデスの墓を見つけたと報告している。その墓碑には、図のような図形が刻まれていたという。この図形は、アルキメデスが『球と円柱について』において証明した「球の体積、表面積は、いずれもその外接円柱のである」ことを示すもので、この図形を墓碑に刻むことは、生前からのアルキメデスの望みであったと言われている。アルキメデスはこの研究結果をよほど気に入っていたのであろう。 以上のように、天文学・機械学の研究者として出発したアルキメデスは、機会や技術を蔑視するイデア、つまり形相至上主義の学問観に縛られず、種々の測定を行ったり、天秤の使用や円周率・平方根の計算を行うなど、数学に計量的要素を大胆に取り入れるとともに、数学の実際的な応用を重視して、「機械学」という新しい分野を開拓し、理論と実際との結合を企図して、数多くの独創的な業績を挙げたのである。 【QNo.40454 円周率(π)が超越数であるということの意味は? そして真理とは?】 http://okwave.jp/qa/q40454.html

noname#221368
noname#221368
回答No.53

 #49です。 >★ ~~~~   α さんは可算無限の終端が見える・・・中略・・・、一定値を取らないとか・・・。  ~~~~~~  ☆ ここらあたりのことが 結論になるとおっしゃっていましょうか?  もうそのほかにはないのだと。  ここら辺りの事で、納得はされないにしても、何と言ったら良いか正確な言葉が浮かびませんが、論点の違いは明らかになったのでしょうか?。  そうだとして、私にも感想を述べさせて下さい。 [其の一]  やっぱり自分は技術屋だなぁ~、と思いました。なかなかあなたの意図がつかめなかった・・・。たぶんこういう事も災いして数学カテでは、高飛車で高圧的な応答も出てくる気がします。なかなか話が通じないというより、使用している言葉そのものが違うので、皆さんイライラするんだと思います。 [其の二]  今回のやりとりで、おわかりになったと思うのですが、数学はやっぱり技術主導なんです。意味や概念主導ではありません。現在の集合論に、余り期待は持たれない方が良いと思います。ゲーデルの挑戦なんかは、その際たるものです。  意味を全く考えないでも正しい答えを導ける手順を与える事、この究極のバカチョン方式を作り上げる事は、今でも数学の究極の目標の一つです。1次方程式や2次方程式の解の公式は、この流れの中にあり、5次方程式以上に代数的公式がない事が証明された時には、みんな大ショックを受けました(あくまで代数的にです。次とはいちおう無関係です、念のため)。  有限個の対象を相手にする限りは「有限の手続きで」究極のバカチョン方式が存在すると、完全性定理が示された時には、みんな狂喜乱舞しました。原理的には数学的な文法だけを確認すれば良く、「ついに意味の地獄から解放された」と思ったからです。もしもそうなら、コンピューターで原理的には、全ての数学的定理を証明し尽くせる事になりますが、「電子頭脳」なんて夢のまた夢であった当時、誰もそんな心配はしませんでした。  そして予想に反してと言うか、案の定、不完全性定理がそれをひっくり返します。この時は、数学界に激震が走りました。 [其の三]  激震が走ったにも関わらず、数学者達は既往の理論を捨てません。まず行われたのは、被害を最小限に食い止める、問題の封じ込めです。それこそ、卓越した技術の全てを注ぎ込んで・・・。  封じ込めにはもちろん風穴は空いていますが、可算無限の実無限さえ問題なしと認めれば、後は全て上手く行きそうだ、という程度の「風穴」である事がわかります。この程度なら、たとえ現在の集合論に逆理が発覚しても、定理の「解釈を」少々変更するか、公理にちょっとだけ制限事項を増やすだけで済みそうだと、安心します。  このような(抜けぬけとした?)態度になるのは、彼らが職業数学者だからです。日々使用している既往理論は、現実に役に立つし、経験範囲内では間違いないものだという自信があります。また職業だから、既往理論に全てひっくり返ってもらっては、困ります。  自分はプロの数学者ではありませんが、数学を日常的に使用するので、やっぱり自分もどこかでこういう感覚を持っています。それで「存在論的には極悪非道かも知れない」などと言いつつ、それらを受け入れます。 [其の四]  では、あなたのような行き方(生き方?)は数学において、全くの異端なのか?というと、そうではありません。直観主義の数学は、明らかにそのような方向を目指しました。 >仮定するのも仮定したその眼を持つのも 人間ですが それは仮定としてしか人間には分かっていません。実無限ということの内容について 実際に人間が知ったということにはならない。  それでも 仮定をもとにして――あるいはそれをさらに公理として据えつつ 公理のもとに――推理を展開する。  それによって 現実の事象と対応する結果が得られることがある。  仮定は――あるいは背理法のばあいは仮定に反する内容が―― 妥当だと見なされる。  ・・・その通りです。直観主義の数学は、上記のようなやり方を「非構成的証明」と呼んで、忌み嫌いました。そこで許されるのは、せいぜい可算無限までの見渡しです。可算無限の任意有限までは、いつも観測可能だからです。  さらにずいぶん前になっちゃいましたが、#23であなたは、 >(11)  言いかえますと 無限集合論は 数学(ないし現実世界)のひとつの脇道として派生させた領域である。となるのではないでしょうか? という事をまさに言った、現代の数理哲学者がいます。カルナップです。カルナップはプロの数学者でもありましたが、現在の集合論の行き方を、どうしても許容できなかったと思われます。彼は言います。  「なるほど、現在の集合論が技術的に強力なのはわかる(プロだから知っている)。しかしその、認識論的根拠などはどうなのだろう?。我々は現在の集合論と、認識論的に妥当と思える集合論との二本立てを採用し、もう一つの集合論で技術的な集合論を検証しつつ、研究を進めるできではなかろうか?」  彼はそのために、認識論的に妥当と思える集合論の素案まで提示します。しかし「大ブーイング」だったんですよ。というのは、カルナップが誠実にも認めたように、認識論的に妥当と思える集合論を建設するに当たっては、問題の所在を明確化する手段として、現在の集合論で問題の所在を解析するしかなかったからです(望みのある方法としては)。だとしたら、何のための、認識論的に妥当と思える集合論なのか?、という訳です。  現在の集合論でとことんやり尽くし、何かに気づいた時にそうすれば良いじゃないか。そしてその結果を現実に応用した場合、何か違いは出るのかい?。風穴は、可算無限程度にしかない。だったら結局あなたは(カルナップは)、現在の行き方を認めてるのと、一緒じゃないか・・・。  これが哲学的に「お門違い」なのはわかりますが、じつは自分もこういう感覚を持っています。そういう訳で、カルナップが多勢に無勢の、まさに多数決で判定負けして以来、こういう話題は80年ほど棚上げされてる気がします [其の五]  余り期待されても困りますが、数理哲学に関して、以下の参考文献をあげます。  (1)数学の哲学,田村祐三,現代数学者,1981年.   田村祐三は、本当の哲学から数理哲学へ接近した人だと思います。カルナップの立場についても記述があります。  (2)数学と哲学の間,村田全,玉川大学出版部,1998年.   村田全はプロの数学者なのに、ゼノンのパラドックスなどの古典的話題を、現在の行き方で、本気で議論してくれる稀有な存在です。その結論は、現在の行き方に批判的な場合すらあります。  そして、ちょっと迷ったのですが・・・。  「数学の基礎の研究,日戸宗太郎」という本があります。インターネットで検索してもほとんど手掛かりはなく、かつあったとしても「トンデモ」に分類されるのが普通ですが、自分はそうは思えません。この本は持っているし、集合論について考えていた頃、赤線を引きまくって読みました。この人は、自分の考えを発表したタイミングが終戦直後だったいう、不遇の研究者だと思います。研究態度は極めて真面目だし、結論はカルナップと同じ趣旨だと思えるからです。  でも、最後にはこう思いました。  ・「言いたい事はわかる」。でもそれは「限りなく真実に近い、的外れだ」。俺のやりたい数学はそうじゃない・・・・.  やっぱり自分は技術屋で、「今の」数学をやりたかったんだ・・・、という結論になります。ただし「今の数学」は、不完全性定理により、「人それぞれの無限論があって良い」と言ってます。

bragelonne
質問者

お礼

 ででてx3さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  しみじみと読みました。  ★ 風穴は、可算無限程度にしかない。  ☆ ここが分かれ目でもあるようです。  と言うより もっときちんとていねいに説明してくださっています。ありがとうございます。  しゃれたことを言おう 何かないかなと考えれば考えるほど 何かおかしく(まとまりがつかなく)なりますからには 事態をよく噛みしめつつ あとはそれとして考えをあらたな局面においてのように伸ばすのなら伸ばす。ということになるかと思います。  その数学の手法で捉えている現実とは何か? こういった漠然とした問い求めであるようには思います。  あと 振り返るとわたしはずいぶんえらそうなことを言っていたのだなぁと思います。脇目も振らずに突き進んだと捉え 愛嬌として見ておいてください。  あるいは 神の証明にからんでいたわけでその問題もあるかに思われますが これはいま・ここでは別とします。初めから その議論は別とする心つもりでした。数学という行き方の解明が 主役でした。  意を尽くしてのべてくださったのに対して こちらの鐘のひびきがまるで冴えないかたちになってしまいますが  ★ やっぱり自分は技術屋で、「今の」数学をやりたかったんだ・・・、という結論になります。ただし「今の数学」は、不完全性定理により、「人それぞれの無限論があって良い」と言ってます。  ☆ としてもまとめてもらっていますので さらに世界は開かれているというかたちで一件落着を得られたことをとうとびたいと思います。  もうしばらく開いていて 締めることとします。  みなさんにも感謝申し上げます。ありがとうございました。

回答No.52

No.45 です。 どうも上手く伝わらなかったようですね。。。 「からくり、方法」とは、「構成する方法、公理、定義」という概念に相当します。 その構成方法と、そこから生み出される実体とは異なるとして区別されるのもいいですが、それを「公理・定義」だから強引に「=」であると結びつけてしまうということです。(あるいは「公理=実体」であると「仮定する」といってもいいです) 通常は、設計図のみでは実体は生み出されませんが、「頭の中での操作のみで完結する」数学の世界では、論理的・無矛盾な設計図があれば、それは実体そのものと同義になるでしょう。 認識する側が無限というものを可能無限として捉えるのは、主として「...」という記号に、具体的な数を順に想起しつつ、「終わりが【ない】」という否定的な概念であるからでしょう。 一方、認識する側が無限というものを実無限として捉える場合、たとえば、自然数を「ペアノの公理」という構成方法にて捉えるという肯定的な概念とし、「その方法で得られる塊」として捉えることに相当するでしょう。 あと、人間の思索範疇にて「上下的な」は、90度回転させて考えるなら「水平的な」に切り替わります。 どちらが「上」とか「下」ではなく、「視点の違い」なだけです。「可能無限」であろうと、「実無限」であろうと、認識主体にとって(文字・記号を用いて表現可能な)概念でしかないのです。 No.49にてddtddtddtさんが記述しておられる >>> α さんは可算無限人(我々は有限人)なので、α さんにとって可算無限は有限に見えても、実数無限はやはり彼にとっても我々にとっても無限です。ただしαさんにとって、実数無限は可算無限になります。ポイントはここかな?、と思いました。 <<< ですが、人間の範疇でも、無限を一つの数のように扱う数学があるようで、たとえば超準解析というレベルでは >>> http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%85%E6%BA%96%E8%A7%A3%E6%9E%90 3.任意の有限超実数はちょうど1つの実数に無限に近い。 <<< といった表現を使うようです。 また、「p-進数」という概念もあるようで、 ...999=-1 と無限大=-1となる定義も可能なようです。 >>>http://ja.wikipedia.org/wiki/0.999... 『10-進数』は小数展開の類似であり、左の方へ進んでいく。10-進展開 ...999 はまさに "最後の 9" をもつが、"最初の9" はもたない。一の位に 1 を加えることができるが、すると 0 だけが残されて繰り上がりが続き、その結果 1 + ...999 = ...000 = 0 となる。すなわち、...999 = -1 である。 <<< この場合、無限大や無限小といったものがなくなり、円還を描くごとくに数列が繋がるようです。 ご参考になれば幸いです。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  (1)  ☆☆(No.45お礼欄) ~~~~   ★ ~~~~~~~~~    ○ 実無限は 限りなくつづく数のあり方を見るのではなく、「限りなく続くからくり」を「仮説として」見るチカラを有している者がそのように見たときに「公理(仮説)」として「有限の文字数で表現可能な概念」である。   ~~~~~~~~~~~~~~   ☆ この定義の仕方について 現実論の観点から 批判します。  1. ★ 「限りなく続くからくり」を「仮説として」見る   ☆ 無限つまり可能無限が 数値として限りなく続くというのは 《からくり》でも何でもないでしょう。そういう現象でしょう。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ なる発言に対して  ★ 「からくり、方法」とは、「構成する方法、公理、定義」という概念に相当します。  ☆ と言われても 筋が違います。  原文には 《方法》とはひと言も書いてありません。どうして 再反論にあたって もともと書いていない《方法》という言葉をここで持って来るのでしょう?  無理数という現象は 《「構成する方法、公理、定義」》を持ち出す前にすでに起きているものです。    (2)  ★ 「可能無限」であろうと、「実無限」であろうと、認識主体にとって(文字・記号を用いて表現可能な)概念でしかないのです。  ☆ 可能無限は すでに起きている現象について規定する概念です。実無限は 一たん仮定をもうけてその上で規定して得られる概念です。  この《一たん仮定をもうける》というところで 人間よりも上なる視点が要請されています。  (3)  あとは ほかに考えられた手法がいくつか紹介されていますが ここではそれらを含めてかどうか 対角線論法の起こり――どうして必要か どのように必然で妥当であるか――について問うています。  すでに手法があるから それらに従えという回答は 筋が違います。

bragelonne
質問者

補足

 随想です。  無理数の存在をめぐる実数無限(それは 可能無限)に対して そのアタイの限りなさを或る種の仕方で確定させるということ。  この実無限という仮定。  実無限として実数無限を扱い得ると仮定するその視点。  仮定するのも仮定したその眼を持つのも 人間ですが それは仮定としてしか人間には分かっていません。実無限ということの内容について 実際に人間が知ったということにはならない。  それでも 仮定をもとにして――あるいはそれをさらに公理として据えつつ 公理のもとに――推理を展開する。  それによって 現実の事象と対応する結果が得られることがある。  仮定は――あるいは背理法のばあいは仮定に反する内容が―― 妥当だと見なされる。      *  こういったことはあり得るのでしょうね。      *  ひとつの島をめぐって ふたりの人間がその所有権をうったえてあらそっている。  そこへ いわば実無限としての仮定を補助線のごとく引く。ことは 出来ますかねぇ? どうでしょうか。  《実無限》としての眼 これは――アレフさんとしましょうか―― 人間にとってまだ現実のモノゴトではありませんが 何らかの――言ってみてもよいのでしょうか――解決としてのあり方を示すことが出来ましょうか?  あらそうふたり・あるいはわれわれ人間の眼には なかなか見えないのですが それでもアレフさんの眼には 所有権の確定した図柄が見えていましょうか?  あるいは 所有権ということが 問題なのでしょうか?  あるいは 特に領土となると その主体としての国家が問題なのでしょうか?  あるいは 人心の趨勢というものが なんぴとの手にも負えないしろものなのでしょうか?  というふうに アレフさんの物語は 想定でありつつ 現実にチカラを得て行くことが出来ましょうか? どうでしょうか。  それとも 島の領有をめぐる問題には アレフさんはお休み願ったほうがよいのでしょうか? 限りなくつづく無理数のままにしておいたほうが?

回答No.51

亀の中国思想史-その起源をめぐって- http://mayanagi.hum.ibaraki.ac.jp/students/04/nagatani.html 日本の対中貿易赤字が巨額に見える理由 http://blogos.com/article/48860/ 中国とインドの経済関係:補完関係の発展と摩擦 http://scpj.jp/wordpress/wp-content/uploads/2012/04/tyuugokutoindonokeizaikannkei.pdf

回答No.50

こんばんはです。 ☆☆☆☆☆☆  ★ ~~~~  もしA = {X|(Xは集合)∧¬(X∈X)}が集合ならば、  A∈A ⇔ ¬(A∈A)  となる矛盾が生ずる。  ~~~~~~  ☆ これなどは すっきりし過ぎるくらいすっきりしていると感じました。  (その現実問題がどうなのかとか どういう起源から来ているかとか これについても気になりますが)。 ~~~~~~ まず、集合の基本的なところから。 {x|P(x)} とは「P(x)=《真》」になる要素をもつ集合を意味します。 「Aは集合である」と仮定しているので、(Aは集合)は《真》。これは省いてよし。 もし、  ¬(A∈A)=《真》ならば、集合の定義からAを要素に持つことになる(A∈A)。   ∴ ¬(A∈A)⇒(A∈A) 逆に、(A∈A)が《真》、つまり、Aを要素に持つならば、¬(A∈A)が《真》。(集合の定義ですので)   ∴ A∈A ⇒ ¬(A∈A) なので、   A∈A ⇔ ¬(A∈A) ☆☆☆☆☆☆  亀が入っているのか入っていないのか あやふやにしか受け取れません。  問題ない文章なのですか? ~~~~~~~ さぁ~。 (a)のタイプは具象でも大丈夫だけれど、 (b)のタイプは具象ではだめで、抽象でないと成立しないからではないですか。 (b)が具象であっていけない理由は、特にない、とわたしは思いますけれども。。。。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  亀について残念ながら分からないようです。  これまでおしえていただきありがとうございました。

回答No.48

こんにちはです。 自分自身を要素に持つ集合とは、たとえば、  A = {1, 2, A} みたいな奴です。 で、  A = {1, 2, {1, 2, A}} = {1, 2, {1, 2, {1, 2, A}}}= …… みたいになる。もう、この段階でそろそろアブないニオイが漂いはじめている。。。。 でも、まだ大丈夫。 しか~し、 あらゆる集合のあつまりA、つまり、すべての集合を要素をもつあつまりAといったようなものを集合と呼んでしまうと、まずいことになってしまう。 Aはすべての集合の集まりなんだから、自分自身を含めて、自分自身の部分集合を要素に持つ。 こうした集合を、Aのべき集合といって、この濃度は、A自身の濃度|A|よりも大きいんですよ(カントールの定理)。   ~~~~~   たとえば、    A = {{1}、{2}} 要素の個数は2    Aの部分集合は、空集合φ、{1}、{2}、{1、2}なので、Aのべき集合の要素の個数は4。   いかなる無限集合であろうが、カントールの定理は成立します。   ~~~~~ 集合Aはすべての集合を要素に持っているのだから、Aのべき集合の濃度と当然一致しなければならない。なのに、Aは、Aのべき集合よりも濃度が小さい。矛盾。 よって、すべての集合を要素に持つ集合は、存在しない、集合ではない。 でも、ひょっとしたら、すべての集合を要素として持つ、そんな集合Aが存在するかもしれない。 で、ラッセルのパラドクスへと続くわけです。 自分自身を要素に持たなくても、矛盾、持ったとしても、矛盾。やっぱり、そんな集合は存在しない。集合ではない!! ☆☆☆☆☆☆☆ ラッセルのパラドクスは、  {X|(Xは集合)∧¬(X∈X)}は集合ではない。  (「¬」は「ない」の意味の論理記号) と同じ(正確には、この否定)。 ~~~~~~~ もしA = {X|(Xは集合)∧¬(X∈X)}が集合ならば、  A∈A ⇔ ¬(A∈A) となる矛盾が生ずる。 (「篠田寿一・米沢佳己 数学・位相演習 サイエンス社」) ~~~~~~~ 「嘘つきのパラドクス」になっている。 この証明を言葉で説明しようとすると、眠り猫、再びパニックに陥ります。自分が何を書いているのか、途中から分からなくなり、さらなる昏迷の世界へと迷い込んでしまいます(笑い)。

bragelonne
質問者

お礼

 ねむりねこさん ありがとうございます。ご説明をいただきました。  ★ ~~~~  もしA = {X|(Xは集合)∧¬(X∈X)}が集合ならば、  A∈A ⇔ ¬(A∈A)  となる矛盾が生ずる。  ~~~~~~  ☆ これなどは すっきりし過ぎるくらいすっきりしていると感じました。  (その現実問題がどうなのかとか どういう起源から来ているかとか これについても気になりますが)。  ですが 前回ぐずったのは むしろヰキぺの日本語の問題です。    ☆☆(No.9お礼欄) ~~~~   ▼ (ヰキぺ:ラッセルのパラドクス) ~~~~~   ( a )「自分自身をその要素として含まない集合」とは具体例を挙げると、    「亀の集合」や    「丸いものの集合」や    「赤いものの集合」のような、    集合それ自体が亀や丸いあるいは赤いものでない集合   のことである。  また、   ( b )「自分自身をその要素として含む集合」とは、    「不可視なものの集合」や    「無生物の集合」、    「赤くないものの集合」、    「集合の集合」のような、      集合それ自体が自身の要素の条件としてあげる条件に合致する集合   のことである。  ~~~~~~~~~~  ☆ これを読み解くことが出来ませんでした。というトホホです。  亀が入っているのか入っていないのか あやふやにしか受け取れません。  問題ない文章なのですか?

回答No.47

こんにちはです。 現在、数学アタマが大きなダメージを受けているので、ハッキリと分からないのですけれど、 No44にあるk_jinenさんの神に対する定義   ∀「存在するもの」∈「神」(すべての存在するものは神に含まれる) はラッセルのパラドクスによく似ているような。。。。 ラッセルのパラドクス ~~~~~~~~ 「自分自身をその要素として含まない集合」とは具体例を挙げると、「亀の集合」や「丸いものの集合」や「赤いものの集合」のような、集合それ自体が亀や丸いあるいは赤いものでない集合のことである。また、「自分自身をその要素として含む集合」とは、「不可視なものの集合」や「無生物の集合」、「赤くないものの集合」、「集合の集合」のような、集合それ自体が自身の要素の条件としてあげる条件に合致する集合のことである。ここで、A 集合すべての集合を S とする。S も集合である以上、A か B のいずれかに分類されえるように見える。そのどちらを仮定しても以下のようにして矛盾が生じ、ラッセルのパラドックスとよばれる状況が得られる。 1. S が A 集合であるとする。S は A 集合なので、A 集合の条件から S は S の要素にはなりえない。しかしS は A 集合なので S の条件、「S はすべての A 集合の集合である」より S は自身の要素となるはずである。よって矛盾。 2. S が B 集合であるとする。S は B 集合なので、B 集合の条件から S は S の要素となるはずである。しかし Sは A 集合しか含んでいないので、A集合の条件からS の要素となることはない。よって矛盾。 以上から、S を A 集合と仮定しても、B 集合と仮定しても矛盾が生じることが証明された。 ~~~~~~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%81%AE%E3%83%91%E3%83%A9%E3%83%89%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9 現在大きな損傷を受けている《眠り猫の数学アタマ》がさらなる混乱の渦に巻きこれる危険な香がしていそうなので、問題提起だけ。   危なきに近寄らず ということで(笑い)。。。。

bragelonne
質問者

お礼

 ねむりねこさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ▼ (ヰキぺ:ラッセルのパラドクス) ~~~~~  「自分自身をその要素として含まない集合」とは具体例を挙げると、   「亀の集合」や   「丸いものの集合」や   「赤いものの集合」のような、   集合それ自体が亀や丸いあるいは赤いものでない集合  のことである。  また、「自分自身をその要素として含む集合」とは、   「不可視なものの集合」や   「無生物の集合」、   「赤くないものの集合」、   「集合の集合」のような、   集合それ自体が自身の要素の条件としてあげる条件に合致する集合  のことである。  ~~~~~~~~~~  ☆ この条件ないし定義がよく飲み込めません。つまり日本語が分かりません。  なんで こうなるんですかねぇ。  前へすすめません。です。・・・

noname#221368
noname#221368
回答No.46

 #35です。以下は、#33さんの冒頭の2行がきっかけになっています。と言う訳で、無限公理の意味での実無限には関わっても、神様には関わりません(関われないので)。 (1)  まず#32の補足について。 >6. いや 違う。αさんにとっては 対角線論法など要らないわけです。そしてつまりは われわれ人間の仮定によるなら αさんの眼には 実数無限と自然数無限とが一対一に対応して見えているというものです。そう仮定したのですから。  いや違う・・・というのが、自分の意見です。αさんに自然数と実数の対応において対角線論法が要らないのは、彼が彼の有限で彼の可算無限を数えたら、数えきれないのは明らかだからです。我々が自然数無限と実数無限の間に全単射(1対1かつ上への対応)があると仮定する事は、我々がαさんに「無限を有限で数え尽くせるという無茶な仮定を、採用させたのと同じだ」と、私には思えます。 >8. それが 揺らいだのは 対角線構成をこんどはわれわれ人間が αさんのように成ってか それとも αさんの世界をわれわれ人間の世界に引きずり降ろして来てか いづれかの想像の世界において描いてみせた。  そうですよ。「それが 揺らいだ・・・対角線構成」の部分がなくても、そうさせた時のαさんの判断を、我々の世界でモデル化した事になります。でもそれは、彼を存在として引きずり降ろした訳ではない・・・。 >αさんから見れば一対一に対応して見えているその図柄を そこから《数え切れた》という有限性だけをけっきょく盗んで来て その有限性をこんどは前提として・・・  ・・・盗んだ訳でもない。モデル化は翻訳なので、単にαさんの状況を、我々の理解できる(経験できる)状況で、たとえた(?)だけだ、と思えます。その例えが妥当とすれば、αさんにも対角線構成が必要となる状況は、あります。  モデル化の根拠は、我々とαさんには、たった一つだけ接点があるからです。αさんは可算無限を全部見渡せるので、自然数全部より実数全部が多いなら、余りの実数を具体的に見る事が出来るはずです。我々が、我々の有限で我々の可算無限を数え尽くそうと「無茶した時に見えてくる」、多数の自然数の余りと同じです。しかし我々は可算無限すら見渡せないので、対角線構成で、たった一個の例外しか発見できません。しかしその方法は、αさんにとっても有効だろうと・・・。  αさんにも対角線構成が必要となる状況は、αさんが、実数無限と、それより大きな無限を比較しようとした時です。  これを茶番劇とは言わないで下さい。数学は背理法を茶番劇化するためにこそ努力するんです。数学における「証明」なんて本当は、事後の事務確認のようなもので、本質はそこに至る背景にあります。  自分が、対角線論法は実在論的に(存在論的に?、起源論として?)暴論だと言ったのは、この我々と同じように発想する無限の彼方の住人なんて、たとえ想定であっても本当に想定して良いのか?と、実在論として相当に危ない橋を渡っていると思えるからです。その視点を盗んだからではありません。 (2)  ・・・こうやって比較すると、自分とあなたでは同じ状況に関する物言いが、微妙に噛み合っていません。以下は誤解かも知れませんが、あなたは数学的結果に対する、現実との比較テストをやっているように見えます。もちろんそれは、やるべき事なのですが・・・。  とりあえず背理法に戻ります。背理法は慣習的な言い回しがどうであれ、A⇒Bを証明するために、~B⇒~Aを利用するだけです(~は否定を表します)。あなたが「αさんにとっては 対角線論法など要らないわけです・・・」とか、「《数え切れた》という有限性だけをけっきょく盗んで来て・・・」とか言うたびに、あなたはそこに、  (~BかつB)⇒~A   (2-1) のタイプの推論を見ているように思えます。(1)の推論タイプは今の数学でも「やっちゃいけない事」で、(2-1)ならどんな結論でも得られからです(これを矛盾した理論と言います)。  背理法における~B以降の推論は、もちろんBを前提として行いません。Bとは無関係に~B⇒~Aを導けたら、A⇒Bと同等なのでA⇒BにGOサインを出します。逆に~B⇒Aを導けたらOUTです。A⇒B と ~B⇒~A は同等を前提に、  ~B⇒(~AかつA)   (2-2) になるので、以後は(2-1)と同じ状況になるからです。あなただって、全ての数学的な背理法に駄目出しする訳ではないと、自分は思います。ただ上記は、あくまで構文論的なもので、意味を伴っていない機械的計算である点は注意します。だからコンピューターにも可能です。 (3)  でもあなたが対角線論法は、(2-1)や(2-2)のようなものではないのか?、という気持ちはわかる気がします(自分も最初そうでした)。結局あなたも、対角線論法の背理法としての異様さに気づいてるのだ、と自分は思います。だから結論を現実との比較テストにかけて、その論証を検証したくなるのだと。  数学の通常業務は、具体的には有限作業に限定されるので、そこでは普通、意味を伴なわない機械的計算結果と現実との乖離はないです(実際には極めて小さいと言うべきですが)。感覚的に言うと、それが完全性定理です。しかし無限を扱った時には、(2)のような機械的計算が、AやBの内容を全く考慮してない事に突然気づかされます。ぎょっとする結果が出るからですよ。そしてそのような場合、命題の意味を考えて現実との比較テストを行わないと、真偽のほどはわからないと言ってるのが、感覚的に捉えた不完全性定理だと言えます。  あなたは、対角線論法の結果が、あなたの考える現実と一致しないので全単射の存在仮定を捨てました。実際の行動としてこれは、背理法をやり終わった後で、思わしくない結果を招く公理を捨てたのと同じなので、背理法の使用法として、誰も文句は言えません。そして、全単射の存在仮定を捨てた時点で、現行の数学の外へ出た事になりますが、これもかまいません。不完全性定理があるからです。ところが、現実の物理的な無限って、無いんですよね(少なくとも観測されてない)。なので、ややこしくなる・・・(^^;)。  (3-1)物理的な無限を許すような現実世界がもしもあったら、無限は無限直線追加で扱うのが正しいのかも知れない。その場合、対角線論法やそういう手法に基づく現行の無限論は、全てご破算になる。  (3-2)一方で、無限は対角線論法の類で扱うのが、正解かも知れない。その場合は、無限直線追加は不可になる。  ところが・・・、どっちも違う可能性だってある。(3-1)や(3-2)とは別の方法で扱うのが、無限の正しい扱いなのかも知れない・・・。  自分は、「そうすると仕事出来なくなる」という単純な理由から、現行数学の外には出ませんが、最初からそうだった訳ではありません。今の集合論を受け入れる過程は、こう言ってよければ実在論的に(存在論的に)、連戦連敗の毎日だったです。今の結論は、「現在の無限集合論は嘘かも知れないが、嘘にしても良く出来た話だ」・・・です。  長々と書きましたが、これが趣旨だったりして・・・(^^;)。

bragelonne
質問者

お礼

 ででてx3さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  (1)  ★ 今の結論は、「現在の無限集合論は嘘かも知れないが、嘘にしても良く出来た話だ」・・・です。  ☆ 役に立つということのようですね。  それでも わたしの見方からすれば その起源について知っておきたいとは思います。  (2)  単純なことで  ★ 現実の物理的な無限って、無いんですよね(少なくとも観測されてない)。  ☆ 経験世界における無限は 無理数のたぐいなのでしょうか。  この経験世界を超えた《非経験の場》という想定 つまりそれとしての無限は むろん想定ですよね。  すなわち 想定としての無限は 無いとも有るとも 人間が認識も規定も出来ないと来ています。  という数学の――おまけとしてのような――世界があるのではありませんか?  《分かるか分からないかが分からない数》 これも 公理のひとつになりますか?  これが 永遠の平行線であるかも知れないのですが。  (3)  ★ ~~~~  我々が自然数無限と実数無限の間に全単射(1対1かつ上への対応)があると仮定する事は、我々がαさんに「無限を有限で数え尽くせるという無茶な仮定を、採用させたのと同じだ」と、私には思えます。  ~~~~~~  ☆ これは 人間の眼から見て《無茶な仮定》なのでしょうが α さんにとっては お茶の子さいさいのわざではないでしょうか? と言うより そういう能力を持った α さんを想定しているのですから。  実数無限を 実無限と呼ぶ一定のアタイを取るあたかも有限の数として扱うことが出来ると仮定したわけですから。    (4) けれどもその α さんの世界図に映され捉えられた全単射に対して 対角線論法にせよ直線無限論法にせよ そのような或る種の無限後退なる手法をほどこすのは けっきょくその間には別の座標に移したという作業があったはずである。という物言いになっています。  自分たちの人間に理解のできるこの世界に対応する座標の上に α さんに特有の世界図を引きずって来た。のではないかと。  α 座標では 無理数無限は 或る種の一定数としての実無限になっています。つまり これを人間座標で見ると 実無限の数値が 有限のものに〔成り代わったと〕見える。有限の数値のようであるなら 無限後退の手法をほどこしてもよいだろうと思うのは 座標を混同している結果だと見るべきではないか? という物言いです。  つまり もし座標の移動かつ転換がなかったと見做してもよいとして 対角線論法をやすやすと採用しうるのならば 直線無限論法も 同じく採用し得ます。つまり それまで数え上げていなかったあらたな無理数が得られたとしても それに対応する自然数も得られるはずだ。という物言いです。  (5)  このとき ぎゃくに α 座標のほうへ 人間座標におけるモノゴトが輸出されることがありうるのではないかという問いがありました。  ★ αさんにも対角線構成が必要となる状況  ☆ です。それは 何か? どうなのか?  言いかえると α 座標における世界図を 人間座標のほうに移し変えたことは モデル化でありその  ★ モデル化は翻訳なので、単にαさんの状況を、我々の理解できる(経験できる)状況で、たとえた(?)だけだ、と思えます。その例えが妥当とすれば、αさんにも対角線構成が必要となる状況は、あります。  ☆ すなわち  ★ αさんにも対角線構成が必要となる状況は、αさんが、実数無限と、それより大きな無限を比較しようとした時です。  ☆ これには 簡単にお答えできると思います。段階に応じて α1さん・α2さん・・・と小出しにして仮定を増やせばよいでしょうし その α さんの総体は おおきなひとつのアレフさんということにすればよいはずです。つまり 最終の最大のアレフさんから見れば 無限後退なる手法としての対角線構成などは やはり要らない。こう成ります。から。  (6)  あとは 分かりません。気づき得ていないのだと思います。これこれこういうふうに批判をしている 答えなさいというふうに お手数ですが 促していただけるとさいわいです。

回答No.45

No.43 お礼欄 >>>  ★ まず、無限は「有限(限りがある)では【ない】」でしょう。  ☆ を精確に言えば:   ○ 実無限は 限りなくつづく数のあり方を限りがあると見るチカラを有している者がそのように見たそのことを表示する概念である。 <<< この部分で食い違うようですね。 実無限を規定している(本質的には「仮定している」)公理は、「実際に数字を並べる行為」の代わりに「数学的アルゴリズム」としての「自分自身を含み、くり返す」という方法論を記述しています。 したがって、 >>>   ○ 実無限は 限りなくつづく数のあり方を限りがあると見るチカラを有している者がそのように見たそのことを表示する概念である。 <<< は、正確には ===>   ○ 実無限は 限りなくつづく数のあり方を見るのではなく、「限りなく続くからくり」を「仮説として」見るチカラを有している者がそのように見たときに「公理(仮説)」として「有限の文字数で表現可能な概念」である。 <=== でしょう。もしどうしても「有限」という言葉を入れたいのなら、上述の様になるでしょうが、「有限」なのは「実無限を表すための手法・からくり」であり、「実無限」そのものではありません。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~    ○ 実無限は 限りなくつづく数のあり方を見るのではなく、「限りなく続くからくり」を「仮説として」見るチカラを有している者がそのように見たときに「公理(仮説)」として「有限の文字数で表現可能な概念」である。  ~~~~~  ☆ この定義の仕方について 現実論の観点から 批判します。  1. ★ 「限りなく続くからくり」を「仮説として」見る  ☆ 無限つまり可能無限が 数値として限りなく続くというのは 《からくり》でも何でもないでしょう。そういう現象でしょう。  2. その現象をどうして  ★ 「仮説として」見る  ☆ 必要がありましょう? 現象は現象です。いわゆる空観によってそれは仮りに起こっているに過ぎないと言っても その仮りとしての現象があります。なぜ《仮説として》見なければならないのでしょう?  3. ★ 「公理(仮説)」として「有限の文字数で表現可能な概念」である。  ☆ 実無限が 仮説であることに間違いありません。詳しく言えば 仮説として見るチカラのある者を想定してその者の眼から見たときの数(ないしその数の扱い方) という仮説です。  3-1. √2は いかに無理数として限りなく数値がつづくと言っても 1と2との間におさまる数です。つまり可能無限というふうに《無限》という言葉を使っていても その数値は 大きくはこの経験世界つまり《広義の有限》世界の中におさまります。  3-2. それでも 人間は その数値の無限につづくその実際のアタイを知り得ません。いえ 知り得るのですが それを数えきれません。  3-3. そこでこれを数え切れるチカラの持ち主を探します。探しても いないのですが そこでそういう存在者を仮定します。その者の眼から見ると――仮定の上では―― 限りなくつづく無理数が あたかも限りを持ち得て狭義の有限のたとえば有理数 1.4 と同じだと見たかのように 扱われるとなります。  これは 1.4 と見なされるという意味ではなく 何らかの一定の数値のごとくに見なされるということだと想像されます。  3-4. つまり √2なる可能無限の数が 一定のアタイをもって見なされるそのこと(ないしそのアタイ)を 《実無限》と言う。です。  3-5. この一定のアタイは じっさいには分かりません。そのような見做しがありうると想定するのみです。  4. ですから 次の判断は 微妙です。  ★ 「有限」なのは「実無限を表すための手法・からくり」であり、「実無限」そのものではありません。  ☆ 《実無限として表わす手法》は 人間の考えたことであり むろん有限世界に属します。   しかも:  4-1. 実無限は 一定のアタイを持つかのように見なされるのですが 《有限〔の数〕》に成り代わったということではありません。  4-2. あくまで有限の数と同じように扱うことのできる視点のもとにある。のであって その視点じたいも 言ってみれば 実無限だと言えそうです。  4-3. 実無限なる眼から見て 《限りなく数値のつづく可能無限》なる無理数が 限りのある数値として扱い得るかたちになったそのアタイをも 実無限と言う。のでしょう。  

回答No.44

No.41 お礼欄 >>>  ☆☆ 真無限=実無限=神  ☆ は 数学から見れば 強引すぎるようですので  ○ 真無限=実無限≒神  とします。でも 真無限は 非経験の場という想定なのかなぁ。つまり =神 だろうか。 <<< 「真無限」という概念が不明なので、なんとも申し上げられませんが、 あえて数学記号を用いて書くのなら 「実無限」∈「神」 ないし 「実無限の集合」⊂「神」 でしょうか?。(「⊂」は「真部分集合」の意味) 「実無限は神に含まれる」です。 ただし、この場合、 ∀「存在するもの」∈「神」(すべての存在するものは神に含まれる)となって、汎神論に近づきます。 いずれにしても「神とは○○で【ある】」という肯定的な定義を「どうしても」行おうとしておられるようにしか見受けられませんが。。。

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてです。  ★ 「実無限は神に含まれる」です。  ☆ いや これは 言わずもがなのことです。    この経験世界はすべてが 神に――あるいは《無い神》に――ふくまれます。  つまり:  ★ ~~~  ただし、この場合、  ∀「存在するもの」∈「神」(すべての存在するものは神に含まれる)となって、汎神論に近づきます。  ~~~~~   ☆ そうではありません。汎神論も その人の自己表現の形態であり その一環であるというに過ぎません。ほかの自己表現を成す人もいます。つまり 人間が神をひとつの内容として規定することは 自由ですが 普遍性をそのままでは持ちません。  言いかえると その文体としての自己表現は つまりは《神とワレとの関係》を語ろうとするわけですが この神体験は けっきょく神(ないし無い神)のことをその表現に出さないことが もっとも普遍性を持つ。ということになるかと考えます。  (《語ろうとした》場合にであって 語ろうとしていないときに《神のことを出さない》から普遍性を持つという意味にはなりませんが)。  この神の定義をめぐって  ★ いずれにしても「神とは○○で【ある】」という肯定的な定義を「どうしても」行おうとしておられるようにしか見受けられませんが。。。  ☆ と受け取られてしまうということですので なかなか伝わらないうらみがありますが いま言っていることに大きなマチガイはないと思っています。

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    オートマトン言語理論計算論I(サイエンス社)という本の第7、8ページに すべての無限集合が等しい濃度を持つわけではない例として、 「整数全体の集合と実数全体の集合について考えてみよう。仮に、実数の 全体が正整数と1対1に対応づけられたとする。そのとき、各 i=1,2,3,… について小数点以下 i 桁目が、第 i 番目の実数(上の対応で正整数 i に 対応づけられた実数)の小数点以下 i 桁目の数字に法10のもとで5を加え た数であるような実数を考える。するとこれは上で正整数と対応づけられた どの実数とも異なる数である。このことから、実数全体と正整数を1対1に 対応づけることがそもそも不可能だったことがわかる。」 とあり、この議論が対角線論法と呼ばれるそうですが、何度読んでもさっぱ り理解できないのです。 特に 「そのとき、各 i=1,2,3,…について小数点以下 i 桁目が、第 i 番目の実数 (上の対応で正整数 i に対応づけられた実数)の小数点以下 i 桁目の数字に 法10のもとで5を加えた数であるような実数を考える」 がイメージできないのです。 もし対角線論法について理解されてる方がいらっしゃいましたら、是非とも ご教授願いませんでしょうか? よろしくお願いします。

  • 自然数と小数を1対1対応で対角線論法し無矛盾したい

    自然数と有理数(循環小数)を1対1対応をつけて、対角線論法して無矛盾したいです。 自然数を1から始めることにします。 斜めに拾った数字で数を作ります。 有理数は循環小数なので、0.1010101・・・を0⇔1変換すると 0.0101010・・・になるのでは?が基本アイデアです。 自然数と有理数(循環小数)の一部を2進数表記にして 対応付けを作ります。 リスト1 1:11/12 =0.916666666・・・は2進数表記で  0.1110101010101… 2:8 /12 =0.666666666・・・は2進数表記で  0.1010101010101… 3:11/48 =0.229166666・・・は2進数表記で  0.0011101010101… 4:8 /48 =0.166666666・・・は2進数表記で  0.0010101010101… 5:11/192=0.057291666・・・は2進数表記で  0.0000111010101… 6:8 /192=0.416666666・・・は2進数表記で  0.0000101010101… 7:11/768=0.014322916・・・は2進数表記で  0.0000001110101… 8:8 /768=0.010416666・・・は2進数表記で  0.0000001010101… . n:11/3*2^(n+1){nは奇数}は2進数表記で 0.(0がn-1個続いて)11101010101… n:8 /3*2^(n ){nは偶数}は2進数表記で 0.(0がn-2個続いて)10101010101… . . 1つ目の有理数(循環小数)の小数1桁目を0⇔1反転し、 nつ目の有理数のn桁目を0⇔1反転して 対角線論法で作った2進数は0.010101010101…です。 でもリスト1に数がないです。 2つ目と3つ目の間に0.0101010101010…を入れると、 対角線論法で作った2進数が変わってしまい、うまくいきませんでした。 しょうがないので一桁づらしてリスト2を作ります。 リスト2 1:11/24 =0.4583333333・・・は2進数表記で  0.0111010101010… 2:8 /24 =0.3333333333・・・は2進数表記で  0.0101010101010… 3:11/96 =0.1145833333・・・は2進数表記で  0.0001110101010… 4:8 /96 =0.0833333333・・・は2進数表記で  0.0001010101010… 5:11/384 =0.0286458333・・・は2進数表記で  0.0000011101010… 6:8 /384 =0.0208333333・・・は2進数表記で  0.0000010101010… 7:11/1536=0.0071614583・・・は2進数表記で  0.0000000111010… 8:8 /1536=0.0052083333・・・は2進数表記で  0.0000000101010… . n:11/3*2^(n ){nは奇数}は2進数表記で 0.(0がn-1個続いて)01110101010… n:8 /3*2^(n+1){nは偶数}は2進数表記で 0.(0がn-2個続いて)01010101010… となって、リスト2の2つ目にリスト1から対角線論法で作った数が出てきます。 なんとなく自然数と有理数の一部が対応したような感じがします。 リスト1とリスト2個別にみれば 単調増加なので同じ有理数に、違う自然数が対応してるような 感じがします。 ・基本的に誤りでしょうか? ・リストが2つに分かれちゃいましたが1つにまとめられますか? ・有理数全体の有限小数でつまり、循環のパターン110とか001とか がたくさんあっても対角線論法で、無矛盾するためには どうすればよいでしょうか?

  • 「無理数全体の集合Pについて、|P|>N0(アレフゼロ)を示せ」

    「無理数全体の集合Pについて、|P|>N0(アレフゼロ)を示せ」 という問題がわかりません。解き方を教えて下さい。 教科書には実数の集合の濃度がアレフゼロより大きいことの証明が載っていて、それは無限小数に関する対角線論法を使っていたので、同じ方法で証明しようとしたのですが、その場合、対角線論法により作られた新しい無限小数が無理数に含まれることを示せなかったので挫折しました。(当然実数には含まれるのですが・・・)この方法でできるのでしょうか?それとも全く違った方法を使うのでしょうか?  よろしくお願いします。

  • 実数と自然数は同じ個数なのではないでしょうか?

    すべての自然数とすべての実数を1対1で対応させる(すべての実数を一列に並べる)方法を考えました。間違いがあれば教えてください。 *方法1*「後出し」は実数の専売特許にあらず まず、すべての自然数と、異なる実数を無限に並べたもの、とを対応させるのだが、それは、異なる実数を無限に並べた「第一列」の「一番目」の実数を「1・1」とすると、 1→1・1 2→1・2 3→1・3 ・ ・ ・ と表すことができる。これはいわゆる「すべての自然数とすべての実数を1対1に対応させたと仮定したもの」であり、対角線論法によってこの表には存在しない実数を作れることから、仮定は間違い=「実数は自然数より多い」という結論になるのが従来の話である。しかしこれは、自然数を対応させる対象を「第一列」に限定したことによる間違った結論だ。 対角線上の数字のずらし方は、すべて一つずらす1111…の他に、1211…,1234…,2624…と無限にあるので、一つの対角線から、「第一列」には存在しない実数を無限に生み出すことができる。対角線論法によって生み出された無限の実数を並べた「第二列」に自然数を対応させることができなければ先の結論は正しいことになるが、そんなことは全然なく、「第二列」の「一番目」の実数を「2・1」とすると、 1→1・1 2→2・1 3→1・2 4→2・2 5→1・3 6→2・3 ・ ・ ・ のように、始めの、自然数と「第一列」の対応を解消した後、あらためて自然数を、「第一列」と「第二列」に、交互に対応させればいいだけの話なのだ。で、これは、「第一列」と「第二列」を合わせて「新たな第一列」にした(=始めの状態にリセットした)ということであり、この「新たな第一列=N1」の対角線から、対角線論法によって「新たな第二列=N2」が生まれるので、そしたらまたそれまでの対応を解消して 1→N1・1 2→N2・1 3→N1・2 4→N2・2 5→N1・3 6→N2・3 ・ ・ ・ と、自然数を「新たな第一列」と「新たな第二列」に交互に対応させ、これを無限に繰り返せばいいのである。自然数を、「新たな第二列」の実数に、無限に対応させ続けることができるということは、すなわち両者の個数は同じということなのである。 それにしても、無限に生み出される「新たな第一列」と「新たな第二列」は合わせて「新たな第一列」にできるのに、なぜ始めから一列に並べることができないのか。 方法1を別の言い方でまとめると、まず 1→1・1 2→1・2 3→1・3 ・ ・ ・ のように、すべての自然数と、異なる実数を無限に並べたもの、とを対応させるところから始めて、次に 1→1・1 2→  ←2・1 3→1・2 4→  ←2・2 5→1・3 6→  ←2・3 ・ ・ ・ と、「第二列」の実数を「第一列」に割り込ませて、始めの、すべての自然数と、異なる実数を無限に並べたもの、とを対応させた状態 1→1・1 2→2・1 3→1・2 4→2・2 5→1・3 6→2・3 ・ ・ ・ ↓ 1→1・1(1・1) 2→1・2(2・1) 3→1・3(1・2) 4→1・4(2・2) 5→1・5(1・3) 6→1・6(2・3) ・ ・ ・ にリセットして、そしたらまた 1→1・1 2→  ←2・1 3→1・2 4→  ←2・2 5→1・3 6→  ←2・3 ・ ・ ・ と、「第二列」の実数を「第一列」に割り込ませて…とこれを無限に繰り返す、といった具合に説明することができる。 *方法2*実数を整列させる 方法1は「動的な対応」とでも言うべきものであり、できれば「静的な対応」が望ましいわけで、そのためには実数を整列させる必要があるのだが、以下のようなやり方ではだめなのか。 まず 1→0.1 2→0.2 ・ ・ ・ 9→0.9 10→0.01 11→0.11 12→0.21 ・ ・ ・ 99→0.99 100→0.001 101→0.101 102→0.201 ・ ・ ・ 9999→0.9999 10000→0.00001 10001→0.10001 10002→0.20001 ・ ・ ・ …835218→0.812538… …835219→0.912538… …835220→0.022538… ・ ・ ・ というように、すべての自然数と、0と1の間のすべての実数を、1対1に対応させる。右側が「0と1の間のすべての実数」であることに異論はあるだろうか。この列に存在しない(0と1の間の)実数は存在するのか。この列は、小数第一位の数字が1,2…9,0,1…9,0,1…となっているので、だいたいその値で推移しながら、実数が、0と1の間を無限に埋めていく形になっている。 例えば、小数点以下、一恒河沙の一恒河沙乗番目が2、一阿僧祇の一阿僧祇乗番目が3、一那由他の一那由他乗番目が4の 0.1…2…3…4… のような無理数について、この並びの途中までのものしかないとしたら、ではどこまでのものならあるのか。0.1…2か、0.1…2…3か、0.1…2…3…4か。実際には「途中まで」などということはなく、つまりこの列にこの無理数は存在し、この任意の無理数が存在するなら(0と1の間の)すべての無理数が存在するのである。で、この表は左右が対称的になっているから、右に無限小数が存在するなら左には無限桁の自然数が存在するのである。 有限桁の自然数を重複することなく無限に並べることができないのと同様に、有限小数を、重複することなく無限に並べることはできない。この列は0と1の間の実数を整列させたものであり、この列に存在しない(0と1の間の)実数は存在しない。 で、すべての実数を整列させると 0,0.1,0.2…0.9,0.01,0.11,0.21… 1,1.1,1.2…1.9,1.01,1.11,1.21… 2,2.1,2.2…2.9,2.01,2.11,2.21… ・ ・ ・ (0),-0.1,-0.2…-0.9,-0.01,-0.11… -1,-1.1,-1.2…-1.9,-1.01,-1.11… -2,-2.1,-2.2…-2.9,-2.01,-2.11… ・ ・ ・ となるので、すべての自然数とすべての実数を1対1に対応させると、 1→0 2→0.1 3→-0.1 4→1 5→-1 6→2 7→-2 8→1.1 9→-1.1 10→0.2 11→-0.2 12→0.3 13→-0.3 14→1.2 15→-1.2 16→2.1 17→-2.1 18→3 19→-3 ・ ・ ・ のようになる。 ところでそれでも従来の考えが正しい場合、循環小数と非循環小数の個数に差が出る本質的な原因、両者の違いは何なのか。明確な違いは「整数比で表せるか表せられないか」だが、循環小数と非循環小数をそれぞれ循環数列と非循環数列に置き換え(今問題にしているのは個数であり、小数点を取り除いても個数は変わらない)れば整数比は関係なくなるわけだし。単なる数字の組み合わせに過ぎない同じ無限数列でありながら、循環させないというだけで個数が多くなるというのは何とも妙な話である。

  • 対角線論法 10進数展開

    対角線論法を用いて、自然数全体の集合と[0,1]区間の間には全単射な写像は定められないということを示す証明を読んでいて疑問に思ったのですが、 循環しない少数は10進数展開が一意には定まらない(例えば、2/5=0.400…=0.399…)のに、なぜ「実数a,bに対して、a,bの少数第n位が異なればa,bが異なる」というようなことができるのでしょうか? あと、循環しない少数ではない実数(1/3とか√2とかπとか)の10進数展開は一意に定まると思うのですが、その証明が考えてもわかりません。知っている方がいたら教えてもらえないでしょうか? 最後に、10進展開についても疑問があるのですが、 「実数aが10進展開できる」とはどういうことなのでしょうか? これは、An=k(n)/(10^n) (ただし0≦k(n)≦9)という数列の級数がaと一致する。すなわち、級数の部分和がaに収束する ということなのでしょうか? それとも、 {ΣAn}⊂Map({整数},{有理数})という集合(今度はAnのnは整数にすることにします。雰囲気的にはΣはローラン展開のΣに近いと思います。あと、-9≦k(n)≦9ということにします。)に自然に和を定義し、積を(小学校のときの筆算を自然に拡張する意味で)自然に定義します。そのとき{ΣAn}が体をなすことを示し、{実数全体}と{ΣAn}が同型であるとき、実数aに対応する{ΣAn}の元をaの10進展開と呼ぶのでしょうか? 以上です。よろしくお願いします。

  • 有理数無理数の定義とはなにか答えられる方いませんか?

    有理数や無理数はどのように厳密に定義されるのですか? 有理数は2つの整数の比である。 循環する無限小数である。 無理数は循環しない無限小数である。 などを耳にしますが、(無限)小数の定義は何?とか思うのですが そのように考えるのはおかしいでしょうか? 自然数や整数を定義する際に用いる言葉で有理数が定義されるべきではないのですか!? 高校生などに教える際の有理数や無理数の定義が知りたいのではなく。 どのような過程を経て、これらの数は矛盾なく定義されるのか"詳しく"知りたいです。 自然数から整数を構成して、そこから有理数→実数(無理数)という流れですよね。 こうゆうのは"群"などの話になるんでしょうか? 知っている方、回答よろしくお願いします! あと、この質問文のような内容が独学で勉強できる本でオススメなものがあれば、ぜひ教えていただきたいです。

  • 無理数や無限に区切れる小数を含めた場合でも、不完全性定理は成り立ちますか?

    無限小数や無理数を導入すると、不完全性定理は成り立たなくなるでしょうか? お答えお願いします。

  • 対角線論法による全単射有無の証明について

    以下、Wikipediaの対角線論法の項目です。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%81%AE%E5%AF%BE%E8%A7%92%E7%B7%9A%E8%AB%96%E6%B3%95#.E8.87.AA.E7.84.B6.E6.95.B0.E3.81.AE.E9.9B.86.E5.90.88.E3.81.A8.5B0.2C_1.5D.E5.8C.BA.E9.96.93.E3.81.AE.E6.BF.83.E5.BA.A6.E3.81.AE.E9.81.95.E3.81.84 こちらをみていて思ったのですが、RをQ(有理数)と読み変えてもこの証明が可能なように思えてしまいます。はて、自然数は有理数に対して全単射のはず…。 (例えば、全ての有理数をp/qの形で表し、(p,q)なる数字の組み合わせとして番号付加すると、自然数と1対1対応できてしまいます。) Wikipediaの証明が、Q(有理数全体)では成り立たないことを教えてください。

  • 有理数と無理数について

    「有理数は有限小数または循環小数となり、無理数は循環しない無限小数となることを示せ」という問いに関してアドバイスを下さい。   私的に考えた解答を書いてみます。  有理数とは、mおよびnが整数である時、m/nを有理数と呼ぶ。つまり、有限小数または循環小数が分数であるならば、有理数は有限小数または循環小数と言える。 例えば循環小数A=0.12121212・・・・を分数にする。 (10xA)-A=(12.12121212・・・)-(0.12121212・・・)     9A=12      A=4/3 となり、循環小数Aは分数となり有理数は有限小数または循環小数である。・・・・・どうでしょうか? 「無理数が循環しない無限小数である」というのは実数数において有理数以外のものが無理数だと認識している私は、分数表示できない数は無理数である・・としか示せないので、なんだか上手に表現できません。 アドバイス待ってます。

  • 無限論?

    カントールは確か、無限にも大小があると言っていますよね。2の倍数と3の倍数(ここでは、2nや3nなどと表現してnは自然数とします。つまり2,4,6などの集合と3,6,9などの集合です)は2の倍数が大きいと考えても良いのでしょうか?